On the road~青山繁晴の道すがらエッセイ~

2007-03-24 17:28:10

深く淡く生きる   07年の『番外編その1』





▼いま2007年3月24日の土曜、お昼の12時半、完全徹夜が明けて、会社(シンクタンクの独立総合研究所)の社長室にいる。

 きのう金曜の午後6時ごろから、この赤い椅子に座り続けているから、ざっと18時間半、この狭いところでほぼ同じ姿勢でいるわけだ。

 中東カタールで開かれた国際戦略会議に招かれて、首都ドーハへ向かったフライトが12時間、帰りはジェット気流に乗って9時間、いずれにせよ、それよりずっと長い時間、はるかに固まった姿勢でいるんだなぁ。

 夜明けごろ、ちょっと、心臓が口から飛び出しかけた。


▼政治記者の時代に、いちど心臓専門病院の集中治療室に担ぎ込まれたことがある。
 六本木にある、東大系の著名な病院だ。

 心臓が口から飛び出すような感覚に、あまりにも頻繁に襲われるので、烈しい政局取材のさなかに、どうにか短い時間をつくって病院に行ってみたら、そのまま歩行を禁じられ、車椅子に乗せられて、集中治療室に運ばれた。

 命にかかわるレベルの不整脈が現れているとのことだった。
 入院した。
 しかし心臓という器官そのものにも、血管にも、異常は何も見つからなかった。

 不整脈の原因は不明だったが、中堅どころの医師は「極端な過労で、起立性の不整脈が出たのでしょう。それ以上は分かりません。器官、血管に異常がないのは確かです。重大な不整脈なのかどうか、何とも言えませんが、このまま入院していても、特に打つ手はありません」と、言った。
 正直でクールな物言いが、印象的だった。

「とにかく過労を避けなさい、ということですか」と聞くと、そうですね、と興味なさそうに答えた。
 それはあなたの問題でしょ、ドクターの務めじゃない、そういうニュアンスかなと思った。

 すぐさま退院して、政局取材の前線に戻った。
 親しい若手代議士に会うと、「青ちゃん、入院してたって? 元気なあんたが一体どうしたの」と聞くので、ありのままに話すと、「あ、俺も、それやったよ、起立性の不整脈。それはね、心配ないよ」と微笑して答えてくれた。
 ぼくは、初任地の地方支局で、国立大医学部をまわって医事記事を書いていたことがある。そのころの知識からしても、そう心配ないと思っていた。
 いずれにしても仕事の最前線から引く気はなかったから、若手代議士に「そうですね」と応じて、すぐに政局の話に入った。

 医師は、退院するとき、山のような薬をくれた。
「副作用はありませんか」と聞くと、「ありません」と、これもクールで簡潔な答えが即、返ってきた。

 その薬を飲みつつ仕事をしていると妙に、頭の働きが鈍い。回転が落ちている感じがする。
 薬が残り少なくなり診察を受けるとき、医師に「ほんとうに副作用はないのですか。頭の動きが鈍ったような気がするのですが」と確認すると、医師はあっさりと「あ、それは作用です。副作用じゃない。きょうも薬を出しておきます」とだけ答えた。

 つまり、頭脳を含めて全身の働きを抑えて、心臓に負担をかけないようにする薬らしい。
 記者の仕事は、頭の回転が落ちれば、仕事にならない。おのれの頭の回転の遅さに落胆することの多いぼくだからこそ、そう思っていた。
 ぼくは、医師に「分かりました」と答え、礼を言って、診察室を出て、もう薬局が準備していた山のような薬を受けとり、薬代を払い、出口近くの大きめのゴミ箱に、すべて捨てた。

 ゴミ箱は一杯になったが、こぼれてはいないのを確かめて、ぼくは心臓専門病院を出て、再びその病院に行くことはなかった。


▼ひょっとしたら、いつ死ぬか、それは分からないなとは胸の奥で思いながら、それは誰でも同じだとも思いつつ、さらに烈しくなった記者の仕事に打ち込み、やがてペルー日本大使公邸人質事件に遭遇し、記者をやめて、三菱総合研究所に移った。

