On the road~青山繁晴の道すがらエッセイ~

2022-08-21 03:12:25
この日時は本エントリーを書き始めた時間です
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青く広い空のうえで、「夜想交叉路」の改稿を脱稿しました


( これは西暦2018年11月に、東京の八重洲ブックセンターで開いたサイン会です。議員となって2年4か月のことでした。
 ぼくの隣は、ロングセラーの「ぼくらの祖国」の編集者です。
 この人が、小説「夜想交叉路」を改稿して出版することを提案してくれました。提案されて、ぼくはパソコンの中に眠っていた原稿を探し、久しぶりに読んでみました。
 そして改稿を決心し、みなさんにもお伝えしました。
 そこから、長い時間が流れました。ことしの秋、順調にいけば、この小説でサイン会も開ける可能性が出てきました )

▼きのう8月20日土曜のことです。
 朝、宮崎へ行くために飛行機に乗っていました。
 飛行時間が1時間40分あると聞いて、『飛行機を降りて講演に向かうまでに、ひょっとしたら、夜想交叉路の改稿を完成できるかも知れない』と考え、集中力を高めて、取り組みました。
 そして空の上でなんと実際に、原稿の最後に「完」の一字、原稿に苦しんでいるときには何よりも憧れる一字、「完」の字を打つことができました。

▼もともとの小説「夜想交叉路」は、ぼくが生まれて初めて書きあげた小説でした。
 いわゆる純文学の作品です。
 そのまま、日本でもっとも古い歴史を持つ文芸誌「文學界」 ( 文藝春秋社 ) の新人賞に応募しました。もちろん編集者もどなたも知りません。ただふつうに、原稿をプリントアウトして、郵便で送っただけです。
 当時のぼくは、共同通信の記者を辞して、三菱総研 ( 三菱総合研究所 ) の研究員に転身したばかりでした。

 やがて「第1次予選、第2次予選を通過して、受賞の最終候補作4編の中に残りました」という連絡を受けました。
 大手町の三菱総研の中で仕事をしながら、最終選考会の結果の連絡を待っていたことを、よく覚えています。
 すると電話で「受賞が有力かと思われましたが、選者の中のおひとりから強い反対があり、受賞に至りませんでした。他の3編も落選し、この回の文學界新人賞は受賞作無しとなりました」という趣旨の連絡がありました。

▼ところが、そのあと、ある編集者 ( 上掲の写真の人とは、別人です。出版社も違います ) から連絡をいただき、別の作品を書くよう勧められました。
 勇気づけられて書きあげたのが、昭和天皇の崩御と、昭和から平成への時代の移ろいを描いた「平成」です。
 これは、純文学の世界では無名の新人の作品だったのですが、「文學界」に全文が掲載されました。 ( 新人賞にはもはや応募しませんでした )
 さらに、文藝春秋社から単行本として出版されました。この頃はまさか、やがてぼくが選挙に出て、週刊文春の記事を選挙妨害で刑事告発することになるとは、夢にも思わなかった訳ですね。

「夜想交叉路」は印刷されませんでしたから、「平成」が印刷され、刊行され、日の目を見た小説の第1作となりました。 ( ノンフィクション分野におけるぼくの刊行歴とは別です。「平成」は小説、つまりフィクション分野ですね )

 この「平成」はその後、伝説の編集者、花田紀凱さんが幻冬舎の編集者を紹介してくださり、全面的に改稿し、改題もして、現在は幻冬舎文庫から「平成紀」として出版されています。例えばここです。

▼そして、次の作品にとりかかったのです。これが「灰猫」でした。
 しかし未熟な作品であり、あえて簡単に言うと、編集者から見捨てられたような未完の作品となったのです。

 そのあと諦めずに、18年4か月のあいだ取り組み続け、ぼくは三菱総研の研究員から、独研 ( 独立総合研究所 ) の代表取締役・兼・首席研究員となり、さらに参議院議員となりました。
 最後に完成に漕ぎつけ、「わたしは灰猫」と改題して刊行、現在も読まれています。例えばここです。
 これが小説としては、刊行された第2作となりました。

