2023-03-11 05:59:28
この日時は本エントリーを書き始めた時間です
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12年まえの現場を、確かな記憶のなかでもう一度、今度はみなさんと一緒に、歩く 【その 1 】
今朝の、おおきく明るい日の出に向かって、震災で被害に遭われたすべてのかたの魂魄 ( こんぱく ) と、被災者を扶けたすべてのかたの尽きせぬ力に、深い祈りを捧げました。
▼東日本大震災の発災した3月11日から12年、発災からまもなくに被災地に入ると、川へ自動車がゆっくり沈みゆくのを目の当たりにしました。
後輪の右タイヤとおぼしきあたりだけが、川面に残り、やがてそれも呑み込まれていきます。
▼この川は、南三陸町の庁舎が津波で流された現場の向かい側でした。
町職員の遠藤未希さん、結婚の直前だった24歳が、最期まで町民に、津波は予想より高い、逃げてくださいと呼びかけ続けて、みずからは犠牲になった現場でもあります。
どなたかが花を捧げておられました。
ひっそりと白く、静かに祈る花でした。
奥には、身を切られる辛い皮肉かのように、「防災対策庁舎」の文字が見えます。
この非常階段を登って、懸命に逃げた他の町職員、町の幹部のうち11人は、屋上のアンテナにしがみつくなどして助かりました。命はひとつひとつ、永遠に、かけがえがありません。ほんとうに、よかったと思います。
若い遠藤未希さんは、何人かの町職員のアシストを得ながら、最期まで町民への呼びかけを続けていたのでした。
これがわたしたちの同胞、日本女性の現代の姿です。
沖縄県のかつての白梅学徒隊と同じ精神が、時間と場所と敗戦を乗り越えて、こうして息づいているのです。
▼あたり一面どころか、行っても行っても地の果てがないかのように、Tsunami という名で世界に知られた悪魔がすべてを薙 ( な ) ぎ払って瓦礫の地が続き、眼にするものすべてが非現実でした。
警察官の寮だったとお聞きした建物の屋上に、流されてきた大型の乗用車がちょこんと乗っかかっていたり、海からの悪魔がどれほど高かったかが良く分かりました。
その瓦礫には、衣服がたくさん引っかかっていて、これを着ていた人間だけが奪われて海に引き込まれていったこともありありと分かりました。
瓦礫にはガラスの破片も光り、素手で片付けるのは極めて危ない情況でした。
ところが陸上自衛隊の戦闘服の自衛官が、その素手の両手で、そっと丁寧に剥がしています。
ご遺体を捜索するのに、機材を使わず、軍手すら使わず、まったくの素手なのです。
テント張りの自衛隊指揮所をお訪ねし、指揮官にお聞きしてみると、「ご遺体への敬意です」とさらり、仰いました。
こんな軍隊が、世界にあるでしょうか。
ほんとうは世界に冠たる、民のための国軍です。
その無数のご遺体の情報が貼りだしてある公民館に行くと、衣服を津波に剥ぎ取られたと思われる裸のお体に、手術の痕をはじめどんな特徴があるか。
それが具体的に、自衛官の手書きで書かれて、横書きの短冊 ( たんざく ) として一面に貼り出してあります。
ご家族を探す、地元のみなさんがひとつひとつ見て行かれるのです。
その様子は、一切、写真に撮っていません。
プロの写真家なら、話は違います。違っていいと、考えます。仕事とは崇高なものです。
しかしわたしは、写真家ではなく、文章が仕事の作家であり、また当時はシンクタンクの独立総合研究所の社長でありました。
だから、撮りませんでした。
▼わたしはこの日のあと、当時の警察庁警備局長から、震災が誘発した福島原子力災害をめぐって電話を思いがけず、受けました。
「まもなく『警戒区域』は誰であれ立入禁止にします。青山さんはきっと警戒区域内の現場にも入りたいでしょう。入るのなら、すぐに許可願いを出してください」という電話でした。
わたしは直ちに正式な許可を得ました。
原子力防災服を用意し、原子力関連の危機管理用品を積み込んで、頑丈な大型乗用車を運転し、夜明け前に東京を出発し、東北道を被災地へ向かいました。
やがて夜が明け始めると、正面の遠い空に真っ黒な雲が垂れています。
そこだけの雲で、空は晴れわたっていくのです。
わたしは、迷うことなく、疑うことなく、突然に津波と地震によって人生を奪われたひとびとの魂魄が、故郷を離れることができずに、空を漂泊していると思いました。
やがて東北道は縦にうねり始めました。
わたしはサッダーム・ハイウエイの惨たる状態を思い出しました。
イラク戦争のさなか、ヨルダンの首都アンマンからイラクの首都バクダッドへ、サッダーム・ハイウェイ、すなわちやがて実質的にアメリカの手で死刑に処される独裁者、サッダーム・フセイン大統領の造った高速道路です。
それを、テロリストと通じている疑いの濃いイラク人ドライバーの運転で、疾駆したときを想起したのでした。
そのハイウェイは、アメリカの空海軍の爆撃とミサイル攻撃で、縦にうねっていたのです。
わたしは、東北道で大型車を、おのれの持てる技術を懸命に駆使して、うねりを克服しつつ福島原子力災害の現場へ走り続けました。
この手と脚と眼と頭、五感のすべてで、どれほど被爆しようとも、現場の真実は何か、それをどうしても専門家の端くれとして摑む決意を固めてステアリングを握っていました。
( 以下、その2に続きます )