2021-08-29 11:42:57
この日時は本エントリーを書き始めた時間です
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【書き足しました】 本はどんなときに読むか
▼時間ができたら読む、と思っていたら、決して読めません。
したがいまして、むちゃらくちゃらに忙しいときにこそ、読みます。
いま、古事記と、三好慎蔵さんの遺した日記を読んでいます。
きょう8月29日の日曜で言えば、電話と電話のあいだの5分に、このふたつを交互に数行、うまく行けば数ページを読むのです。
ひとつの重大な電話が終われば、すこし気を鎮めます。
そうしないと次の電話に、前の電話を引き摺ってしまい、相手の気持ちに立つことがやや難しくなります。
だから5分をおいて、そのあいだに書を手に取ります。
▼三好慎蔵さんは、ご存じの通り、幕末期に龍馬さんが京は伏見の寺田屋で幕吏に襲われたとき、槍の達人として一緒に切り抜けた志士です。
龍馬さんは指に深手を負い、材木置き場に隠れながら、「もう面倒じゃな」と思ったという記述が司馬遼太郎さんの「竜馬がゆく」にあります。
司馬さんの龍馬像は、あくまでも小説として司馬さんが創作したものであることも、ご存じの通りです。
ぼくはこれを少年時代に読み、その言葉がなぜか胸に沁みました。
ぼくは生来、怠け者なので、その実感にこゝろ通じるものがあったのだろうと思います。
そしてだんだん、龍馬さんが口に出していったことと思い込んでいきました。
5年まえから、国会議員となり、眼に見えない交渉を重ねながら、しんしんと夜が更けて、手足を伸ばして眠ったらどんなに幸せかと思いつつ、働き続けるとき、龍馬さんのこの「もう面倒じゃな」がよく頭に浮かぶようになりました。
ただし、誤解しないでくださいね。
龍馬さんはこのあと、修羅場を生き延び、日本の回天へ働き続けます。
そして最後には、暗殺され、京の山に膝を抱えて葬られます。
その『生き延びて、まだ戦う』という部分を、今ぼくはおのれに重ね合わせています。
同時に、本音としては何にも拘 ( こだわ ) りがないこと、それが「もう面倒じゃな」に見事に凝縮されていて、なんだか深く共感するのです。
▼ともに死地を切り拓いた三好慎蔵さんの日記を読むと、事実は逆さまで、慎蔵さんが「かくなるうえは死にましょう」と言うのを、龍馬さんが鎮めて、慎蔵さんに薩摩藩邸に駆け込んで救援を求めよと言うのでした。
日記の原文には、こうあります。
「・・・川端ノ材木貯蔵アルヲ見付ケ、其棚ノ上ニ両人トモ密ニ忍ビ込ミ、種々死生ヲ語リ、最早逃路アラズ此処ニテ割腹シ彼レノ手ニ斃ルヲ免ガルニ如カズト云フ。坂本氏曰ク死ハ覚悟ノ事ナレバ君ハ是ヨリ薩邸ニ走附ケヨ、若シ途ニシテ敵人ニ逢ハヾ必死夫レ迄ナリ。僕モ亦タ此所ニテ死センノミト」
だから「もう面倒じゃな」は、司馬さんの創作の一環かなと考え、少年時代に読み込んだ「竜馬がゆく」を買って、そこを読み直しました。
すると、以下のように書かれています。
( もう面倒じゃな )
竜馬はふと思ったが、それでもなお生きつづける努力をせねば、と自分を励ました。
ちゃんと、思っただけということが記してあります。カギ括弧ではなく、丸括弧で書いてあるのも、思っただけということを強調していますね。
これは龍馬さんの遺したおびただしい手紙のどこかにあるのかなとも考え、ぼくの書斎にある限りの書物を当たってみましたが、今のところ見つかりません。
やはり司馬さんが龍馬さんの胸の中を想像して、お書きになったようです。だからこそ、小説家が創った見事なひとことでもあります。