 シンクタンクの研究員という仕事が具体的に何をするのか、よくは知らなかった。
 三菱総研は、「あまりの忙しさにどんどんひとが辞めていく職場だよ」とは聞いていた。

 しかし、ぼくの政治記者生活は、夜中の2時半ごろに夜回り取材を終わり、3時半すぎに取材メモの整理や連絡を終えて、未明4時に帰宅、シャワーだけを浴びて朝5時45分には、朝回りの車に乗る生活だった。
 それよりも忙しい仕事はこの世にあり得ないから、三菱総研についての噂は、まったく気にしていなかった。

 三菱総研の仕事が軌道に乗り始めると、長いときは8日から10日間、帰宅できないで会社に泊まりっぱなしになった。
 自宅は、当時から都心にあり、三菱総研のある大手町からタクシーで15分もかからなかったが、帰れない。

 長いすスタイルのソファがあると研究員がみな帰らずに、その上で泊まるから、三菱総研には仮眠室はおろかソファもない。
 一睡もしないか、夜明けごろに、床に段ボールを敷いて「社内ホームレス」になり仮眠する。
 それが普通になった。
 風呂は、大手町から橋を渡って、神田にある銭湯へ行く。

 そうした朝に気がつくと、秘書役アシスタントを務めてくれていたHのハイヒールが目の前にあって、次には心配そうに覗きこむ優しい顔があって、目が醒めていくこともあった。

『記者時代は、三菱総研の研究員に比べると、ありとあらゆる意味で、まだ楽ちんだった』と気づくのに時間はかからなかった。
 第一、記者時代は、たとえば首相官邸記者クラブの共同通信ボックスは、常時10人以上の記者がいた。互いにカバーして、ちゃんと夏休みもとれた。
 記者クラブには、汚くても枕と毛布のあるソファがあり、記者クラブによっては仮眠ベッドもあった。午後早くのわずかな時間を縫って、交代で仮眠することもできた。

 三菱総研の時代に、何度か、心臓が口から飛び出しそうになった。
 深く気にしたことはない。

 Hを含めて、三菱総研で出逢った仲間と一緒に、独立総合研究所を創建し、代表取締役社長・兼・首席研究員になった。
 資金繰りから人事まで、経営者としての仕事が、これまでの研究や、もの書きの仕事に加わり、たまにテレビやラジオにも顔を出し、講演は急カーブで増えていったから、忙しさというやつは、三菱総研時代の比ではなくなった。


▼しかし、心臓が口から飛び出しそうになるのは、ずっと減った。
 どういう訳か、ぼくの身体は一昨日よりきのう、きのうより今日、年々歳々、しっかりしていく。
 年齢はちゃんと重ねている。もともとカッコよくないが、ますますカッコよくなくなった。

 しかし、なぜか体力だけは増す。
 ごめんなさい、誇張か、それとも冗談に聞こえるでしょう。それでも事実だから、仕方がないのです。

 上体の筋力、それから、もともと陸上競技とアルペンスキーで鍛えてあった脚力も、明らかに過去、最大だ。
 仮眠するかわりに週に一度だけ、ジムに通って、プロのトレーナーと一緒に鍛錬している。
 正直、週に一度では効果があるとは夢にも思っていなかった。

 しかし身体は、まるでスポンジが柔らかく水を吸収するように、数少ないトレーニングの効果を吸い込み、上半身は肩回りを中心に、脚は、ふくらはぎを中心に眼にみえて、つまりプロのトレーナーが「こんなに歴然と変わりますかねぇ」と言うほどに、強化されている。
 筋力だけじゃない。

 たとえば、20代の頃は過敏で弱かった皮膚が、いまは砂漠だろうが大湿地帯だろうが、世界を歩いてどんな苛烈な環境の急変があっても、ほとんど変化をみせなくなった。いつも扱いやすい。メンテナンス・フリー。トヨタかホンダか、おまえは。
 おのれでも、不可思議としか言いようがない。

