On the road~青山繁晴の道すがらエッセイ~

2011-04-23 05:16:27

現場入りを続けています

▼いま、仙台市内のホテルにいます。2011年4月23日土曜の夜明けです。
 きのう4月22日金曜に、福島第一原子力発電所の構内に入りました。

 この、ちょうど1週間前の4月15日金曜に、福島第一原発の正門から20キロ圏内、30キロ圏内の、住民が消えた地域を歩き、そして原発正門に至ったとき「中に入りますか」とも尋ねられましたが、『作業できない人間がまだ入るべきではない』と考え、辞退しました。

 その後、「原子力委員会の原子力防護専門部会の専門委員、および原子力新政策大綱策定会議の委員の立場で、青山さんが望めば、構内に、もう入れる段階です。ただし当然、構内は放射線量が高いので、それを諒解されることと、正式な防護服とガスマスクなどの装着、事後のスクリーニング(被曝検査)が不可欠です」という話が、良心派の政府当局者からありました。
 そこで、複数の当局者・関係者としっかり協議したうえで、「構内に入ります」という意思を示して、具体的な調整を急ぎました。

 ぼくの知る限り、原子力委員会は、委員も、ぼくのような専門委員も、20キロ圏内や30キロ圏内に入ろうとせず、ましてや福島第一原発の構内には入っていません。
 マスメディアも、あるいは学者も同じです。
 ほんらいは、現場を踏まないままに論じるとことは、本道ではないと考えます。
 作業に迷惑をかけないことを確認できるのなら、現場の真実を、身体で知るべきです。
 他人を批判するのではなく、ぼく自身の生き方の問題でもあります。


▼きのう、福島第一原発の構内では、免震重要棟に置かれた「緊急時対策本部」で、作業員のみなさんと話し、それから所長の吉田昌郎さんと、じっくり時間をかけて議論をしました。
 それから、車で1号炉、2号炉、3号炉、4号炉に向かい、目を疑うほどに建屋が破壊された4号炉の横で、車を降り、その真下に立って、これまで映像などではまったく見たことがない破壊箇所、あるいは逆に持ちこたえている箇所を、しっかりと見ました。

 そのあと車に戻り、津波が直撃した、海に面する破壊箇所を見ていき、汚染水を移送しているホースや、移送先の建物なども見ていき、対策本部に戻ってふたたび吉田所長らと意見を交わしてから、構内をあとにしました。

 そして自衛官、警察官、すべての作業員の拠点となっている「Jビレッジ」(もともとはJリーグのサッカー練習施設、福島第一原発から20キロ)で、防護服やガスマスク、手袋、足袋などを手順に従って処分し、スクリーニングを受け、さらに防護服の下に着ていた私服や靴もすべて処分し、郡山駅に向かいました。
 線量計による、ぼくの被曝量は、143マイクロシーベルトでした。
 20キロ圏内や30キロ圏内を見ていったときは、23マイクロシーベルトだったから、それよりは充分に高い。ただし構内としては、予想よりずっと低かった。


▼そして、郡山駅から東北新幹線で仙台に向かったのですが、福島から先はまだ復旧していなくて、福島から在来線に乗り換え、混んだ暑い車内に立つこと1時間あまり、それでもどうにか、迷惑にならないようにモバイルパソコンを使って会員制レポート(東京コンフィデンシャル・レポート)を書き続け、小雨の仙台に着きました。


▼きょうの土曜日はこれから、津波被災地の南三陸町に向かいます。
 終日、自民党の若手良心派代議士、小野寺五典さんらと被災地を回って、夜には漁業者のひとびとの話を聴き、日曜の夜明け頃には東京に戻りたいと考えています。


▼福島第一原発の構内では、さまざまな年代、とても若いひとから、いったんは定年で退いていたかたまで、そしてさまざまな会社(東電、東電の関連会社と協力会社、東芝、日立、ゼネコン各社)に属する作業員のみんなの、士気の高さ、手抜きをしない作業・労働のモラルの高さ、眼の光の強さ、落ち着いた姿勢に、こころから感嘆し、感謝しました。

 所長の長身痩躯の吉田さんは、「こんな最前線にようこそ来てくれました」とまず、何度か繰り返しておっしゃり、率直な深い苦悩をも含めて、真正面から議論に応じてくれました。
 逃げない姿勢が、胸に残りました。






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