On the road~青山繁晴の道すがらエッセイ~

2006-09-02 14:14:53

南から北まで、わたしたちの祖国   (※大きく加筆しました)





▼みんながたぶん、もう知っているように、ぼくは文章を書くことには、どうしても完璧主義になる。
 だからブログも途中まで書いていて、なかなか仕上げられずに、アップもできないことが多い。

 それでは、せっかく来てくれる人に申し訳ないから、なるべく短くてもアップはするようにしていきたいなと、きょう土曜日に思っています。


▼さて、ノンフィクションの新刊本を執筆する最終段階に入っていて、ほんとうは原稿書きに集中したいところだけど、われながら激しい、としか言いようのない日程が続いてる。

 たとえば、ここ10日ほどを、ちょこっと振り返ると…


▼8月22日の火曜は、朝、羽田から空路、関西地方のある県を訪れた。
 県庁で若手改革派の知事に会い、エネルギーをテーマにフランクに語りあい、県庁のエネルギー関係の勉強会に出席し、その県から特急で大雨の大阪に入る。

 夜に関西テレビで、翌日放送の報道番組「アンカー」のなかのコーナー「青山のニュースDEズバリ!」についてディレクターたちと、いつものように熱く議論。
 未明に、定宿、と言うよりもはや「大阪の家」のように馴染んでいるホテルに入る。
 明け方まで原稿。


▼8月23日の水曜は、朝7時すぎから大阪の定宿ホテルで、RKB毎日放送(福岡)のラジオ番組のなかのコーナー「目からウロコ」に電話でレギュラー生出演。

 午後にはホテルのプールで泳いで心身をすっきりさせてから、関西テレビに入り、午後4時55分から「アンカー」に生出演。
 きょうの「青山のニュースDEズバリ!」では、北朝鮮の核実験がもしあれば、それが日本をどう変えるかについて話した。

 深夜に帰京。
 自宅で、明け方まで原稿。
 疲れと眠気で、椅子の上でぐらぐらしながらの執筆だから、もはや執筆とは言えないぐらい効率が悪い。


▼8月24日の木曜は、朝6時40分の便で羽田を発ち、沖縄の那覇に入った。
 沖縄の公共事業体と、エネルギー開発やテロ対策について協議し、その午後には、空路で宮古島に入った。

 沖縄県庁の幹部や、政府(内閣)の中堅幹部らと島内を回り、伝統の「宮古上布」(みやこじょうふ)の織り元などを訪ねたあと、夕刻から「国民保護フォーラム」の打ち合わせ。
 このフォーラムは、沖縄県が主催し、政府(内閣と総務省)が後援している。
 平成16年9月から施行している国民保護法を考えるフォーラムだ。

 夜、宮古島市の中央公民館で開かれたフォーラムの本番で、内閣の中堅幹部、県庁の幹部がそれぞれ講演したあと、ぼくの「特別講演」が始まった。

「住民の安全保障をみずから担う、その希望について」と題して、沖縄戦の悲劇や東京大空襲の惨劇をふりかえりながら、ぼくなりに懸命に語り、集まってくれた住民のかたがたに問いかけ、一緒に考えた。

 夜遅くに懇親会に出て、宮古島のホテル泊。
 ホテルには、ダイバーが多い。
 実は、ぼくもスキューバ・ダイビングのライセンスを持つダイバーだから、ちょっとだけ羨ましい。

 記者時代は、どれほど忙しくても、たとえば首相官邸記者クラブも外務省記者クラブも共同通信は10人以上の記者を配置していたから、交代で夏休みはとれた。
 だから、けっこう世界中の海に潜ったのだけれど、共同通信を辞めて三菱総研に移ってからは、独立総合研究所の今も含めて、8年3か月、ただの1日も休んでいない。
 夏休みどころか、年末年始も、毎週の週末も、まったく休んでいない。

 忙しさそのものが加速していることもあるけど、記者時代と違って、代わりになる人がいないことが、いちばん大きい。
 ただ、それは裏返せば、組織の歯車であることが、なくなったことだから、ふだんは『休んでないっ』という感じでネガティヴに考えたりはしない。

 でもね、こうやって美しい南の海を前にして、ダイバーの姿をみると、久しぶりに潜りたいなぁとは思う。
 ぼくは特に、海のなかで断崖絶壁の上に浮かび、漂うのが好きだ。
 地上では絶対にできないことが、海のなかでは、ライセンスと経験さえあれば、誰でもできるのです。

