Profile

夜半につれづれ語る来し方、そして、先行き


*西暦2014年、平成26年、皇紀2674年12月末現在
(折に触れ、書き足していきます)


▼ぼくは、ひとりの物書きです。
 また、独立系シンクタンクで代表取締役社長と、首席研究員を兼ねています。
 そして大学の経済学部で国際関係論を講じています。

 そのほかテレビ番組、ラジオ番組に顔を出すこともあります。
 講演を全国と海外で行っています。
 このテレビ、ラジオ、講演はすべて、ささやかに問題提起をするための行動です。テレビタレントや講演業といった仕事をしているのではありません。


▼陽射しと海風の明るい街、神戸市に生まれました。
 東京に棲む今でも、この街のあっさりした都市感覚がこころと身体に馴染みます。神戸を訪ねて港をみていると、ぼくの性格のルーツはここにあるなと感じます。
 父は、ふるい繊維会社の経営者の家庭で八人兄弟の末っ子でした。その父が繊維会社の神戸支社に勤めていたとき、ぼくが生まれたのです。
 末っ子だから社長になるはずもなかった父が、兄弟を次々に失いました。伝え聞いた限りでは、日本で初めてハーレイダビッドソンの大型バイクに乗っていて川に転落死したお兄さん、落馬で亡くなったお兄さん、病で早世したお姉さんらが居たそうです。
 ひとり生き残った父は、社長となり、本家(ほんけ)のある県央の加西市へぼくら家族と引っ越しました。
 ぼくはそこから、姫路城のお膝元にあるミッション・スクール、淳心学院中高等学校に通いました。
 いずれも兵庫県です。だから兵庫県内だけで、ふるさとは3か所あります。


▼そして、ぼくも末っ子で、ちいさな頃から「おまえは家督を継げない。おまえだけは家から何ももらえない」と親に繰り返し言われて育ちました。
 おかげで、ささやかな自立心が育まれたと考えています。
 高校の卒業とともに家を去り、慶應義塾大学の文学部に通いました。東京の街も大好きです。

 しかし二十歳の前後のぼくは、生き方に苦しみ抜き、慶応を誰にも相談せずに中退しました。
 福沢諭吉先生の創った慶応は今でも好きです。しかし文学部で人間の根っこを考えようとして、若気の至りか哲学をはじめとする学問のあり方に失望もし、学ぶのなら現実に世の中をすこしでも良くするために経済学を学び直そうと考え、経済学部に転部しようとしました。
 けれども当時の慶応には転部制度がありませんでした。
 そこで考えを貫くために中退し、大隈重信公の創った早稲田大学の政治経済学部を一から受験し直したのです。早稲田では下手なアルペンスキー競技で大怪我をし、5年かかって卒業しました。


▼というわけで卒業の時はすでに26歳でしたが、どうにか共同通信の東京本社編集局に記者職で入社しました。
 初任地の徳島支局を振り出しに、京都支局、大阪支社経済部を経て東京本社へ戻り、政治部記者となりました。
 当時の共同通信政治部には自由な空気があり人間関係にも恵まれて、記者を天職とも思っていました。
 たとえば西暦1988年9月、深更の皇居に日赤の車が入り、理由が掴めず全マスメディアが騒然としていたとき、昭和天皇が洗面器に一杯、吐血なさったという事実、昭和が終わるという歴史の変わり目をいち早く初めて報じることができたのは、取材先、情報源との信頼関係と、それから社内で「事実を正確に掴む」ということについて日頃の信任があったからでした。
 今でも感謝は尽きません。現在の情報収集にそのまま繋がる記者経験を、事件、経済、政治・政局、安全保障、外交の各分野で取材先、情報源、そして共同通信に積ませてもらいました。
 共同通信の基本的な論調とぼくの考えは大きく違いますが、それも含めて凡(すべ)てを養分に育ちました。


