On the road~青山繁晴の道すがらエッセイ~

2006-06-05 03:21:09

報道2001、そして、遙かなる黒部の谷






▼週半ばにフジテレビから、6月4日日曜朝の『報道2001』に安倍晋三さんと一緒に出てほしいという連絡があったとき、ほう、国会の閉幕まえにメディアで存在をアピールすることも始めるんだ、新しい首相になるために早め、早めに仕掛けていくんだなぁと、あらためて思った。
 いま開かれている通常国会は、6月18日に閉幕する。

 官房長官というポストはふつう、とても動きにくいポストだ。
「首相に何かあった場合に備えて首相官邸から離れない」、「首相を支える黒子に徹して、自分をアピールすることを優先させない」ということが、ほんらいは官房長官には求められる。
 特に、国会の会期中は、ほんとうは絶対の原則と言っていい。
 安倍さんも、それは百も承知だろう。

 そのうえで、あえて国会の会期中に、自分の存在と主張をアピールすることに踏み切った。
 なぜ、それをするか、それをできるか。
 背景の第一は、実は、小泉さんの決心だろう。

 小泉さんは、国会を延長することを拒絶した。
 教育基本法の改正案のような重大な法案を、この国会に出しているのだから、小泉さんにぴったり寄り添っているはずの武部勤幹事長も、小泉さんの出身派閥のボスのはずの森喜朗・元首相も、いや、おそらくはほぼすべての与党議員が「延長は必要だ」と考えていただろう。
 それを小泉さんは、たった一人で、覆してしまった。

 6月にアメリカを訪れて、日米首脳会談をやる。
 7月には、ロシアで初めて開かれるサミットに出る。
 8月は、旧盆を中心に議員がみな選挙区に帰らねばならず、国会を延長するにしても、どうせ7月いっぱいぐらいなんだから、こういう日程を考えたら、首相は延長をしたくなかった…というようなことが新聞には書いてある。

 ぼくは、日米首脳会談も、サミットも、ほぼ関係ない、小泉さんはそんなことで国会の延長を拒絶したのじゃないと思っている。
 ずばり、小泉さんは、安倍さんにメッセージを送ったと考えている。
「おまえよ、官房長官だからといって動かないでいたら、逆転されるぞ。国会の延長を俺があえてやめさせるから、早めに仕掛けろ」
 小泉さんは、安倍さんに次の首相になってもらいたいと思いを定め、官房長官という束縛を超えて動けと、背中を強く押しているのだ。

 延長されることの多い通常国会、そして実際に重要法案を抱えるこの通常国会、それをあえて延長しないことの是非は、やはり問われなければならない。
 ただ、事実として、小泉さんはそうまでして安倍さんの背中を押している。
 安倍さんとしては、応えないわけにはいかないだろう。


▼ぼくは、この土曜と日曜に、独研の役員・社員のうち4人と黒部ダム(日本アルプス立山連峰の、黒部川第四ダム。通称『くろよん』ダム)を見るという、大切な予定がすでに組まれてあった。
 独研の社員には、帰国子女が多い。
 かれらは、子ども時代や思春期をアメリカで生きてきたから、英語がネイティヴで国際的な視点は豊かに身につけているけど、日本の誇りというべきものに触れる機会が少なく育っている。

 黒部ダムは、原子力発電もまだ実現されていない時代に、日本の自主エネルギー源をなんとか確保しよう、急峻な山を持つ日本の特色をどうにか生かそう、という志を持ったひとびとが造りあげた。
 工事では、実に171人もの男たちが亡くなっている。
 そのひとりひとりに、ご両親や奥さん、子どもたちが居たのだ。

 ぼくは記者時代、共同通信大阪支社の経済部に属した当時に、この黒部ダムを訪れた。
 同じ工事に従事したひとびとが、重いツルハシを肩に、犠牲者に祈りを捧げるレリーフ(慰霊碑)が、20年を経てなお、こころの奥にしっかりと刻まれて残っている。

 この現場を、独研の帰国子女たちに、どうしても見せたかった。
 独研は、日本のエネルギー安全保障を、主要な仕事の一つにしているから、独研の社員・スタッフはみな、エネルギー安全保障の専門家であるか、あるいは専門家として育つ途上にある。