 もっともっと、もっと仕事をしろ、重くなる責任に耐えろ。おのれを、ただ公に捧げ尽くせ。
 天が、ぼくにそのように、身体を通じて告げている。 
身体をめぐる不思議について、ぼくなりのただ一つの解釈は、それだ。


▼だから、今朝、久しぶりに心臓が口から飛び出しそうになっても、気にはならなかった。
 今は、それも、おさまっている。

 ただね、肉体よりも、徒労感と空しさ、つまりは魂の疲労が、ね。

 3月22日木曜の夕刻、ドーハから東へざっと7000キロ、東京湾岸の自宅に帰り着いた。
 その途中、関西国際空港を経て、羽田空港に戻るまでに、ある報道番組から出演の依頼があった。
 北朝鮮について議論したいとのことだった。

 ドーハで開かれた国際戦略会議で、北朝鮮をめぐって、同盟国アメリカの政府高官らに「日本を裏切るのか」と詰め寄った。
 高官らは、真摯に答えてくれた。

 そのようすは、関西テレビの報道番組「ANCHOR」で、すこしだけ伝えることができた。
 しかし、全国のひとびとから「関西圏以外のわたしたちも知りたい」という声が、ぼくに驚くほどたくさん、寄せられていた。
 だから、同行していた独立総合研究所のS秘書室長にすぐ、「受けるよ」と答えた。その報道番組は、全国に流れている。

 実は、この週末に、国内の遠方へ出かける計画があった。フライトもホテルも予約していた。原稿は大量に抱えていくから休みではないけれど、珍しく私的な計画だった。

 その計画と、報道番組をどう両立させるか。
 木曜の深夜から金曜の未明にかけて、さんざ苦しんで調整した。私的な計画なので、あたりまえながら、秘書室長Sは巻き込むわけにいかない。

 未明に調整を終わり、総務省でおこなった講義の記録の手直しを再開した。
 初めての試みとして開かれた「内閣重要政策研修」での講義だ。各中央省庁の第一線から人材を集めて、あらためて政策の研修をする。
 たいせつな試みだと思うから、一語、一語ていねいに見なおしていく。もちろん無償の作業です。
 話し言葉のうえに、当日のぼくが不調だったこともあって、作業は予想をはるかに超えて困難で、もうすでに計30時間以上を費やしている。

海外出張から帰国した直後で、その海外出張は新しい緊張の連続だったし、帰国便の機中でも、ほとんど寝ないで、上記の作業をやっていたから、深きも深い泥のような疲労が体の奥から湧いている。


▼3月23日金曜の夜が明けてから50分ほど仮眠し、泥濘(でいねい)のなかを泳ぐように早朝、自宅を出発。
 横須賀に向かう。
 関係者の長い努力の末に、ようやく実現した、ひとつの約束があった。
 アメリカ第7艦隊の空母キティホークを、作戦行動へ出撃するまえに訪ねる約束だ。

 横須賀の駅前で、独立総合研究所の研究員、東京消防庁から独立総研への出向者、それに独立総研が招待した東大や東京海洋大の教授(海をめぐるプロフェッショナル)らと落ち合い、独立総研がチャーターしたマイクロバスで、アメリカ海軍基地へ。

 米海軍少佐らと空母内を回り、艦内の心臓部CDC(戦闘指揮センター)と艦外の司令部の双方でブリーフィングを受け、質疑応答をやる。

 日本は将来も核武装をせず、その代わりに、軽空母を含む海軍をはじめ「日本国民軍」を国民合意とわれらの民主主義にもとづいて誕生させ、あらゆる国の核基地を叩くことのできる確かな抑止力を持つべきだという、かねてからの持論を、あらためて確信する。

 そのあと、海上自衛隊の元佐世保総監らのご案内を受け、日本海海戦で勝利した戦艦「三笠」の記念艦を訪ね、帰国子女の多い独立総研の研究員らに近代史と、日本の矜恃(きょうじ、誇り)、さらに昭和の失敗の原因をすこしおしえて、日程を終え、横須賀中央駅に向かうマイクロバスに乗った。
 そのとき、秘書室長Sが「報道番組が急に、キャンセルになりました」。