▼記者生活17年目の1996年、クリスマスの頃に、日本が初めて体験する国際テロ事件であったペルー事件(ペルー日本大使公邸人質事件)に、外務省担当サブ・キャップとして遭遇しリマに特派されました。

 人生とは不思議です。
 ペルー事件という、たったひとつのテロ事件がなかったら、現在の独研(独立総合研究所)も無くて、社員たちとの出逢いも無かった。
 沢山のひとに毎週、生で視ていただいている報道番組「水曜アンカー」(関西テレビ)も、おなじく聴いていただいているラジオ報道番組「ザ・ボイス木曜版」(ニッポン放送)もぼくの参加は無かった。
 独研の会員制クラブ「インディペンデント・クラブ」(IDC)、自主開催している独立講演会、あるいは新刊書を出すたびに開いているサイン会に集う多くのみなさんとの触れあいも無かった。
 独研から会員制で配信している東京コンフィデンシャル・レポート(TCR)の沢山の会員のみなさんとも何のご縁も生まれなかった。
 そして国際関係論を講じている近畿大学経済学部の学生諸君との出逢いも何も、一切が無かったのです。
 ペルー事件が起きていなければ、ぼくは共同通信を辞めず、転身も無かったからです。


▼このペルー事件が真相を伝えきれないまま終結したあと、ぼくは共同通信を辞めると言うより記者であることを辞めようと決意しました。
 理由は幾つもありました。大きなものは、ふたつです。
 ひとつ。事件で人質になった日本人がくださった勇気ある証言を書いた記事が、当時の独裁者アルベルト・アルベルト・フジモーリ大統領の報復への懸念でボツになったこと。
 ボツにした共同通信の判断は、やむを得ない正しい判断だったと、今でも考えています。ラテン・アメリカの独裁者は何をするか分からなかった。日本でのフジモーリ大統領への評価、俗論と現実は違います。
 しかし一方で、証言者に対するぼくの責任は別です。
 もうひとつ。当時の共同通信の総務部門が、ぼくに情報源を明らかにするよう迫り、編集部門の責任者のなかに、これに同調した人がいたこと。
 リマのホテル屋上に臨時設置された日本政府の現地対策本部は、接触が一切できませんでした。そこで情報源となってくれた日本政府高官に連絡を取るには、たとえば「サッカー場のB入口。午前3時」と書いたメモを、対策本部へコーヒーを持って行くホテルのボーイさんにお金を払って渡し、返事は受け取らないまま、その時刻にぼくは出かけていく。3回に1度から4回に1度のペースで、高官が来てくれる。そのようにしていました。
 ほぼ5か月のあいだ毎日、複数回、これを実行していましたから、総額はかなりの取材費になります。総務部門は、この情報源とは誰なのかを明らかにするよう求めました。しかし政府高官は、「事件が終わって日本に帰国してからも、共同通信社内であっても誰が情報源であったかは明かさない」とぼくと約束を交わしたうえで、こうした取材に応じていました。
 また取材源の秘匿を破るのは、報道機関として死にも等しい行為です。記者は拷問や処罰にも耐えて取材源、情報源を護らねばなりません。報道という使命がある限り、それは永遠のルールです。
 さらに当時の橋本龍太郎総理が共同通信に対して「青山電(リマ発青山共同記者、とクレジットが付いた特ダネ記事)の情報源は誰か明かせ」と圧力をかけていた事実も、社内の良心的な人から聞いていました。
 ぼくは共同通信を辞することによって、情報源を当然ながら、守り切りました。 ぼくを見送った政治部の先輩のなかには、「これで自由な共同(通信)はもうオシマイだ」と言ったひともいました。
 ぼくは45歳でした。
 記者生活は18年8か月にわたりました。