 観光に行くのじゃないから、関西電力の協力を得て、やや危険な場所を含め専門家が歩くべきルートを踏破するプランを組んであった。


▼だから、ふつうのテレビ出演なら、恐縮ながら断っていただろう。

 しかし、安倍晋三さんがメディアへの積極的な登場をする場面であるなら、この日曜の『報道2001』は、日本が誰を次の首相に選ぶかという選択に関わる。
 ちょっと大袈裟にも聞こえるだろうが、日本だけではなくアジアの命運をも左右する選択に、一端としては関わることになる。

 だから、独研の秘書室から「社長、どうしますか」と聞かれたとき、即座に「出演するよ」と答えた。
 もともとのプランでは、土曜に長野県の松本に入り、黒部に近いホテルで関電の関係者と懇談して、そこに宿泊、明けて日曜にダムを踏破することになっていた。

 関電の関係者の誠意に応えるためにも、土曜のプランはそのまま実行して、懇談のあと独研のほかの役員・社員は予定通りに宿泊し、ぼくはひとりで最終列車で東京に帰り、翌朝早くの番組に出ることにした。

 6月1日木曜の夜に、お台場で、フジテレビのディレクターたちと簡単な打ち合わせがあった。
 安倍さんが日曜だけじゃなく、土曜からたくさんのテレビ番組に出ることを、そのとき聞いた。

 ぼくは正直、頭の中でちらりと、「安倍さんが発言し、議論する番組がそんなにあるのかぁ。それじゃ、ぼくが土曜に黒部ダムのすぐ近くまで行きながら、わざわざトンボ帰りしなくてもいいのじゃないかな」とは思った。
 だけど、ほかの人や、ほかの番組がどうであれ、ぼく自身がオファーを受けて、ぼく自身が加わる番組のことを、考えるのが筋だ。

 それに『報道2001』は、プロデューサーも、チーフ・ディレクター(フジテレビではチーフ・ディレクターをPDと呼ぶ)も、ぼくの記者仲間だったひとだ。
 木曜夜に打ち合わせたPDは、ぼくと防衛庁記者クラブで一緒だった。
 防衛庁記者クラブでは、ぼくのいた共同通信と、彼のいるフジテレビがたまたま背中合わせに机があったためもあり、身近なつき合いをしていた。
 ともに対潜哨戒機P3Cに乗って、オホーツク海を北方領土へ飛んでいった記憶が昨日のことのようだ。

 そのPDの顔を見ながら、「安倍さんがそんなにたくさんの番組に出るなら、ぼくは予定通りに黒部に行ってもいいよね」とは、とても言えません。言えませんというより、そんなことは言いたくない。

 木曜夜の打ち合わせで、フジテレビのPD、それから女性の若手ディレクターと、ぼくのあいだで一致したのは「総理候補としての安倍さんに、日本国民が求めているのは、理念なき日本が理念を築きあげていくことを含めて、根本的なことに着手してほしいということだ。若さは、まさにそのためにある。ちまちましたことではなく、そのことを安倍さんに番組で聞いていきたいね」という考え方だった。


▼6月2日金曜、父の命日の深夜になって、フジテレビから「村上ファンドへの強制捜査という新しい動きがあるから、番組の冒頭にそれをやる。安倍さんと外交・安全保障を議論する時間が短くなる」という連絡が入った。

 ああ、これは根本的な話をする時間はないかもなぁとは思った。
 それでも、もはやこの段階だから「やっぱり黒部ダムに行こうか」なんてことは、まったく考えなかった。

 番組本番で時間はなくなるだろうとは思ったけど、土曜の朝にかけて徹夜をし、在日米軍再編のおさらいや、靖国神社をめぐる歴史的な、公平な事実のおさらいをやり、それから、アメリカの関係者らと電子メールで情報と意見の交換をした。


▼6月3日土曜の早朝になった。
 夜が明けてから、わずか30分ほどの仮眠をした。短い仮眠から起きるのは、泥のなかから這い出すようで、ほんとうに苦しいですね。それはもちろん、ぼくだけじゃなく、誰でも同じだと思う。

 なんとか仮眠のベッドから脱出して、朝の新宿駅にたどり着き、独研から黒部へ向かうメンバー、役員と社員のうち3人、それに沖縄電力から研修・出向でやってきているひと(研修中は、独研の社員)の計4人で集合した。

