On the road~青山繁晴の道すがらエッセイ~

2014-05-31 00:34:57

硫黄島から東京・有明港、東京から大阪、大阪から長崎、そして長崎から東京へ、祈りとともに

▼硫黄島を巡っていく船に乗り、操舵室からの船内放送と、船内ホールでの実質4回の講演をする旅がどうにか終わって5月30日金曜の朝に東京・有明の港に着くと、夜、最終の新幹線に乗り、大阪に入りました。
 いま5月31日の未明1時ごろ、ホテルの一室で原稿を書いています。
 あと5時間ほどすれば、大阪の朝日放送のスタジオに向かいます。
「おはよう朝日です」という番組に朝7時ごろから参加して、拉致事件の「全面調査」をするという日朝の合意でこれからどうなるか、を話します。

 そのあと長崎に向かい、島原に入ります。 2日ほど九州にとどまる予定でしたが、そこからは予定を変え、なるべく早く東京に帰ります。入院中の母のようすを見るためです。


▼硫黄島へのクルーズは、商船三井などのスタッフの志で実現しました。
 ふだんから不肖ぼくの発信に関心を持ってくださる方もたいへん多くクルーズに参加され、魂を交わすように、硫黄島に取り残されたままの英霊をそれぞれの故郷に取り返すこと、それも通じて敗戦後の日本の思い込みを克服していくことを、短くはない航海を通じて一緒に考えることができました。

 正直、ちと、疲れました。
 ところが航海の終わり近くになって、公私ともに大きな知らせがあり、ひとときの休息もなにも無くなりました。

 「公」は、もちろん日朝の「全面調査」合意です。
 東京・有明の港に船が入るともう、大阪の関西テレビから「スーパーニュース・アンカー」の取材クルーが待ち構えていました。

 「私」は、都内の病院に入院している母の容態急変です。
 関テレの取材に応じたあと、病院に向かいました。
 医師のお話は、とても記す気になれません。
 それでもベッドの母の眼は、年齢も、病も、ひらり飛び越えるように、かわらずに澄んでいました。


▼硫黄島、そして日朝合意の第一報は、この怒濤のような一日のなかで、まずは独研(独立総合研究所)から会員制で配信している東京コンフィデンシャル・レポート(TCR)に記し、全会員に配信することができました。(参加はここです)

 これらを、みなさんの眼を見て語り、あらゆる質問をお受けするのは、6月の独立講演会です。独立講演会は、独研が自主開催している長時間(原則4時間半~5時間)の講演会です。(参加はここです)

 硫黄島の海は、息を呑むほど美しかった。
 航路には、イルカが群れて自由に泳ぎ、クジラの母と子の姿もありました。
 母はきっと、まだ負けない。
 ぼくの背骨をつくってくれた、わが母よ、日本の母よ、あなたならまだ奇跡をきっと起こせます。

「硫黄島は立ち入り禁止の島だけど、7年半ほど前に、なんとかぼくは入ったよね。お母さん、覚えてる? 今も立ち入り禁止だけど、たくさんの方と一緒に、硫黄島の目の前の海を船で巡ったんだよ」と話すと、「そうか、硫黄島…みんな死んだ。ご遺骨が帰れない…ひどいことや…わたしには(あの時代を越えて)与えられた命やから…」と静かに母は応えてくれました。

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