On the road~青山繁晴の道すがらエッセイ~

2006-07-20 00:33:15

ツアー、またツアー





▼飛行機の中で暮らしてる、と言いたくなるほど、移動に移動を重ねる日々が続いている。

 このごろストレスがとても強いこともあって、心身の疲労度はまぁ、自分でもびっくりするような有り様だが、それよりも徒労感というやつが深いようにも思う。

 民間人、あるいは国や自治体の支援を一切受けない民間シンクタンクが、国家安全保障に関わるということが、この国では、なかなか理解されない。
 いや、公平に言うと、国や自治体などは一部の機関、一部の官僚とはいえ、ぼくらの志と仕事のあり方を、かなり分かり始めている感はある。

 いちばん理解に遠いのは、かつてぼく自身が記者として属していたマスメディアかも知れない。
 日本のメディアには、旧態依然たる権威主義の気配がある。
 たとえば、ぼくの肩書きは、なんだかよく分からない「独立総合研究所・社長」より、どっかの大学の教授かなんかの方がいいのに、という雰囲気をメディアに感じることが、ある。
 もちろん、「いつも、そうだ」というわけではないけれど。


▼ぼくのたいせつな理念の一つは、国民国家としての日本の安全保障を、お上(かみ)だけに任せず、国のほんとうの主人公である、わたしたち国民もみずからの課題として身近に、ささやかにではあっても担っていくようになることだ。
 だからこそぼく自身も、あくまで民間人として、国家安全保障に携わりたい。

 それは、批判や評論をなすよりも、安全保障の実務を遂行することが基本だから、たとえば大学の先生になるより、民間シンクタンクのトップとして、志で集まった研究員や総務部員と一緒に、日本のエネルギー・インフラをテロの脅威から護ることをはじめ国民防護の仕事に取り組み続けていきたい。

 それを、説明より、仕事の遂行を通じて、メディアにも伝えたい。

 とはいえ、ぼくも生命力に限りのある、ひとりの人間なので、徒労感があまりに深くなって、ふと飛行機のなかで険しい顔になっていたりする。


▼ぼくがまだ若手の記者だったころ、先輩の記者やデスクの顔がいつもあまりに険しいのを見て、厳しい仕事ぶりに胸のなかで敬意を払いつつ、こんな表情にはなりたくないなぁと考えていたのを思い出す。

 険しい顔ぐらい、せめてしていないと、この強烈なストレスには耐えられないのかもしれない。

 そうは思いつつ、できれば、淡々と、どこまでも淡々と、どんな深い職務もやり遂げていきたいな。
 迎えるべき死を迎えて、天のどこかへ埋もれる、そのときまで。
 われらみな、一死一生にてそうろう。



※写真は、7月5日に北朝鮮が弾道ミサイルを連射した、その2日後、佐世保の軍港を訪ねたときです。
 独研(独立総合研究所)の研究本部・社会科学部の若きエース研究員Nくんが同行し、軍事的側面よりもむしろ、『もしも北朝鮮のミサイルがここを狙って着弾したときに地域の市民をどう護るか』に焦点を絞って、視察しました。

 ぼくの背後にいるのは、海上自衛隊の護衛艦隊。
 ぼくが立っているのは、アメリカ海軍の基地。
 世界でもトップレベルの良港である佐世保は、敗戦後、多くのスペースをアメリカ海軍に占有され、その横に海上自衛隊がいます。
 そういう意味では、佐世保は、いわば帝国海軍の空しい夢の跡でもあります。
 明治16年・1883年に、佐世保を調査し、帝国海軍の「西海鎮守府」に決めたのはひとりの小柄な、眼の大きな海軍少佐、のちに日本海海戦を制した東郷平八郎元帥です。

 ぼくは、ふだんは海上自衛隊の側からアメリカ軍基地を見ることが多いのだけれど、今回は、アメリカ海軍の側から日本の海洋防衛力を見ました。
 ただしそれは、前述したように、今回の佐世保訪問の主目的、あるいはハイライトではありません。
 主目的は、市民をいかに護るかです。
 そのことは、独研のふだんの仕事のあり方と同じです。

 写真をアップして気がつきましたが、珍しく腕時計をしていますね。
 ぼくは、身体を拘束する感じのものが苦手なので、講演の時以外は腕時計もしないのですが、旅が時間に追われ続けているので、このときは、していました。
 公用船に乗り込んで洋上から湾内を調査する日程もあったので、水をかぶるのに備えて、防水時計です。
 ただし、安物。


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