 ダイビングをしていたころの記憶をちょこっと、頭に浮かべながら、ホテルの部屋で明け方まで原稿。


▼8月25日の金曜は、碧い沖縄の海を越えるローカル空路で、宮古島から石垣島へ。
 やはり沖縄県幹部や内閣の中堅幹部らと島内を回り、この石垣島と西表島にしかない八重山椰子の高い樹に手を触れて、しあわせだった。

 夜、立派な造りの石垣市民会館で「国民保護フォーラム」が開かれ、再び特別講演。

 県幹部は事前に、「石垣島では金曜は、みな飲みに行ってしまう日だから、何人来てくれるか。ひょっとしたら50人とか60人とか…」と、たいへんに気を揉んでいたけど、とんでもない、大入り満員。
 立ち見の人もたくさん、いらっしゃった。
 石垣と、周辺の島々から集まってくださったひとびとに、胸の奥から感謝した。

 夜遅くに、ふたたび懇親会。
 宮古島では参加できなかった沖縄県の若手職員もみな参加して、うれしかった。

 それに、フォーラムは、宮古でも石垣でもたくさんの人を集めて盛況だった。
 開催の準備に苦労してきた県のひとびとがみなホッとして楽しそうだったから、それも凄く、内心で嬉しかった。

 一連の日程はずっと、独立総合研究所(独研)から、総務部秘書室の秘書や、研究本部の自然科学部長が同行している。

 未明に、石垣島のホテルに入り、明け方まで原稿。


▼8月26日の土曜は、県の職員2人と、石垣島から船で周りの島を訪ねた。

 ぼくは沖縄と浅くはない縁があるけれど、石垣島は初めてだった。
 石垣から、船で少し足を伸ばしてエメラルドの海を渡り、黒島と、それから西表島へも足を延ばした。
 船中では、あっというまに眠り込んで、どうにか体力を回復する。

 この島々は、緑の濃い夏の牧場のなかに、大きなお墓が点在している。
 古い、琉球の伝統そのままの亀甲墓(きっこうぼ)、つまり巨大な亀の甲に似た天井を持つ、ちゃんとした家のようなお墓もあるし、その亀甲墓の上に、ヤマト(本土)風の墓石が乗っかっているスタイルの墓もある。

 いずれにしても、日本最南端の強烈な陽射しと、草を食む牛、深い草叢のなかからわっと飛び出してくる虫たちまで生々しい命と、大きなお墓が、なんの区別もなく共にある。

 死と生が共存している島々だ。
 そこも、ぼくには浅くない縁を感じられる。
 ぼくの選んだ生き方も、死生観を根っこに据える生きかただから。
 いつも死と生が共にある日々をこそ、送りたい。

 黒島そして西表島から、船で石垣島へ戻り、そこからまず空路で那覇へ飛ぶ。
 イルカによく似た小ぶりな飛行機が勢いよく滑走をはじめると、石垣空港の滑走路のすぐ横にも、亀甲墓が並んでいることに気づいた。
 まるで生きる者の、にぎやかな行き来を楽しんで眺めているようた。

 そして、この飛行機も、ほんとうは死と生が共存している乗り物なんだと、あらためて実感する。
 ぼくは今、人生の半ばを飛行機のなかで過ごしているような錯覚がするほど、空路の移動が多い。

 上空よりも着陸寸前の低い空で、ダウンバースト、つまり飛行物体を地面に叩きつけるように上から下へ吹く猛烈な突風を感じたりするときに、ああ、この飛行機は実は死と生の隙間を飛んでいるんだなと感じる。

 那覇から、今度は短くはない空路で羽田へ。
 自宅に戻ったのは、もう未明だった。
 明け方まで原稿。
 いつものように椅子の上で、ぐらぐらと眠気や疲労のなかを泳ぐような執筆だから、ペースはまったくもってあがらない。


▼そして翌8月27日の日曜は、いきなり北海道の帯広へ。
 朝6時50分に自宅を出て、羽田から飛ぶ。
 肉体には、南の島で強烈な紫外線を浴び続けたための、なんとも言えない深い疲労が染みこんでいる。
 その身体を、宮古島や石垣島とは14度ぐらい気温の違う北の大地へ一気に運ぶ。

 この日も、講演する。
 講演もテレビも、ぼく個人のものではなく、独立総合研究所(独研)のたいせつな発信だ。

 帯広の自衛隊・地方協力本部(旧地方連絡部)が創立50周年を迎えて記念式典を開き、そこに招かれて「特別講演」を行う。

 講演のまえに控え室に入ってきた本部長(陸上自衛隊一佐、国際社会からすると大佐)をみて、びっくり。
 ぼくが共同通信政治部の記者として防衛庁記者クラブにいたとき、内局の広報にいた懐かしのひとだ。
 防衛庁近くの焼鳥屋さんで、ずいぶんと激しく議論した仲だから、嬉しくて、懐かしくて、思いきり強く握手した。

