On the road~青山繁晴の道すがらエッセイ~

2014-02-08 00:28:12

ぼくは事実を語るだけです。

内閣府キャリア職員の変死だろうが、ほかのことだろうが、みずから力を尽くして調べた事実をありのままに語る以外のことはしません。
同時に、情報源の秘匿は、命を賭けて貫きます。
この二つの原則は、決して、譲りません。

この地味ブログへのコメントのなかに「内閣府職員の不審死について、あちこちテレビに呼ばれるのは、陰謀を隠すような話をしているからじゃないか。青山さんまで信じられなくなったら困る。違うというのなら、情報源を暴露しろ」という趣旨になる書き込みがありましたが、どうして、そんな発想になるのですか。

この書き込みが、もしもぼくのやる気をなくさせることが目的なら、他の嫌がらせコメントに比べて、ほんとうに上手な書き込みです。
その通り、やる気がなくなります。
わたしゃ、タレントでも評論家でもないので、本来の目的が理解されないのなら、別にテレビなどに参加する必要はありませぬ。
たとえば内閣府キャリア職員の変死について「憶測だけが広がるのを止める」という目的が、勝手に「大陰謀を隠すため」という話にすり替えられるのなら、もう語る必要を感じません。

もっとも上記のような書き込みは、たったおひとりですから、多くの方はそうではないと信じるほかありません。

また、そのおひとりも、そんなつもりではないのでしょう。
しかし…たとえば情報源をなぜ護らねばならないか、コメントを書き込んでぼくに読ませようとする前に、ご自分ですこし勉強されてはいかがでしょうか。
このコメントを書いたひとが「何ら証拠、ソースのない話です」(※原文のまま)と書かれているのだけは、どうにも許せません。いや、赦したいと思いつつ、これだけは言わねばなりません。
証拠、ソースのない話を、なぜ、ぼくがする必要があるのですか。

不肖ぼくだけではなく、どなたであれ、ひとつの表に出なかった情報をとり、その裏を確実にとり、最終的な確認にたどり着くまでに、どれほど命を削っていることかと思います。
あなたはなぜ、まさしく何らの証拠とソースも無いまま、「証拠もソースもない」と書けるのでしょうか。
この場合のソースとは、ネットから引用してくることではありません。
自分の地位を危うくするリスクを冒してでも、公共の利益、すなわち国民が真実、事実を知るということのために、情報を提供することに、遂に、同意してくれた人々のことを言います。
その人々を暴露するのが、どうして正しいのでしょうか。
  • 前の記事へ
  • 記事の一覧へ
  • 次の記事へ
  • ページのトップへ
  • ページのトップへ