 その頃の自宅近くで、東京の隅田川の川面をみながら「以下、余生なり」と、こころに定めました。
 いったんは天職と思った記者をみずから辞めるからです。


▼そして余生では、記者時代と真逆で、ひとのなさることを批評する前にみずから実務を遂行すると決めました。
 だから前述のように、ぼくはテレビやラジオの番組に顔を出すことがあっても、評論家ではないし、ましてやテレビタレントではないのですね。
 記者の次の仕事に、三菱総合研究所(三菱総研)の研究員を選んだのもそのためです。
 日本では一般的にシンクタンクは提言が仕事と思われがちですが、ぼくは三菱総研で、原子力発電所のテロ対策をはじめ実務に徹していました。
 上司に言われてやった仕事は、皆無です。
 すべておのれで立案し、政府にしろ民間にしろ相手先とみずからの人脈で交渉し、研究プロジェクトを立ち上げて、実務に関わっていきました。


▼この三菱総研に4年3か月いて、つくづく考えたことは、民間の智恵をお上にお仕えするために使っていては祖国日本に未来はないということです。
 シンクタンク、あるいは総合研究所は、智恵の集積です。
 ところが日本社会の場合、民間のシンクタンクはお上、政府が決めた方針を裏打ちするという仕事がほとんどです。
 たとえば仮に政府が「東京湾を埋め立てたい」と考えたら、「埋め立てても環境は大丈夫」という、あらかじめ決められた結論に沿う調査・研究を受託して、国民の税金から委託金を受け取るという仕組みです。
 官尊民卑、お上から仕事を頂くのが民間だという体質が、シンクタンクなどというカタカナの業界にも抜きがたく染み込んでいます。


▼これを知ってぼくは、仲間と語らって、西暦2002年4月に日本初の純然たる独立系のシンクタンクとして独立総合研究所を創立しました。
 最初は有限会社としてスタートしましたが、すぐに株式会社となりました。会社組織なのは、利潤を追求するためではなくて、食い扶持はすべて自分たちで稼ぎ、いかなる補助金の類いにもお世話にならずに完全に自立して自由自在に行動するためです。

 調査・研究について最大の特徴は、政府からの委託を待つのではなく、こちらから「政府の施策のここが間違っている。ここが足りない」と指摘し、「正しい政策に転換するために、こういう調査・研究をやるべきだ」と逆提案をすることです。
 その調査・研究を行えば当然、時の政権にとって都合の悪い結論を導き出すこともあります。
 だから、なかなか政府機関は、独研(独立総合研究所)の提案に耳を貸しません。
 しかし日本の凄いところは、官民を問わず、どこの組織にも少数であっても良心派が居ることです。
 100件に1件も、日本の政府機関が耳を貸すことはありません。しかし1000件に1件ほどは「その通り、今の施策には問題がある」と応じることがあるのです。

 その場合、独研の提案による調査・研究プロジェクトは、競争入札に付されます。
 すると独研を潰すためにも、極端な安価で応札するシンクタンクがあったりします。実態としては「1円入札」に近い応札もあります。
 ぼくたちが提案をするのは思いつきではありません。
 提案をするまでに、予備調査、自主研究を重ねているので、膨大な費用が掛かっています。こういう不当な応札があると、それが全部、無駄になります。
 それだけなら独研の苦しみに過ぎませんが、問題は、その研究プロジェクトを既得権益型のシンクタンクが行うと、調査・研究の結果が時の政権に都合のよいものにすり替わってしまう懸念があることです。
 さらに、こうした既得権益型のシンクタンクは、入札を行う省庁の官僚に天下り先などを巧妙に用意し、他の研究プロジェクトを莫大な金額で落札して、独研の提案した研究プロジェクトでの赤字を取り返します。
 また、独研だけが目障りですから、業界で談合している時もあります。
 このようにして、たいせつな民間の智恵をみずから貶めることが行われます。


