On the road~青山繁晴の道すがらエッセイ~

2020-10-17 03:08:50
この日時は本エントリーを書き始めた時間です
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ビックリ、オドロキ、ワハハの少なさです  (眠くてたくさん間違えました。修正してあります)

▼11月11日に発刊となる、小説第2作の「わたしは灰猫」 ( 扶桑社 ) の初版部数のことです。
 きのう金曜日の夕刻、ある会議 ( 国会議員としての会議ではありません ) に参加しているとき、編集者からメールが届きました。
 18年4か月あまりも、命を削りに削って、ようやく完成させて、これか。
 一瞬、そう思いました。しかし、すぐ会議に集中して、頭から外しました。

▼そこから何時間も経て、いま土曜の未明となり、原稿を書きながら、頭の隅であらためて考えています。
 長いこと、沢山の本を出していますが、初版がこんなに少ないのは、まったく初めてです。
 すこしまえに新しく発刊されたノンフィクションの新書、「きみの大逆転 ハワイ真珠湾に奇蹟が待つ」 ( ワニブックスPLUS新書 ) と比べても、話にならないぐらい少ないです。
 この「きみの大逆転」の初版もしっかり少ないですが、それよりもさらに、遥かに。
 ですから、想像を超えています。
 ゼロひとつ、見間違えたかと思いました。

▼無理もないです。
 出版社の幹部が、こう判断するのは自由ですし、長いこと作品を完成させなかったこちらが悪いのです。
 作品を出さないということは、その分野において、忘れられても仕方が無いということですから。
 ノンフィクション分野と比べて、小説分野におけるぼくの信頼がこれほどまでに無いという現実でもあります。

▼小説の書き手としては、まず「夜想交叉路」という純文学の100枚ぐらいの第一作を書きあげました。
 共同通信の記者を辞めて三菱総研の研究員になり、同じサラリーマンでも、ずっと自由な立場になった直後のことです。自由になったために、子どもの頃から考えていた小説を、やっと書く気になったのでした。
 この作品が、伝統ある文芸誌の「文學界」 ( 文藝春秋 ) の「文學界新人賞」の最終候補4篇のなかに残り、これを連絡してくださった編集者 ( 当時 ) は、受賞の可能性が高いと考えられたようでした。
 しかし、結局この回の文學界新人賞は「受賞作品無し」に終わりました。したがって「夜想交叉路」は印刷されない、幻の作品となったわけです。

 すると、この編集者が「ぜひ、次の作品を書いてください」と熱心に仰ってくださいました。
 そこで純文学小説の「平成」 ( 当時のタイトル ) を書きあげました。
 これが文學界に掲載され、小説のデビュー作、印刷されたものとしては小説第一作になりました。
 これだけでも喜んでいたら、文藝春秋の出版担当の人がふたり、訪ねてこられて「いい作品だから、本にしたい」と仰いました。
 そして「芥川賞の候補を選ぶ第一段階の会議で、この作品が話題にもなりました。しかし、この小説は明らかに著者の記者経験を踏まえているから、ほんとうにフィクションが書けるかをみるべきだという声が出て、見送られました」という話をされました。
「文學界」の編集者からも、「今度は、まったくのフィクションである小説を書いてください」と言われました。

 書き手のぼくは、「平成」において「事実をそのまま小説化する。記録文学と小説を融合する」という試みをするのがもともとの意図でしたから、この評価をなるほど、と思いました。
 一方で、作家専業になる気はありませんでした。
 記者時代に直面した、祖国の現実、それを実務者として切り拓く仕事と両立させようと、ごく自然に決意していたからです。
 そして三菱総研にて、外交、安全保障、危機管理、資源エネルギーの実務に携わりながら、その「まったくのフィクション」を書き始めました。
 これが「灰猫」 ( 元のタイトル ) です。
 モデルの一切ない登場人物、モデルのカケラもない出来事、それを描いていきます。
 この起稿が、平成14年、西暦2002年3月16日のことです。
 その年の夏には、「平成」が文藝春秋から予定通りに単行本として出版されました。この本は、驚くほどあちこちの書評に思いがけず取り上げられました。読売新聞から赤旗までです。

