On the road~青山繁晴の道すがらエッセイ~

2020-06-02 07:16:07
この日時は本エントリーを書き始めた時間です
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父死す   ( いくぶんか、加筆しました )

 きょう6月2日の夜のことです。
 当時、共同通信の東京本社政治部に「上がった」ときから、まだ間がない雨の夜、ぼくは夜回り取材に出ていました。
 上がった、上がるとは、社内用語です。新人記者として配置された地方の支社局にて経験を積み、東京本社へ異動で戻ることでした。

 するとポケベルが鳴りました。
 携帯電話はまだ普及せず、ポケットベルの全盛時代です。
 ぼくは、どんな至急報なのか、さぁ国政を揺るがす事態の発生かと勇んで、公衆電話から政治部のデスクに電話しました。
「あ、青山くん ? お父さんが亡くなったよ」
 え ?
 意味がまったく分かりません。
 父は、古い繊維会社の現役の社長です。綿スフ工業会の一角を代表して、日米繊維交渉に抗して、交渉決着のあと「政府と自民党は、沖縄復帰の代わりに日本の繊維業界をアメリカに売ったんや」と、淡々とした口調で言っていました。
 その夜には、ある国立病院に入院していました。しかし命に関わるような病状ではまったくないと聞いていました。
 ぼくが呆気にとられて黙していると、公平な人柄で仕事に厳しいそのデスクは、声が一変し「だから、お父さんが亡くなったよっ」と告げて、いきなり電話は切れました。

 政治部は、いつだって忙しいのです。

 雨粒の向こうの駅舎の明かりを、生涯、忘れることはありません。

 わが敬愛する父は、夜勤の医師がラーメンを食べに行くということで不在になったときに、痰が喉に詰まり、窒息死したということでした。ただ、正確なところはわかりません。
 やがて葬儀の前、ぼくと、会社を継ぐことになる長兄は、医療訴訟を提起することを話していました。お金のためではなく、死をめぐる真実を正しく明らかにするためです。
 すると、武士道教育に徹してぼくらを育ててくれた母が、静かな声で「やめとき。お父さんは、かえらへん」と短く言いました。
 その母の憔悴ぶりは、すべての力を喪って、まるで生きる屍のようでした。
 この母に、これ以上のストレスを与えるわけにいかないと、長兄とぼくは一瞬で、訴訟を断念しました。

 母は、のちに記者時代のぼくが複数の政党から「国政選挙に出馬してほしい」と誘われたとき、「おまえ、政治家ごとき、けがらわしい者にするために育てたのやない」と、これも短く言いました。
 父は、ほんとうは出馬してほしいと顔に書いてありました。ある閣僚経験者の後援会長だったことがあり、まつりごと ( 政 ) に関心が深かったのです。
 いま思えば、自分自身は根っこのところで気が弱いのと、ご先祖から預かった繊維会社を守らねばならないから、政治家にはなれないと父は、考えていたのではないか。
 そう感じます。
 しかし、わが子に対し鷹揚にして寛容だった父は、一切何も言いませんでした。干渉しませんでした。
 そしてぼくは、おのれの考えで出馬の話をすべて断り続けました。

 ついに出馬を覚悟する西暦2016年の6月までには、長い時間が流れました。

 今もしも、父の命が繋がっていたら、きょう参議院での国会質問も何も言わず、そしてしっかりと熱心に聴いてくれたでしょう。
 そして母は「きれいな政治に変えなさい」と、やはり短く、言ったでしょう。
 もう父も母も、すでに喪いました。
 いまだに、それが信じ切れません。
 あのとき、雨中の公衆電話ボックスに立ち尽くしていたぼくと、同じです。


 
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