▼だからシンクタンク、独研(独立総合研究所)の経営は苦闘千里ともいうべき仕事です。
 それだからこそ、まさしくぼくの本職のひとつです。


▼シンクタンクというのは、共同通信から三菱総研に移ったために知った仕事です。
 物を書くという仕事は、小学生の時代からぼく自身も両親も先生も友だちも、いわば必ず青山繁晴がやるだろうと確信していた仕事です。
 小中学生のころ、文章でいくつかの賞を受けていました。
 しかし共同通信にいるあいだは、匿名でノンフィクションの本3冊ほどを書いただけで、あとは記者として報道記事を書くことに徹していました。それは共同通信から制約を受けていたのではなく、組織に対するぼくなりの信念、記者という仕事へのささやかな姿勢からです。

 共同通信を去って三菱総研に移り、そこから、おのれの作品を書き始めました。
 まず最初に書いたのは、純文学の小説、「夜想交叉路」でした。
 これは西暦2000年4月に、第90回文學界新人賞候補となりました。編集者は受賞を確信されていたようでした。しかし選考委員のなかから「この作品にだけは授賞したくない」という声も一部に出て、この回の文學界新人賞は「受賞作品なし」となりました。 編集者からは次作を書くよう強く勧められ、昭和天皇の崩御を時代背景とした純文学の小説、「平成」を7回の書き直しを経てようやく書きあげ、これは「文學界」(文藝春秋社の文芸誌)に掲載され2002年8月に単行本として文藝春秋社から出版されました。
 まったく無名の存在として書いた小説でしたが、読売新聞から赤旗(共産党の機関紙)まで書評は沢山の新聞、論壇誌、文芸誌に掲載され、正直、たいへん驚きました。まるで売れませんでしたが、一方では各地の図書館にはこれも驚くほかないほど多く、収蔵されました。
 現在は初版のまま絶版となっています。

 編集者からは第3作の小説を書くよう、これも強く奨められ、西暦2002年3月16日に起稿しました。
 (*「夜想交叉路」は印刷されていません。印刷されたのは「平成」が最初です。
 したがって、この第3作の小説は実質、第2作とも言えます)

 ところが、三菱総研そして独研の仕事が恐ろしいほどに多忙となり、またテレビ番組への参加、無償で引き受ける公職などが始まり、書く時間を確保できません。
 そしてもっと影響したのは、「おのれの一番やりたいこと、好きなことは後回しにして、人のためにやることを優先させよ」という考えでした。
 これは家庭教育によって培われた考え方です。
 ですから、書くことよりも公職などで動くことを優先し、書くことのなかではノンフィクションを書くことを優先し、一番やりたい小説執筆は、意図して後回しにしていました。
 さらに、小説第3作は新しい方法論にチャレンジしたくて、「肉体を文章で表現する」ということを試みたために、非常に難渋しました。書き出しはすんなり定まっていったのですが、その「肉体を文章で」という箇所になると、投げ出したいほど難しかったのです。
 しかし、それでも2013年7月4日、起稿から11年3か月半を経て初稿を脱稿しました。
 そのあとも編集者の意見にも耳を傾けながら改稿を重ね、2014年10月11日に第11稿(196枚)を脱稿して、一応の完成稿としました。起稿からは実に、12年と7か月ですね。
 このあいだに、編集者は何代も代替わりをしてしまいました。
 この原稿の扱いは2014年の年末現在、まだ決まっていません。
 掲載先、あるいは出版元が決まれば、その編集者と最後の手を入れることについて、すなわち第12稿の執筆を話し合いたいと考えています。ただし終末部分の、わずかな書き足しだけにするつもりです。
 タイトルは「灰猫」か、「骨の宿題」か、いずれかにする予定です。

 絶版になっている「平成」は、できれば「平成紀」と改題して、一部に手を入れて再出版したいと考えています。これも編集者との出逢いを待っている状況です。
 2015年は、新しい短編小説、新しい長編小説、それぞれ1作を書きあげたいと考えています。
 いずれも長く、なが~く構想してきた小説です。