 ぼくは、こうしたときに、なにも問い合わせはしない。

 最近もほかの局の、ほかの番組でドタキャンがあった。
 もっと他の番組でも、長時間かけて収録したコメントが、「番組の内容が急に差し変わった」とのことで使用されず、ぼくは、ああまたかと思ったが、苦労して日程を調整し、収録時間をひねり出した秘書室長Sが、静かな怒りに燃えていたことがあった。
 これも、ごく最近だ。

 ぼくも、かつてマスメディアにいた。共同通信の記者を20年近く、務めていた。
 しかし、そのあいだただの一度も、取材のアポイントメントをドタキャンしたことはない。自分の都合がどう変わっても、それは関係がなかった。
 記事の内容を突然に変えて、せっかく取材させていただいた中身を葬ることも、一度もなかった。「これ要らないだろう」と言うデスクとぶつかることは、よくあったが、必ず取材相手を大切にした。
 そんなのは、ぼくだけじゃないだろうと思う。「字」の世界に生きる記者なら、たぶん、ごく当たり前のことだ。

 記者時代に、取材相手から「テレビは横暴だよ」と聞くことはあった。このごろは、なるほどね、このことか、と思うことはある。
 しかし決して、クレームは言わない。
 なぜか。
 ぼくだって、人生の一部を、マスメディアで過ごしたからだ。

 今のぼくは、安全保障と危機管理の実務家であって、批評家ではないから、ジャーナリストじゃない。マスメディアの人間ではない。
 作家ではあるけれど、ぼくは自分の今、書くものを、マスメディアと同じジャーナリズムだとは、まったく考えていない。

 しかしマスメディアにいたことがある以上は、それなりの責任を終生、負っていたい。
 記者出身の政治家で、今は立場が違うんだと、さかんにマスメディア批判をするひとが多いが、その生き方は、ぼくとは違う。
 記者を辞めたからといって、立場を豹変させない。

 それに、自分では取材相手に迷惑をかけたつもりがなくても、取材相手からすれば、記者時代のぼくに迷惑を受けたと思っているひとが、確実にいらっしゃる。
 その責任も、おのれが納得できる範囲においては終生、負う。
(犯罪を犯したり、公人として国民の利益に反して、ぼくの記事で指摘されたひとは別です。あくまでも、取材のアポなどの話)

 だから、テレビ横暴説を「なるほどな」と思う今日この頃であっても、ドタキャンにクレームは付けない。急に被害者になって、クレームを付ける立場に、自分を変えない。
 それが主義です。

 しかし、マイクロバスに揺られながら、今回だけは理由を聞こうと思った。
 ひとつには、ドーハでアメリカやイギリス、フランス、インド、中国、カタール、レバノン、イラク、イランの高官たちと、北朝鮮の何をどう話しあったのか、日本を孤立させようという朝鮮半島の策謀と闘うためのヒントをどう掴んだのか、それを聞きたいというひとの声が、たくさん寄せられていたからだ。 

 もうひとつには、北朝鮮をめぐる日本のマスメディアの報道ぶりが、このごろ、ほんとうの焦点をすっぽりと外しているからだ。

 もうひとつは、この報道番組のプロデューサーは元記者で、ぼくと記者時代に同じ時間を過ごし、ぼくとしては友情を感じているからだ。

 駅の混雑のなかで、プロデューサーと携帯電話で話すと「再開された六か国協議から、北朝鮮のキムゲグヮン外務次官が平壌に帰ってしまったから、おおごとかと思ったけど、マカオの29億円を返してもらえばまた戻ってくるだけのことらしいと、新聞から分かったのでね、北の話題はやめたよ」ということだった。

 なるほど、視点をそこに持っていっていたのであれば、確かに、六か国協議はどうせ再開される。協議が根本的に止まりそうな情況では、まったくない。アメリカと北朝鮮は、ヒル国務次官補の暴走によって、つるんでいる。それが変わらない限り、情況は変わらない。
 だから「分かった」と答えて、若き秘書室長S、それに独立総研・自然科学部の専門研究員Fと、混みあう電車に乗った。


