2021-09-02 05:26:00
この日時は本エントリーを書き始めた時間です
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【ちょい書き加えました】 夜明けのまえに、にんげんの感情というものを、ふと考える
みなさん、今日の日も、おはようございます。
国会議事堂のある東京は、雨が降っています。
秋の始まりの雨です。
ことしも大雨災害に苦しみ抜いてきた日本に、優しい雨の降る朝もあるように、願っています。
▼わたしたちの日本は、穏やかに四季が移ろう気候を持つ時代が長く続きました。それが日本人の賢さを育んだのではないかと、世界を歩き、サウジアラビアやイラクの砂漠からロシア、カナダ、アラスカの酷寒の地まで歩くうちに、考えるようになりました。
その四季が喪われていく気配に、いま日本国民は直面しているのですが、同時に、日本にはもうひとつの顔、現実があります。
それは地震をはじめ、自然災害に、いにしえから襲われてきたことです。
世界を歩きながら驚いたことのひとつに、地震の記憶がほとんど国民に刻まれていない国があることです。
ぼくら日本人はみんな、子供の頃から地震を体験して育ってきますよね ?
その記憶がまるで無いひとたちが、世界には沢山いるのです。
たとえば、同じアメリカ合州国でも、西海岸のシスコやロスの市民は大地震の記憶を受け継いでいるのに、東部のニューヨークやワシントンDCの知友は、そこで生まれ育った人なら「いや、地震の記憶は無いね」と言います。
▼世界を歩くと言っても、ほとんどは仕事です。
ぼくの専門分野のひとつに、国家危機管理があり、そのひとつとして、放射線が環境に出ることを防がねばならない原子力発電所についてテロをはじめとするリスクを最小化することがあります。
ドイツの原発を訪れると、原子炉のある建屋の屋根が重いコンクリートです。地震国の日本では、建屋の屋根はできるだけ軽くしてあります。地震で炉に落下するリスクを考えねばならないからです。
ぼくの訪問 ( 民間専門家としての訪問 ) に同行してくれた知友のドイツ政府当局者にそれを言うと、「あ、そうか、日本には地震があるんだよね」と応えます。
「あなたには、地震の経験が無いの ? 」と聴くと、「無いよ、まったく。どんな感じだい ? 大地が揺れるというのは」と聞かれました。
このひとは、博士号を持つ人で、地震を含めた地球物理学にも精通しているのですが、それでこの問いかけです。
日本ではおよそ、考えられない会話です。
ライン川に面したドイツの原発で、その会話を交わしたときを、よく覚えています。
▼自然災害で大きな犠牲を払い続けてきた日本は、仮に強大な政治権力があっても、大自然のまえには無力に近いので、権力が独裁的にならず、民の声を聴くならわしが定着したという見方が、史学者の一部にあります。
すべてが賛成ではありませんが、世界と日本を知らず知らずに比較してきましたから、肌感覚として分かるところがあります。
そして、今朝、いつもの早朝の仕事をしつつふと、思うのは、日本のまつりごと ( 政 ) の特質を正しく受け継ぎ、同時並行で、新しい感覚を加えていく義務が、5年まえから、ぼくにも国会の一員として生じているということです。
また、にんげんの感情のあり方についても思うのです。
国政に携わる人々も、ずいぶんと、自身の感情に左右されていることを、いま自由民主党の総裁選を控えて、あらためて実感しています。
深い自戒も込めて思うのは、わたしたちは、自分の感情を知らないうちに正当化する習慣のあることです。
立ち止まって考えれば、その感情の奥に、剥き出しの自己利益のあることが分かります。
ひとさまに言うことではなく、これを、おのれにいつも語っています。
感情に動かされるまえに、胸のなかの一歩を立ち止まって、おのれを見よ、と。
国益と国民益にいつも立ち続けるということは、そういうことでもあるのではないかと、考えています。
別の言い方をすれば、国益と国民益を語るのなら、おのれの感情の底にあるものを、いつも自覚していなければなりませんねと、国会のなかで指導者をはじめひとさまのふりを見ていても、黙考し、自戒するのです。
国会議事堂のある東京は、雨が降っています。
秋の始まりの雨です。
ことしも大雨災害に苦しみ抜いてきた日本に、優しい雨の降る朝もあるように、願っています。
▼わたしたちの日本は、穏やかに四季が移ろう気候を持つ時代が長く続きました。それが日本人の賢さを育んだのではないかと、世界を歩き、サウジアラビアやイラクの砂漠からロシア、カナダ、アラスカの酷寒の地まで歩くうちに、考えるようになりました。
その四季が喪われていく気配に、いま日本国民は直面しているのですが、同時に、日本にはもうひとつの顔、現実があります。
それは地震をはじめ、自然災害に、いにしえから襲われてきたことです。
世界を歩きながら驚いたことのひとつに、地震の記憶がほとんど国民に刻まれていない国があることです。
ぼくら日本人はみんな、子供の頃から地震を体験して育ってきますよね ?