▼一方、ノンフィクションの方は、論壇誌などへの寄稿は別として、単行本で言えば2003年3月の「世界政府アメリカの『嘘』と『正義』」(飛鳥新社)が最初です。
 ただし、これより前の2001年10月に対談本を出しています。
 続いて、2004年5月に「日本国民が決断する日」(飛鳥新社)を出したあと、しばらくシンクタンク研究員と公職のウルトラ多忙でノンフィクションを書く時間も見つけられず、2008年6月にようやく「日中の興亡」(PHP)を世に問いました。
 ノンフィクションの書き手としては、この第3作から本格化したとおのれでは考えています。

 第4作の「王道の日本、覇道の中国、火道の米国」(PHP)を翌2009年8月に出しました。
 そして東北に大震災が起きた年、2011年の12月に、ノンフィクション第5作の「ぼくらの祖国」(扶桑社)を世に問いました。
 この通称「赤本」と言われる「ぼくらの祖国」は現在も読み続けられ、すでに21刷(2014年12月現在)を数える、思わぬロングセラーとなっています。
 この作品は、長いあいだ構想してきた一作でもあり、ノンフィクションの書き手としては分岐点になりました。
 その翌年の2012年3月には、第6作の「救国 超経済外交のススメ」(PHP)を出しました。
 続く2013年は、さまざまなノンフィクション編集者の要望に応えて、期せずして対談本、鼎談本、そして共著の年になりました。
 2013年3月に「青山繁晴、反逆の名医と『日本の歯』を問う」 (ワニプラス/河田 克之氏との対談)、4月に「アベノミクスが激論で解けた!」(ポスト・サピオムック/三橋貴明、須田慎一郎両氏との鼎談)、6月に「希望の現場 メタンハイドレート」 (ワニプラス/独研・自然科学部長の青山千春博士との共著)、8月に「海と女とメタンハイドレート」(ワニブックスPLUS新書/青山千春博士との共著)と相次ぎました。
 対談、鼎談といっても、ぼくの場合は日本語としての完成度を高めたいので、発言内容は変えずに文章そのものは徹底的に吟味します。
 そのために、おのれで書きおろしていくよりも余計に時間もエネルギーも消費し尽くします。
 共著も同じで、青山千春博士の書いた部分をよ~く吟味したうえで、それを活かす文章、ぼくの担う部分を書こうと苦しみ抜きます。
 だから2013年は、物書きとして一番たいへんな年になりました。

 さらに、この翌年2014年は8月に、対談・鼎談・共著を別にするとノンフィクション第7作となる「死ぬ理由、生きる理由 英霊の渇く島に問う」(ワニプラス)を読者に問いました。
 これは初めて、講演録を元にした書ですが、対談などと同じように文章化するとき日本語としての完成度を高めることと、発言内容を変えないことの両立を図るために苦吟し抜きました。
 しかし「ぼくらの祖国」の正編というべきノンフィクション第8作「ぼくらの真実」(扶桑社)の書き下ろしに取り組み、年末ぎりぎりに刊行することができました。
 2015年は、ノンフィクションとしては「ぼくらの祖国」、「ぼくらの真実」に続く「ぼくらの行動」(仮題)を出したいと考えています。


▼ぼくの仕事としては、このほかに公職があります。
 これも記者を辞めてから始まった仕事ですが、ぼくにとっては当然ながらこちらからオファーしたこと、働きかけたことは一度もありません。
 すべて予兆もなく、ある日突然にオファーが来ます。

 2000年5月に、兵庫県加西市の「市総合計画特別審議員」を委嘱されたのが皮切りです。
 2002年には、経産相の諮問機関「総合資源エネルギー調査会」専門委員、2003年に総務省消防庁の「首都広域防災拠点」検討委員、2006年に内閣の原子力委員会・原子力防護専門部会専門委員、2007年に海上保安庁の政策アドバイザー、同年に原子力委員会・原子力新大綱策定会議委員、2011年に内閣の日本版NSC(国家安全保障会議)創立有識者会議議員、同年に文科省参与(日本原子力研究開発機構改革本部委員)、2014年に総務省消防庁の消防審議会委員、同年に総務省の「NHK海外情報発信強化に関する検討会」委員となりました。
 これらは現職のもの、元職のものがあります。前述したように、現職はすべて報酬を返上しています。