▼ドーハで奮闘してくれた、Sよ。
 帰国してからも、お疲れさん。週末は、よく眠れ。バイオリニストでもあるきみは、練習にも行くのかな。

 やがて海洋の研究で東大の博士号をとる、Fよ。
 キティも三笠も、きみにとっては何ものにも代え難い経験になったはずだ。

 ほかの研究員が、いつのまにか姿を消していたのは、ちょっと寂しかった。

 電車のなかでも、懸命に自分を励まして、講演録の直しを続ける。
 ときどき、たまらずに眠りに落ち込むが、はっと目覚めて、モバイル・パソコンに向かう。


▼独立総合研究所に帰り着いて、講演録の直しを続ける。
 報道番組のために苦心して調整した、「国内の遠方ゆき」を一部でも、復活させようと思ったが、その調整の結果として、もう計画はかなり、ぐちゃぐちゃになっているし、講演録の直しを考えると、復活はできないと判断した。

 計画を全部やめて、社長室の赤い椅子に座り直して、講演録の直しに集中する。
 そこから18時間半、ようやく講演録の直しをめぐる作業は、後始末も含めて、終わった。

 しかし、直しのファイルを総務省に送ったあと、担当官と連絡がとれない。受け取りなどを確認できない。
 土曜になっているのだから、当然だ。
 ただ、年度末だから、ひょっとしてこの膨大な作業が無駄になるのではと、不安があり、こころに解放感はない。

 このごろは、身体の強靱さに比べて、こころが弱い。
 こころの疲れ、もっと自分に正直に言えば、魂の疲れについて、もう限界かなと思うことがないではない。

 足元では、シンクタンクの経営、とくに人事と労務に悩み、頑健で鳴るはずの胃が、珍しくもキリキリと痛むことが繰り返される。
 外では、強烈に理解して支えてくれる、少数のひとびとと、嫌がらせ、思い込み、無理解の多数のひとびとの違いが、ずいぶんと、はっきりしてきた感がある。

 それは、必ずしも不満ではない。
 ぼくの根幹のひとつは、国民主人公主義、われらの民主主義への信頼だから、おのれを批判する自由は完璧に擁護する。
 その批判が、自分にとっては嫌がらせ、思い込み、無理解にしかみえなくても、変わらない。
 それは解釈の問題だからだ。
 解釈によって、なんらかの言説をやめろと要求するのでは、民主主義を信頼する資格がない。

 それにね、なにかを変えていこうとするとき、すぐに理解が多数になるなんて、気持ちが悪い。
 生きているあいだじゅう、少数の理解しかなくとも、あたりまえだろう。

 ただ、事実関係が公平にみて違うときには、違いますよと、注意喚起はしたい。
 とは言っても、時間がなくて、その注意喚起もできないことが多いけど。
 このごろ、関西テレビの報道番組にぼくが出演していることについて、関テレは「あるある大事典」という捏造番組をつくったからという理由で、不信感をいわれるかたが、たまにいる。

 しかし現場のリアルな実感として、同じテレビ局でも、報道と、バラエティ番組をつくる制作とでは、本質が違う。
 バラエティ番組が噂でも、いや噂こそをどんどん流すことに対して、報道部門は、確認取材を重ねる、また具体的な根拠を常に求める。それが違う。

 それに早い話が、経費の使い方からして違う。
 ぼくのいた共同通信は、いかなる取材相手にも決して報酬、カネを渡してはならないという社是があったけど、テレビ局でも報道部には、それに近い清潔さがある。(ただし、同じではないことも正確に言っておきます)

 ぼく自身も、関テレとなんらの契約関係もない。
 毎週水曜日に、テレビにしては長めの時間をいただいて、ぼくの解説コーナーを放送しているけど、契約関係はない。あくまでも、ただの一出演者だ。