その記憶がまるで無いひとたちが、世界には沢山いるのです。
たとえば、同じアメリカ合州国でも、西海岸のシスコやロスの市民は大地震の記憶を受け継いでいるのに、東部のニューヨークやワシントンDCの知友は、そこで生まれ育った人なら「いや、地震の記憶は無いね」と言います。
▼世界を歩くと言っても、ほとんどは仕事です。
ぼくの専門分野のひとつに、国家危機管理があり、そのひとつとして、放射線が環境に出ることを防がねばならない原子力発電所についてテロをはじめとするリスクを最小化することがあります。
ドイツの原発を訪れると、原子炉のある建屋の屋根が重いコンクリートです。地震国の日本では、建屋の屋根はできるだけ軽くしてあります。地震で炉に落下するリスクを考えねばならないからです。
ぼくの訪問 ( 民間専門家としての訪問 ) に同行してくれた知友のドイツ政府当局者にそれを言うと、「あ、そうか、日本には地震があるんだよね」と応えます。
「あなたには、地震の経験が無いの ? 」と聴くと、「無いよ、まったく。どんな感じだい ? 大地が揺れるというのは」と聞かれました。
このひとは、博士号を持つ人で、地震を含めた地球物理学にも精通しているのですが、それでこの問いかけです。
日本ではおよそ、考えられない会話です。
ライン川に面したドイツの原発で、その会話を交わしたときを、よく覚えています。
▼自然災害で大きな犠牲を払い続けてきた日本は、仮に強大な政治権力があっても、大自然のまえには無力に近いので、権力が独裁的にならず、民の声を聴くならわしが定着したという見方が、史学者の一部にあります。
すべてが賛成ではありませんが、世界と日本を知らず知らずに比較してきましたから、肌感覚として分かるところがあります。
そして、今朝、いつもの早朝の仕事をしつつふと、思うのは、日本のまつりごと ( 政 ) の特質を正しく受け継ぎ、同時並行で、新しい感覚を加えていく義務が、5年まえから、ぼくにも国会の一員として生じているということです。
また、にんげんの感情のあり方についても思うのです。
国政に携わる人々も、ずいぶんと、自身の感情に左右されていることを、いま自由民主党の総裁選を控えて、あらためて実感しています。
深い自戒も込めて思うのは、わたしたちは、自分の感情を知らないうちに正当化する習慣のあることです。
立ち止まって考えれば、その感情の奥に、剥き出しの自己利益のあることが分かります。
ひとさまに言うことではなく、これを、おのれにいつも語っています。
感情に動かされるまえに、胸のなかの一歩を立ち止まって、おのれを見よ、と。
国益と国民益にいつも立ち続けるということは、そういうことでもあるのではないかと、考えています。
別の言い方をすれば、国益と国民益を語るのなら、おのれの感情の底にあるものを、いつも自覚していなければなりませんねと、国会のなかで指導者をはじめひとさまのふりを見ていても、黙考し、自戒するのです。