2021-06-02 10:47:32
この日時は本エントリーを書き始めた時間です
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私事ながら、きょうは、命日です
▼公務のすきまに、書きたくなりました。
ぼくの父は、古い繊維会社の現役社長、また自動車教習所2か所の設置者 ( オーナー ) として、ある有名な国立病院に入院中に、医療ミスと言うよりは医師の怠業によってまさかの急死を遂げました。
窒息死です。
この6月2日の夜、ぼくは新米の政治記者として夜回り取材中でした。
実は、夜回りの初日でした。
当時はまだ携帯が無いですからポケベルが鳴り、小雨のなか公衆電話で共同通信社東京本社編集局政治部に『さぁ、どんな政変が起きたか』と思いながら勢い込んで電話すると、筆頭デスクが感情のまったく無い声で「青山くん、お父さんが亡くなったよ」と告げました。
ぼくは意味が分かりません。
死ぬことがあり得るような病気、入院ではありません。
えっ? と電話ボックスで小首を傾げると、デスクは「だから ! お父さんが亡くなったよっ」と仰り、電話が切れました。
筆頭デスクはあまりに多忙ですし、政治部は厳しい世界でもありました。
このデスクはふだん、とても紳士的なひとです。なにも悪意はありません。早く仕事に戻りたかっただけです。
ぼくにとっては生涯、忘れられない、そして諦めきれない、雨中の電話ボックスとなりました。
▼ぼくは末っ子で、まだたいへんに幼い頃から、「おまえは家を継げない。おまえだけはひとりで生きていきなさい」と母に繰り返し教えられて育ちました。
だから気も強くなり、自立心もとことん強くなったのです。感謝しています。
父の死後、ぼくは直ちに、遺産の相続権を一切、放棄しました。
幼い頃からの教えを、みずからの意思で、守りました。
▼必ず家から離れて自立せねばならないからこそ、経営者としての父を客観的に見ていました。
父はそれに気づいていなかったと思います。
父は、先祖から受け継いできた繊維会社を守るだけではなく、地域と業界のために力を尽くし、斜陽の日本の繊維業界を守るために、繊維の工業団地を苦労して地元に誘致し、また業界の全国団体のために始終、上京して、業界の立て直しを図っていました。
同時に、佐藤栄作内閣による沖縄返還のまえの日米繊維交渉で、「日本の繊維業界は、沖縄のためにアメリカに売られた」と見切って、子供のぼくにそれを話しました。
あとを継ぐことのない末っ子だから、話しやすかったのでしょう。
父は、決断力を発揮し、繊維工場の一部を潰して、自動車教習所を開設しました。
まだ学生が免許を取らない時代でしたから、土曜の午後と日曜は教習所が休みで、おかげで、ぼくは小学生の時から教習所のなかで、古くなった教習車を運転する機会を父にもらいました。
下手くそなレーシング・ドライバーですが、ほぼすべてのレーシング・ドライバーがカートで育つのに、ぼくは実車で育ったのは、そういうわけです。
▼ぼくが東京の大学に入ると、父は、ぼくと赤坂の小料理屋のカウンターで一緒に呑むのが、とても、とても楽しそうでした。
父は、ある閣僚の後援会長も務めていた時期があります。
政治が嫌いな母とは、対照的でした。
もしも父母が生きていたら、父は、現在のぼくを喜んでくれたでしょう。
父の居るあいだは、選挙への誘いを断り続けたぼくは、親不孝を働いていたのかも知れません。
ただし父の知っている国会議員像とは、まったく異なる、あまりにも違う道を歩くぼくを見て、父はたいへんに心配したでしょう。
それを思えば、すべては天の差配かと、あらためて思います。
・・・そうです、天のご意思とは思いますが、あの6月2日から長い歳月が過ぎたのに、ぼくは今なお、父を諦めきれないのです。
お父さん、窒息していくとき、どんなに苦しかったでしょうか。どれほど無念だったでしょうか。
ぼくの父は、古い繊維会社の現役社長、また自動車教習所2か所の設置者 ( オーナー ) として、ある有名な国立病院に入院中に、医療ミスと言うよりは医師の怠業によってまさかの急死を遂げました。
窒息死です。
この6月2日の夜、ぼくは新米の政治記者として夜回り取材中でした。
実は、夜回りの初日でした。
当時はまだ携帯が無いですからポケベルが鳴り、小雨のなか公衆電話で共同通信社東京本社編集局政治部に『さぁ、どんな政変が起きたか』と思いながら勢い込んで電話すると、筆頭デスクが感情のまったく無い声で「青山くん、お父さんが亡くなったよ」と告げました。
ぼくは意味が分かりません。
死ぬことがあり得るような病気、入院ではありません。
えっ? と電話ボックスで小首を傾げると、デスクは「だから ! お父さんが亡くなったよっ」と仰り、電話が切れました。
筆頭デスクはあまりに多忙ですし、政治部は厳しい世界でもありました。
このデスクはふだん、とても紳士的なひとです。なにも悪意はありません。早く仕事に戻りたかっただけです。
ぼくにとっては生涯、忘れられない、そして諦めきれない、雨中の電話ボックスとなりました。
▼ぼくは末っ子で、まだたいへんに幼い頃から、「おまえは家を継げない。おまえだけはひとりで生きていきなさい」と母に繰り返し教えられて育ちました。
だから気も強くなり、自立心もとことん強くなったのです。感謝しています。
父の死後、ぼくは直ちに、遺産の相続権を一切、放棄しました。
幼い頃からの教えを、みずからの意思で、守りました。
▼必ず家から離れて自立せねばならないからこそ、経営者としての父を客観的に見ていました。
父はそれに気づいていなかったと思います。
父は、先祖から受け継いできた繊維会社を守るだけではなく、地域と業界のために力を尽くし、斜陽の日本の繊維業界を守るために、繊維の工業団地を苦労して地元に誘致し、また業界の全国団体のために始終、上京して、業界の立て直しを図っていました。
同時に、佐藤栄作内閣による沖縄返還のまえの日米繊維交渉で、「日本の繊維業界は、沖縄のためにアメリカに売られた」と見切って、子供のぼくにそれを話しました。
あとを継ぐことのない末っ子だから、話しやすかったのでしょう。
父は、決断力を発揮し、繊維工場の一部を潰して、自動車教習所を開設しました。
まだ学生が免許を取らない時代でしたから、土曜の午後と日曜は教習所が休みで、おかげで、ぼくは小学生の時から教習所のなかで、古くなった教習車を運転する機会を父にもらいました。
下手くそなレーシング・ドライバーですが、ほぼすべてのレーシング・ドライバーがカートで育つのに、ぼくは実車で育ったのは、そういうわけです。
▼ぼくが東京の大学に入ると、父は、ぼくと赤坂の小料理屋のカウンターで一緒に呑むのが、とても、とても楽しそうでした。
父は、ある閣僚の後援会長も務めていた時期があります。
政治が嫌いな母とは、対照的でした。
もしも父母が生きていたら、父は、現在のぼくを喜んでくれたでしょう。
父の居るあいだは、選挙への誘いを断り続けたぼくは、親不孝を働いていたのかも知れません。
ただし父の知っている国会議員像とは、まったく異なる、あまりにも違う道を歩くぼくを見て、父はたいへんに心配したでしょう。
それを思えば、すべては天の差配かと、あらためて思います。
・・・そうです、天のご意思とは思いますが、あの6月2日から長い歳月が過ぎたのに、ぼくは今なお、父を諦めきれないのです。
お父さん、窒息していくとき、どんなに苦しかったでしょうか。どれほど無念だったでしょうか。