 講演が終わると、十勝ワインの工場などを短時間ながら訪ねる。
 十勝ワインは、ここ北海道・池田町の町長がリーダーシップをとって産みだし、地域を生まれ変わらせた有名なワインだ。
 ぼくも学生時代に、当時の女ともだちが新宿で並んで買ってきてくれたのを、おいしく呑んだ記憶がある。

 そこから、懇親会へ向かう。

 この出張には、沖縄電力から出向(研修生としての出向)で独研に来ている秘書・兼・研究員のRが同行していた。
 沖縄育ちのRは、独研に来て初めて、大きな河もみて、新幹線にも乗った。
 イギリスとカナダに留学していて、語学力もある彼女だけど、日本を知らなかったとも言える。

 独研でみんなに好かれたRは、8月いっぱいで出向が任期満了となる。
 最後に、北の大地へ連れて行けて、これも嬉しかった。

 Rは、懇親会のバーベキューパーティのあと、懇親会をセットしてくれた方々に「こんなに巨大なカニが食卓に並んでいるのを、見たことがありませんでした」と実感のこもったお礼メールを送ったそうだ。

 南国のひとの眼が個性的で美しく、きりりとしたウチナンチュー(沖縄生まれの沖縄育ち)女性、R、那覇に帰っても、きみらしく毅然と柔らかく、頑張れ。
 独研のみんなが、しっかり応援しているぞ、いつまでも。

 日帰りで深夜、帰京。
 南と北の疲れが、どっと押し寄せる。
 原稿を書くためにパソコンの前に座るが、椅子の上でぐらぐらした末に、無意識のままベッドに倒れ込んでいた。たぶん、それが午前4時ごろかな。


▼翌8月28日の月曜から、日本テレビの「今日の出来事」に生出演が始まった。
 木曜までの4日連続だ。

 月曜は、やっと東京にいられる貴重な日だから、昼間、シンクタンク・独研の社長として経営課題に取り組むためのたいせつなアポイントメントなどをこなす。
 独研は、創立から5年目に入っている。
 社員・スタッフは、出向者を含めて23人。
 黒字経営を続けている。
 誰にも、どこにも遠慮せずに発言するためには、このまま、誰からも、どこからも支援を受けずに、自分たちで食っていけることが絶対不可欠だ。
 だから黒字経営を、みなで実現している。

 夜10時頃に局入り。
 この番組は、コンパクトなニュース番組なので、ゲストのコメントは2回、それぞれ「40秒きっかり」、「50秒きっかり」と決まっている。
 コメントが長くなって番組全体の構成が変わることは、許されない。

 こういう感じの出演は初めてだったけど、原稿は作らない、原稿を読まない、生の自然な言葉で視聴者のかたに伝えるというぼくなりのスタイルは守った。

 初日の月曜は、目の前にある大きなアナログ時計(視聴者には見えず、出演者にだけ見える位置にある時計)をどう見ればいいかも分からず、フロア・ディレクターが指で残りの秒数を指示する動きも、他の局とは感じが違っていて、よく分からず、ちょっとばかし緊張した。
 局から、未明に帰宅。
 明け方まで原稿。
 ただし、いつもと同じ「椅子の上でぐらぐら」。こんなことをやっていては、いつまでも新刊は出せないと、ひとりの書斎で、思いは苦しい。


▼8月29日の火曜は、昼間、独研・社会科学部の研究員らと、実力部隊を持つ政府機関などを回る。
 テロ対策を、踏み込んで協議する。

 政府機関のうち、代表的な機関の一つに入るとき、受付役の警備員が確認もせず「あちらへ、こちらへ」とデタラメなことを言うために、ぼくと独研の研究員たちは間違ったフロアへ行ったり、閉ざされたドアの前で待ちぼうけをしたり。
 ぼくは、あえて怒りを爆発させ、政府の幹部に「時間の無駄だし、非礼ではないか。なぜ受付の体制をきちんとさせないのか」と詰め寄った。

 これが初めてのことなら、ぼくは怒りはしない。
 この政府機関は、まさしく日本政府の顔であり、中枢なのだが、いつも受付がいい加減なのだ。
 日本の官庁が、民間からの来客に対していかに非礼であるかを象徴しているし、民間人の来訪に対していつもこうであることが想像できるから、腹を決めて、大声で怒った。

 民間会社が官庁を叱るなど、想像もできない経験なのだろう。
 政府高官たちは、ポカンとしている。
 この高官たちは、受付の業務について直接の管理責任はない。
 それを百も承知で、胸のうちで『ごめんなさいね、しかし、言わなきゃいけない』と呟きつつ、ぼくは、さらにおのれを励まして、高官たちに詰め寄った。