▼その「わたしは灰猫」を読んで、上掲の写真の編集者、扶桑社の田中亨さんが訪ねてきてくださいました。
 そして「夜想交叉路」の改稿を勧めてくださったのです。

 ぼくは、その熱心な言葉を聴きながら、気乗り薄でした。
 作品の欠陥がどこにあるか、自分では良く分かっていたからです。その欠陥を乗り越えるのは、どれほど難しい作業かも容易に想像がつきました。
 当然ながら、公務が絶対の最優先ですから、その難作業をやるにも夜更けの、それも限られた時間しかありません。夜更けは夜更けで沢山の仕事があり、しかも夜が明ける頃には時差のある海外とのやり取りも始まり、すぐ、自由民主党の部会に参加する時間が来てしまいます。
 とても、やり切れるとは思えませんでした。

▼それでも、田中さんはノンフィクションのロングセラーとなった「ぼくらの祖国」の執筆を励ましてくれた恩人です。
 また、「わたしは灰猫」の出版も担当してくれました。
 だから、まずはパソコンの中に無事に原稿が残っているかを探してみました。
 すると、文學界新人賞に無手勝流で応募したときのまま、原稿がひっそり残っていました。

 ざらりと一読してみると、やはり欠陥が目立ちます。同時に、新しい可能性も見つけました。
 公務をはじめ、仕事は極めて忙しいです。
 出来るかどうか分からないまま、改稿を始めてみました。
 しかし1日に数分から、どんなに長くても十数分とかの時間、それも新幹線を待ってホームに立っているときとか、飛行機の搭乗待ちとか、とにかくスキマ時間だけを使ってしか出来ません。新幹線の車内、あるいは飛行機の機中は、いずれも別の仕事をせねばならないのです。
 きのうの朝の羽田発、宮崎行きの機中は例外中の例外です。すこしづつ進めていた苦難の改稿、その最後ぐらいは機中の時間を贅沢に使いたいと考えたのです。

 それでも投げ出さずに続けるうちに、おのれの筆力が前へ進んでいること、脂が乗っていることを感じない訳にはいきませんでした。
 すると不思議なもので、作品の中の登場人物も、たとえ年齢が若くても成熟してくるのです。

▼きのうは宮崎の空港で飛行機を降りると、自由民主党主宰の政治塾に向かいました。
 会場には、その塾生20数人しかいらっしゃらないのかと思ったら、とんでもない、広い会場いっぱいのみなさんが待っておられました。
 ベテランの地方議員の方から、これから政治を目指そうという若い女性、若い男性まで、みな眼が輝くひとたちが、つたない講演を聴いてくださいました。

 ぼくは力を尽くして話しながら、胸の奥の奥では、いったん死に絶えていた作品が息を吹き返して、この世に戻ってきたことの昂奮が、ちいさな火のように燃えていました。

▼改稿を終えた「夜想交叉路」は、編集者に送りました。
 まだ読まれていないようです。
 しかしぼくは、とにかくゲラにして頂くようお願いしました。
 ゲラとは、本にする前の仮印刷です。

 もうパソコンの画面で見直すのは疲れました。
 ゲラであっても、印刷されて、この世に存在する作品となって、改稿の改稿、推敲をさらに重ねて、手書きでペンを入れていくことをやりたいと願ったのです。

 ゲラが届くのは正直、愉しみです。
 そのゲラの推敲もまた、スキマ時間しか使えません。
 それでも、きのう空の上で「完」の一字を打つことが出来たことによって、大袈裟な物言いで申し訳ないですが、運命は変わりました。
 おそらくは、11月を中心にこの秋、新刊となって、「わたしは灰猫」と共に書店に現れるでしょう。
 ノンフィクション分野である、皇位継承まんがの「誰があなたを護るのか 不安の時代の皇(すめらぎ)」、それから「ぼくらの選択」(雄志篇虎穴篇天命篇)も同時進行で、書店に並んでくれるかも知れません。

▼改稿した「夜想交叉路」は、400字詰め原稿用紙で今のところ、210枚です。
「わたしは灰猫」は何枚かと今、調べてみたら、211枚です。
 なんと、ほぼ同じです。まさか狙った訳じゃないので、ちょっとびっくり。

 そして「夜想交叉路」は、原文は完全な純文学ですが、改稿後は、より読み易くすることを心掛けました。

▼夜が明けると、神戸の独立講演会へ出発します。
 その次は、9月17日土曜の東京の独立講演会でお待ちします。
 ぼくは、不肖ながら、何もかも広範囲に同時進行です。
 東京でも、水面下情報を厳しい限定条件の下で共有し、一緒に考えましょう。ここで待っています。





 
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