▼本は、忙しいときにこそ読み、おのれの思い違いを原典に当たって正していくというのも、楽しいです。
したがいまして、むちゃらくちゃらに忙しいときにこそ、読みます。
いま、古事記と、三好慎蔵さんの遺した日記を読んでいます。
きょう8月29日の日曜で言えば、電話と電話のあいだの5分に、このふたつを交互に数行、うまく行けば数ページを読むのです。
ひとつの重大な電話が終われば、すこし気を鎮めます。
そうしないと次の電話に、前の電話を引き摺ってしまい、相手の気持ちに立つことがやや難しくなります。
だから5分をおいて、そのあいだに書を手に取ります。
▼三好慎蔵さんは、ご存じの通り、幕末期に龍馬さんが京は伏見の寺田屋で幕吏に襲われたとき、槍の達人として一緒に切り抜けた志士です。
龍馬さんは指に深手を負い、材木置き場に隠れながら、「もう面倒じゃな」と思ったという記述が司馬遼太郎さんの「竜馬がゆく」にあります。
司馬さんの龍馬像は、あくまでも小説として司馬さんが創作したものであることも、ご存じの通りです。
ぼくはこれを少年時代に読み、その言葉がなぜか胸に沁みました。
ぼくは生来、怠け者なので、その実感にこゝろ通じるものがあったのだろうと思います。
そしてだんだん、龍馬さんが口に出していったことと思い込んでいきました。
5年まえから、国会議員となり、眼に見えない交渉を重ねながら、しんしんと夜が更けて、手足を伸ばして眠ったらどんなに幸せかと思いつつ、働き続けるとき、龍馬さんのこの「もう面倒じゃな」がよく頭に浮かぶようになりました。
ただし、誤解しないでくださいね。
龍馬さんはこのあと、修羅場を生き延び、日本の回天へ働き続けます。
そして最後には、暗殺され、京の山に膝を抱えて葬られます。
その『生き延びて、まだ戦う』という部分を、今ぼくはおのれに重ね合わせています。
同時に、本音としては何にも拘 ( こだわ ) りがないこと、それが「もう面倒じゃな」に見事に凝縮されていて、なんだか深く共感するのです。
▼ともに死地を切り拓いた三好慎蔵さんの日記を読むと、事実は逆さまで、慎蔵さんが「かくなるうえは死にましょう」と言うのを、龍馬さんが鎮めて、慎蔵さんに薩摩藩邸に駆け込んで救援を求めよと言うのでした。
日記の原文には、こうあります。
「・・・川端ノ材木貯蔵アルヲ見付ケ、其棚ノ上ニ両人トモ密ニ忍ビ込ミ、種々死生ヲ語リ、最早逃路アラズ此処ニテ割腹シ彼レノ手ニ斃ルヲ免ガルニ如カズト云フ。坂本氏曰ク死ハ覚悟ノ事ナレバ君ハ是ヨリ薩邸ニ走附ケヨ、若シ途ニシテ敵人ニ逢ハヾ必死夫レ迄ナリ。僕モ亦タ此所ニテ死センノミト」
だから「もう面倒じゃな」は、司馬さんの創作の一環かなと考え、少年時代に読み込んだ「竜馬がゆく」を買って、そこを読み直しました。
すると、以下のように書かれています。
( もう面倒じゃな )
竜馬はふと思ったが、それでもなお生きつづける努力をせねば、と自分を励ました。
ちゃんと、思っただけということが記してあります。カギ括弧ではなく、丸括弧で書いてあるのも、思っただけということを強調していますね。
これは龍馬さんの遺したおびただしい手紙のどこかにあるのかなとも考え、ぼくの書斎にある限りの書物を当たってみましたが、今のところ見つかりません。
やはり司馬さんが龍馬さんの胸の中を想像して、お書きになったようです。だからこそ、小説家が創った見事なひとことでもあります。
▼本は、忙しいときにこそ読み、おのれの思い違いを原典に当たって正していくというのも、楽しいです。