 報道番組を含めた出演者には、え、こんなに権力批判をしているひとが、というようなひとでも、実は権力に楯突いたりは絶対にしない芸能プロに属して、出演交渉から、庶民からみて高額のギャラの受け取りまでを託しているひともいる。
 ぼくは決して、芸能プロ、あるいはテレビ制作のプロダクションには属さない。出演交渉は、ない。ギャラも、いわゆる文化人枠のそれで、芸能プロと結んで受けとるひとのそれとは、けた違いに、かけ離れている。

 制作部門のつくった「あるある大事典」の捏造は、いくつもの点で、永久に許されざる行為だ。
 ひとの健康をめぐって、むしろ人びとの健康への関心を利用して、幼稚な嘘の捏造データを、公共の電波で垂れ流したのは、人間、生活者への罪だ。
 こうした愚行によって、テレビメディアへの国家権力の介入を大きく広げつつあるのも、マスメディアの問題にとどまらず、国民の知る権利を侵害している。

 それから危機管理の専門家としての視点からも、あまりに稚拙な対応が目立つ。
 捏造であることが分かったあと、関テレによる中間報告と、外部の人を入れた調査委員会の報告が大きく食い違ったことは、その罪を隠蔽しようとしたとみられかねない。
 外部の人を入れた調査委も、関テレ自身の委託であるのに、みかけからすると「捏造の事例を、わざと限定しようとした関テレ」と、「それを打ち破った外部の調査委」の食い違いにみえてしまう。
 危機管理の教科書に「悪いサンプル」と載ってしまうような、間違いだ。

 その間違いが、関テレにマイナスになるだけならまだしも、メディア介入に野心的な菅義偉総務大臣は、さっそく、そこに突っ込んで「関テレが隠蔽しようとした」という趣旨のコメントを出している。
 関西テレビはマスメディアなのだから、危機管理が稚拙だと、自社に被害を与えるだけではなく、国民のための知る権利を介入から護ることにもダメージを与えてしまう。

 しかし、同じ関テレの報道部の記者たちは、志のある奴が多い。
 ぼくは共同通信を去ってから、もう9年ほど、関西テレビ報道部の若手記者からベテラン記者まで、無償ベースで選挙報道のあり方についてアドバイスし、ぼくなりに鍛えてきた。
 先ほど述べたように契約関係がないのに、なぜそれをするか。
 関テレは、東京のネット局以外では日本最大の民放であり、報道部には、地方の心意気とともに気骨ある報道をやりたいという雰囲気が満ちているからだ。

 硫黄島にぼくが入ったのも、清潔な志を持つ若手記者Sさんが、防衛庁(当時)に「戦後の日本人として現地をみたい」と申し入れて即、はねつけられ、ぼくに相談したのが最初のきっかけだ。
 ぼくはS記者のおかげで、英霊と出逢った。故郷に帰れないでいる英霊のかたがたと逢った。
 S記者がいなければ、ぼくは「硫黄島は立ち入り禁止」と掲げる防衛庁と、果たしてあんなに困難な交渉を始めるきっかけがあったかどうか。

 ぼくよりいくつ年下だろうが、そんなことは関係ない。防衛庁との交渉はすべて、こちらでやった。それも関係がない。
 S記者が最初のきっかけをくれた恩は終生、忘れない。
 その恩だけでも、関テレが制作の恥ずべき行為で、報道までどれほど色目でみられようとも、それを口実にしたアンフェアな中傷が現に、ぼくに向けられていても、ぼくは関テレの報道番組には出演します。


       * * * * *


▽さて、みなさん、きっとぼくの非力のせいで、ドーハの成果を、全国のテレビ視聴者には今のところ伝えられないことを、お詫びします。

 ドーハでなにがあったか、それを詳細に知っていただけるのは、クローズドの会員制レポート(東京コンフィデンシャル・レポート)の会員のかたがただけになる。
 しかし、もともとオープンなテレビ番組では、諸国の関係者の実名をはじめいろいろな制約があるし、それから、このブログで、先にお約束したとおり、簡潔にではあるけれどいずれお伝えします。


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