 こうした仕事に関連して、国会で3度、参考人として証言しています。(有事法制、福島原子力災害、特定秘密保護法の各テーマ)。
 また「中東戦略会議」(カタール)、「テロ対策国際戦略会議」(アメリカ)などに元外相らと共に公式招待され参加しています。


▼独研(独立総合研究所)の代表取締役社長・兼・首席研究員として、日本が建国以来初めて抱擁している自前資源であるメタンハイドレートの調査・研究にも関わり、地球物理学をめぐる世界最大の学会であるAGU(AmericanGeophysical Union/アメリカ地球物理学連合)で3度、口頭発表を行っています。
 うち2014年の発表は「招待講演」でした。


▼2006年4月、近畿大学経済学部の客員教授となり、国際関係論を講じています。
 教授会には出ませんが、1時間半の授業をふたコマ持ち、試験を行って学生に単位を出しています。
 ぼくにとっては毎週、毎講義、力を出し尽くす、もっとも辛い仕事です。理念と目標をみずから捨てた国家にあって、学生諸君にどうやって志を立ててもらうか、そのためのちいさな苦闘です。


▼マスメディアでの発信については、いつか記す時もあるでしょう。
 今は、みなさんがたまたまご覧になった時のご縁だけにしておきます。
 ただ、2013年に、ニッポン放送のラジオ報道番組「ザ・ボイス木曜版」で飯田アナウンサー、スタッフと共に民放連賞を受賞したのは嬉しいことでした。


▼新ブログを立ち上げるために、みずからのプロフィールを整理してみて正直、めまいがしそうな感覚に襲われました。
 いくらかの体力、気力はあっても、仕事が多すぎます。
 たとえば「講演も行っています」と簡単に書きましたが、実際は、130回を超える年もあります。そのなかには、高校生という祖国の未来そのものの存在に、声を枯らして呼びかける講演もあります。
 ノドは潰れ、独立講演会では5時間前後、立ちっぱなしです。
 しかし仕事を削るつもりはありません。
 なぜなら、独研もぼくもセールス、営業活動、売り込みといったことをしないので、すべての仕事が向こうから来たもの、すなわち天命だと考えているからです。


▼こうした仕事の日々ですが、関心や趣味は、文学はもちろん、音楽(交響楽からオペラまでクラシック、ジャズ、ロック、ポップス、ボサノバその他ほとんどすべてのジャンル)、美術(絵画、彫刻、現代美術まで、これもほぼすべてのジャンル)に及び、実は、ライブも行っています。
 最近では、京都で1回、福岡で2回の計3回、行いました。
 あと映画は三度のごはんより好きで、自宅で原稿を書くときはだいたい何かの洋画、邦画をみながらです。
 ただし現実には、揺れるタクシー、新幹線車内、機中で書くことの方がはるかに多いですが。

 そして20歳前後でいくらか関わっていたモータースポーツに、50歳を過ぎてから復帰し、失効していたA級ライセンスも取り直し、いま仕事以外で一番やりたいのは、こういった「するスポーツ」です。
 特に、上記のモータースポーツ、アルペンスキー、スキューバダイビング(パディ・ライセンス)、乗馬、水泳をやります。
 球技にはたまたまご縁が無いのですが、子供の頃は草野球でエース・兼・4番打者…というのは大袈裟でただ空き地でみんなで野球の真似事をしていただけです。しかし球技も実は好きなので、できればテニス、ゴルフあたりも練習したいですね。
 いったい人生がいくつあったら、足りるか。わはは。


*プロフィールの番外編「選ぶとしたら」
(旧ブログのものを、すこし書き改めました)