 新宿から特急に乗り、モバイル・パソコンを開いて仕事をしているうちに、さすがに眠り込む。
 隣席の独研・役員の話では、いびきをかいていたそうだ。
 それでも短い眠りで、うっすらと目覚め、またモバイル・パソコンで仕事を続ける。

 長野県の松本駅に着き、関電の関係者と待ち合わせる。
 関電本社の広報から、ぼくが深く信頼する女性の中堅幹部、それから爽やかな若手の男性社員の2人が来てくれていた。
 東京で、ぼくの住まいを出て駅に歩くときには雨粒も肩に降りかかったけど、松本に着くと青空が広がりはじめている。
 眠気も疲労も、ほんとうは深くて深くて深いけれど、青空で、気持ちも晴れ上がる。

 みなで小型バスに乗り込み、黒部ダムに近づきながら、たとえば安曇野のガラス・ミュージアム(正式には安曇野アートヒルズ・ミュージアム)に立ち寄る。
 真っ赤なベネチア・グラスを手に取ると、光によって表情が美しく変化し、買う予定はなかったのに思わず買ってしまった。
 この夏、住まいの近くに、原稿を書く部屋を新しく確保する予定なので、そこに飾ろうと思う。
 もともとは食器なので、高くはない。
 手のひらに載せると、ほどよい軽さだ。大きめのお椀のようなシェイプで、氷菓子のようなデザートを入れるのが、本来の使い方だそうな。

 それが飾ってあった棚の向こうには、安曇野の自然が透けて見えていて、その光が美しかったのかも知れない。
 東京で置いてみれば、この美はないのかも知れないと思って、買わずにいったんは去った。
 だけども、忘れがたい赤い色だ。ぼくは、青も黄色も好きだけど、赤が好きなのだ。


▼黒部ダムに近いホテルに着き、懇談会までのわずかな時間に、露天風呂につかる。
 湯のうえに葉っぱや、それから小さな虫さんまで、いろいろなものが浮かんでいるけど、そこが自然でむしろ良くて、すっかり生き返った。

 懇談会では、日本のエネルギーのこれからやら、なんやら、生々しい話まで含めて楽しく盛りあがった。
 盛りあがったあとに、ぼくだけはタクシーに乗り、遠い道を、長野新幹線の駅へ向かう。
 真っ暗な車中では、もうモバイル・パソコンは開かず、眠る。
 しかし、かえって首が凝りに凝って、疲れてしまった。

 最終の長野新幹線は、がらがら。
 モバイル・パソコンで仕事をしながら東京に着き、自宅へ戻ると、すぐに日付が変わって日曜に。
 朝早い番組だから、すぐに眠ろうと思いつつ、情報の収集をしているうちに夜が明ける。

 苦しくて短い仮眠をして、熱い風呂に入り、どうにか頭と身体を目覚めさせて、早朝の静かな都内をフジテレビに向かう。


▼6月4日の日曜朝7時15分ごろ、フジテレビに着くと、ちょうど安倍さんも到着だった。
 朝のあいさつを交わしていると、すぐに生放送が始まった。

 まずは村上ファンドについて元・東京地検特捜部長が語るコーナーがあり、次に安倍さんと、評論家の竹村健一さんや三宅久之さん、それにMCのおふたり(黒岩祐治さん、島田彩夏さん)が年金や消費税を議論するコーナーになる。

 ぼくは、外交・安全保障のコーナーが始まるのを、スタジオ隣の控え室で待つ。
 ぼくのほんとうの専門は、国家戦略の立案だ。
 共同通信から三菱総研に移るとき、外交・安保から政治・社会、金融・経済までを包含した国家戦略を立案するための研究員となった。
 記者としても、政治記者になるまえに、事件記者、司法記者から経済記者の経験を積んだ。
 だから本音を言えば、年金や消費税についても議論はしたいが、その仕切りは当然ながらテレビ局に全権があるから、控え室のモニターで興味深く議論を見ていた。
 そして、予定の時間を過ぎて、消費税の議論が続く。
 つまり、外交・安保の時間は、さらに短くなった。
 これもまぁ、予感はしていた。


▼出番になり、スタジオへ。
 すでに時間は短縮されていたし、あとにはまだ、社会保険庁改革を与野党議員が議論するコーナーが待っている。
 だから、このコーナーのために残されている時間がいくら短くても、引き延ばしてはいけない。