▼この同じ年の4月、ぼくは三菱総研を出て、日本初の独立系シンクタンクとして独立総合研究所(独研)を創立し、代表取締役社長・兼・首席研究員となりました。
 26歳で記者になってから、正直、想像以上の忙しさでしたが、記者から三菱総研の研究員になった時点で、代わりが居なくなりました。
 共同通信の記者時代は、たくさんの記者がいて交代で休みを取れる生活ではありました。
 三菱総研も、シンクタンクとしては非常に多くの研究員がいます。しかし外交、安全保障、危機管理の担当の研究員というのは、ぼくが初めてでした。資源エネルギーについては、他に研究員がいたかも知れません。しかし、その資源エネルギー分野も含めて、これら4分野に経済も合わせて国家戦略を立案するという役目の研究員はそれまで居なかったのです。
 ということは、代わりが居ないので、休めなくなりました。
 それが独研の社長になると、もっと多忙になります。社員全員の生活を預かっている責任もあります。

 これと作家を両立させるのは、至難の業でした。
 どんどん注文が来るノンフィクション分野の本は、辛うじて出すことができても、「灰猫」の完成は遅れるばかりでした。
 小説の分野では、「平成」を「平成紀」と改題し、本文も改稿して、幻冬舎から平成28年、西暦2016年に文庫本として出版されただけです。
 単行本の出版から実に14年後の文庫本化、異例のことでしたが、読者のみなさんの強い希望によるものでした。
 だから嬉しかったですが、新たな小説作品が出たわけではないので、小説分野では依然、死んだも同然だったと言っていいと思います。

▼そのあいだも、「灰猫」は改稿に改稿を重ねて、そして何度か編集者に見てもらいました。
 この過程で、ちょっと信じられないような数奇な運命も辿りました。それはまたいつか、書く日も来るでしょう。

 そして「わたしは灰猫」と改題し、今年の7月、起稿から18年と4か月余りを経て、ようやくにして最終の脱稿をみたわけです。
 物書きとしてのぼくは、4年3か月前に国会議員となってから、ほんとうにしんどい思いをしています。
 憲法9条の改正を強く求めることをはじめ、祖国を甦らせる立場の国会議員ですから、現在の日本社会ではあからさまに存在を無視されます。排除の動きは絶え間なく、あります。
 それが作家としてのぼくにも、降りかかります。
 この世にそんな書き手はいないことにする、これが現実に繰り返されます。

▼しかし、「わたしは灰猫」の初版部数が極端に少ないのは、それと関係ないと考えています。
 自ら整理する意味もあって、上に記しましたように、18年以上も新しい作品を出していなければ、小説の書き手としては忘れられるのも当然です。一切合切、ぼくの責任です。

▼ただし、ノンフィクション分野の「きみの大逆転」も、もはや、ろくに書店に置かれていないようです。
 議員になる前は必ず、「書店で山積みに置かれているのを見ました」という書き込みが、このブログに来ましたが、今は皆無です。
 逆に「どこの書店に行っても、ありません」、「前は青山さんの本を大量に置いていた書店にも無いので、書店員さんと探し回っていたら、ようやく別の書店員さんが『これですか』と1冊をどこかから出してきてくれました」という書き込みばかりが来ます。
 ある意味、凄まじいですね。
 ぼくのほんらいの人生は、この意味でも、粉々に壊れています。

▼「わたしは灰猫」より初版の部数がずっと多い「きみの大逆転」ですら、書店に無いのです。
 遥かに少ない「わたしは灰猫」が書店に並ぶはずもありません。並べたくとも、部数がありません。書店に出回っていきません。

 こんな本でも、読みたいというかたは、仕方ないですから、ネット書店でどうぞ。
 たとえば、「きみの大逆転」なら、ここにまだ、おそらく大量に残っていますし、「わたしは灰猫」はここで予約できます。予約といっても、この部数ですから、ふつうに考えれば予約だけで無くなってしまうでしょうね。

 いつも申しているとおり、職業としての書き手の出す本は、読み手がいてくださってこそ、初めて本となります。
 その読者としては、無い本は読めません。
 だから、ぼくは読み手のみなさんに、申し訳ない姿となっています。ごめんなさい。





 
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