▽世界中の小説から、ただ一作だけを選ぶとしたら
 カフカ 「変身」 (※これ以上、深く共感した小説はない)

▽一作だけではなく、作品群全体を考えて、ただ一人の作家を選ぶとしたら
 ドストエフスキー (※「賭博者」以外の作品は、みな身近に感じる)

▽世界中の詩から、ただ一作だけを選ぶとしたら
 安西冬衛 「春」 (※潔い深さに、日本人に生まれた幸せも感じる)

▽一作だけではなく、作品群全体を考えて、ただ一人の詩人を選ぶとしたら
 ランボー (※詩作のあとに沈黙し、砂漠の商人になったことも含めて)

▽世界のノンフィクションから、ただ一作だけを選ぶとしたら
 吉田満 「戦艦大和ノ最期」 (※人間の尊厳をこれほど表現し得た作品を知らない)

▽世界中のクラシック音楽から、ただ一曲だけを選ぶとしたら
 シューベルト 未完成交響曲 (※瑞々しさが胸に染みこむ)

▽一曲だけではなく、作品群全体を考えて、ただ一人の作曲家を選ぶとしたら
 ベートーベン (※あまりに親近感が強すぎて、ちょっと聞くのがつらいこともある)

▽世界中のジャズから、ただ一曲だけを選ぶとしたら
 コルトレーン 「朝日のように爽やかに」 (※生きる悲しみが、朝の波のように静かにうち寄せてくる)

▽一曲だけではなく全体を考えて、ただ一人のジャズ・ミュージシャンを選ぶとしたら
 (選べません。強いて言えば、コルトレーン)

▽世界中のポップスから、ただ一曲だけを選ぶとしたら
 サンタナ 「ブラック・マジック・ウーマン」 (※リズム、ギターの泣き、すべてが好きです)

▽一曲だけではなく全体を考えて、ただ一人のポップス・ミュージシャンを選ぶとしたら
 ルシオ・デュルカル(※スペイン語圏では圧倒的人気だった女性歌手。指の美しさも印象的でした)

▽世界中の絵画から、ただ一作だけを選ぶとしたら
 レオナルド・ダ・ヴィンチ 「最後の晩餐」 (※ドラマと美の統一感がある)

▽一作だけではなく、作品群全体を考えて、ただ一人の画家を選ぶとしたら
 (選べません。強いて言えば、ゴヤ)

▽世界中の彫刻から、ただ一作だけを選ぶとしたら
 ミケランジェロ 「ダビデ像」 (※人間が意志を持つことの美しさを感じる)

▽一作だけではなく、作品群全体を考えて、ただ一人の彫刻家を選ぶとしたら
 高村光太郎 (※この人の彫刻が、一番身近に思う)

▽世界中の映画から、ただ一作だけを選ぶとしたら
 ギリアム監督 「未来世紀ブラジル」(※ただし、どうしても受け入れられないシーンあり)

▽一作だけではなく、作品群全体を考えて、ただ一人の映画監督を選ぶとしたら
 (選べません。強いて言えば、クリント・イーストウッド)

▽世界中の女優から、ただ一人だけを選ぶとしたら
 リュドミラ・サベーリエワ(※これは評価ではなくて、ただ女性として好きなんです。演技者としては、メリル・ストリープかな)

▽世界中の男優から、ただ一人だけを選ぶとしたら
 クリント・イーストウッド (※この人の新作映画なら、無条件に何でも見たい。飽きそうで飽きない。ただし、マカロニ・ウェスタン・シリーズは敬遠です)

▽日本中の頑張っている女性から、ただ一人だけを選ぶとしたら
 クラシックギタリスト・村治佳織(※自分だけの芸術を創る生活を、厳しく、熱っぽく、それでいて淡々とさりげなく生きる姿勢に感嘆しています。このごろの女の人って、ほんとに凄いなと思う。その代表格、あるいは一つのいい例ですね)

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