 そのことを頭に入れつつ、「国民に伝えるべきを伝える、その本来の目的に集中しよう」と、いつものように自分に繰り返し語りながら、着席した。

 黒岩、島田両キャスターの、きびきびした仕切りで、安倍さんはまずアメリカ軍の再編をめぐって「抑止力の維持と負担の軽減」を語った。
 これは従来の政府の説明と同じだ。つまり、官房長官としての発言だ。

 そこで、ぼくから「新しい首相になるかも知れない人として語るべきときが、安倍さんに来る。抑止力とは、なにからどう抑止するのか、その理念を示さねばならない。負担の軽減も、たとえば沖縄の普天間基地を同じ狭い沖縄の名護に移転して終わりにするのではなく、沖縄にいつまでも大量の基地を置いていていいのか、たとえばぼくの住む東京に移転することも検討しようというように、国民それぞれが負担を分担するべきではないのかということを次期総理候補として語ってほしい」という趣旨で発言した。

 また「安倍さんは、中国に対して是々非々の立場だと、わたしは理解している。中国の膨張する軍事力のどこが問題で、だからアメリカと協力して抑止する、という説明も必要だ」という趣旨を述べた。

 そのあとに、安倍さんがかつて「日米同盟は血の同盟」と述べたことをめぐって、ぼくは「国民にミス・メッセージになってはいけないから、あえて申したいが、アメリカの(政府や軍の)関係者で、この血の同盟という表現を、アメリカ軍と一緒に自衛隊が戦う同盟と理解している人は(ぼくの知る限りは)いない。あくまでも、日本の憲法と法律の許す範囲内で、後方支援を中心にアクションをしてくれる同盟という意味で理解している。まだ、その範囲内だ」と指摘した。

 最後に靖国神社のトピックに移り、ここでも発言しようと思ったが、三宅さんの発言もあり、次のコーナーが待っていることも考えて、発言を控えた。
 黒岩さんが「青山さんは、どう思いますか」と尋ねたときに、ほかの出演者が答える場面もあったが、その発言を制止して自分が発言することもしなかった。

 いずれも、時間がどんどん短くなった今日のコーナーを考えると、おおむねは、やむを得なかったと考えている。
 それでも、自分の発言をもっとコンパクトに、もっと視聴者、国民にわかりやすくできたはずだと、いつものように自分を責めずにはいられなかった。

 テレビ番組に参加するとき、放送の前には、なるべく母に電話するようにしている。
 この超絶多忙の生活では、母に会うこともほとんど出来ない親不孝者でいるから、せめて画面を通して顔を見せるときは、知らせておきたい。
 だけども、番組が終わったあとは電話をしない。
 母は、まことに率直なひと、遠慮のない視聴者だから、正直言って、ぼろくそに言われるのが怖いからだ。
 あるとき、これを古い知人に言うと、そのひとは噴き出した。「うんうん、よく分かる」と、ほとんど腹を抱えて大笑いした。

 だけども、きょうは珍しく番組のあとに母に電話してみた。
「あんたの話は、分かりやすかったよ」という短い答えが返ってきた。
 自分自身への不満は変わらないけど、ちょっと、いやかなり、ホッとした。


▼番組のあと、帰宅すると、凄まじい疲れと眠気が襲ってくる。
 それでも、週に一度はなんとか行くようにしているジムへ行き、バーベルとダンベルを挙げた。
 ぼくの身体は運動しないと、どうにも辛い状態になる。
 苦しくても動かしておいたほうが、あとで助かる。

 こんな状態でバーベルもダンベルも挙がらないのじゃないかと思ったけど、意外に、しっかりと挙げられた。
 内心で、すこしだけ、うれしかった。

 鍛錬のあと、ジムのバスルームでで湯につかりながら、遙かな黒部の峡谷を思った。
 みんなが、ぼくらの祖国のこころに気持ちよく触れていることを、願った。


  …………………………………………………………………


※写真は、黒部ダムの建設に捧げられた171人の命の慰霊碑です。
 関西電力のホームページから借りました。著作権は、関電にあります。
ぼくは今回は行くことが出来ませんでしたから、残念ながら、ぼくの携帯で撮った写真はないわけです。


  • 前の記事へ
  • 記事の一覧へ
  • 次の記事へ
  • ページのトップへ
  • ページのトップへ