 民主国家である日本の主人公は、あくまでも民間の国民だ。
 官尊民卑の勘違いは、正さねばならない。
 シンクタンクである独研は、政府と連携すべきは連携して、常に仕事をしているが、断じて『出入り業者』ではない。
 私利のためじゃなく、祖国とアジアと世界のために仕事をしている。
 たいへんに僭越な物言いに聞こえても、ここだけは、あいまいな言い方はしたくない。

 政府の高官たちは、その場で、独研の主任研究員と一緒に事実関係を調べた。
 そして、ぼくが信頼している若手の幹部が、確かにいい加減な受付業務であったと認めて詫び、誠実に改善を約束してくれたから、ぼくは矛をおさめて、テロ対策の協議に入った。

 協議のあと、独研に戻り、秘書室や研究本部と打ち合わせ。
 夕刻6時には、大阪の関西テレビからスタッフが来社。
 ぼくは、いつもは火曜の夜に大阪入りして、水曜の「アンカー」(報道番組)でのぼくのコーナーのために議論と打ち合わせをする。
 だけど、今週は日本テレビの「今日の出来事」に出演するから、夜には東京にいなきゃいけない。
 そこで、大阪から関テレのスタッフのほうが、やってきてくれたわけだ。

 こころのなかで「お疲れさま」と頭を下げながら、たっぷり2時間、議論する。
 大阪での議論と打ち合わせは、4時間を超えたこともある。
 あす水曜の本番では、紀子さまのご出産が近づくことを契機に日本の天皇制を考えることを決めた。
 スタッフは、「まだ、よく分からないところがある」と不安そうだったけど、「大丈夫ですよ」と送り出す。

 夜10時過ぎに、日テレに入る。

 この日は、メインキャスターの小栗泉さんが「青山さん、どうでしょうか」と振った瞬間から、目の前のアナログ大時計を見て、時間を自分で計りながら話すようにしたから、まずまず、きちんと話せたかもしれない。
 局から、未明に帰宅。
 明け方まで、「ぐらぐら執筆」…。


▼8月30日の水曜は、早朝に自宅でRKB毎日放送(福岡)のラジオ番組に電話出演したあと、羽田から大阪へ飛ぶ。
 まず、公共事業体とエネルギー開発について協議したあと、夕刻から関西テレビに入り、「アンカー」にレギュラー出演。
 「青山のニュースDEズバリ!」のコーナーでは、日本の天皇制は、柔らかな本質を持ち、世界に通用する日本の個性であることの大切さを語り、わたしたち国民のかけがえのない財産であることを語った。

 終わると、すぐに羽田へ戻り、そこから日本テレビへ飛び込む。
「今日の出来事」出演の3日目を、どうにかこなして、未明に帰宅。
 明け方まで「ぐらぐら執筆」。


▼8月31日の木曜は、沖縄電力から出向(研修)で独研に来ていた秘書・兼・研究員のRが、1年の出向期間を終える日だ。

 夕刻に、沖縄電力・東京支社の送別会(激励会)に顔を出し、こころを込めて感謝のあいさつをした。
 フェアな人柄のRは、ただの一度も「沖縄電力では、こうしていた」とは言わず、独研の独自の仕事スタイルから、よく学んでくれた。
 ぼくは、それを一つの例として、Rの人柄と、勘のよい仕事ぶりに感嘆していることを語り、沖縄電力の謙虚な人柄の支社長に「よくぞ、こんな社員を育ててこられましたね」と語りかけた。
 本音です。

 そこから真っ直ぐにジムへ行き、バーベル、ダンベルを挙げプールで泳いで心身をすっきりさせてから、夜10時まえ、日本テレビへ。

 「今日の出来事」の最後の出演を無事、どうにか終える。
 どうにか終えたけど、愚かなぼくは、最終日ということで無意識に緊張して、2度ほど噛んでしまった。

 メイン・キャスターで、かつての記者仲間でもある小栗泉さんや、ディレクター、それに独研の若き秘書室長とぼくの4人で、軽く飲んで、打ち上げ。
 未明に帰宅。
 明け方まで「ぐらぐら執筆」。


▼さて、この「今日の出来事」のホームページに、ぼくと小栗さんのトークがアップされています。
「トークの泉」というコーナーを開いてみてください。
 一定期間しかアップされないようだから、興味のあるかたは、どうぞお早めに。


※写真は、石垣島の西に浮かぶ小島、黒島で撮った伝統の民家です。
 素晴らしい明るさと美しさでしょう?
 わたしたち日本国民は、このかけがえのない琉球文化も、護っていきたいですね。

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