On the road~青山繁晴の道すがらエッセイ~

2006-09-24 06:37:56

一度きりの日々





▼いったいどこまでいくのやら、と胸のうちで呟くような、密にして密な日程が続く。
 世の人はみな忙しいから、おのれだけが忙しいとは、ゆめ思わないけれど、早い話が、たとえば散髪に行く時間がない。
 空港で、10分でヘア・カット!という看板に目がいくけど、駆け込みたくなるけど、その10分がないんだなぁ。


▼日本の秋のはじまり、長月と呼ばれるこの9月半ばの今週、18日の月曜は、世間は休日なので、原稿の執筆にかなり専念した。
 ただ、残念ながら、体調が最悪に近くて、あまり進まない。
 長月の名は、夜長月から来たとも言われるから、原稿を書くには適した季節なのだろう。仮眠する代わりにジムへ行って体を造って、体調を回復させて、書きたい、書きたい。


▼明けて19日の火曜日、早朝にブレア首相の側近と、都内のホテルで朝食。
 この彼は、前日に独研(独立総合研究所)の若き主任研究員J(28歳、女性、シアトルで少女時代を過ごした帰国子女)と皇居や靖国神社をまわってから、ぼくにさまざまな意味深い質問をぶつけてきた。

 このひとはタイについて、やがて何かが起きるだろうと予言していて、まさしくこの朝食の十数時間後にクーデターが起きた。そしてタクシン首相は、ロンドンに亡命した。
 つまり大英帝国は、クーデターが起きることを知っていて、受け皿も用意していたわけだ。

 このブレア首相側近とのご縁は、ぼくの造った人脈ではなくて、若き主任研究員Jが造った新しい人脈だ。
 やるじゃないか、独研で人が育っているなぁと、内心で、嬉しくなる。
 嬉しいというか、ホッとする感じがする。ぼくはいつか、独研の社長のイスを次世代に渡し、物書きに戻りたいからだ。

 いや、いまも兼務の物書きだけどね、独研という新しい型のシンクタンク、どこからもいかなる支援も補助も受けないインデペンデントなシンクタンクをこの国に定着させて、ひとに譲って、兼務を外し、たくさんの時間を原稿に費やすようになって、原稿をどんどん本にして、みんなのところへ届けたいのです。

 朝食会を終えて独研に出社すると、シンクタンクの経営実務がどっと、当然ながら押し寄せる。
 そのさなかに、広島の会社経営者に2時間たっぷり、ロシア政府がサハリン2の開発に不当に介入した問題の根っこなどについて、レクチャーさせていただいた。

 このかたは、独研が配信している会員制レポートの会員なんだけど、「1か月に1度、青山さんと1対1で、すべての問題について話を聴きたい」と強く希望された。
 時間的には、当然ながらずいぶんと困難もあって、独研の社内には「社長、無理ですよ」という意見も少なからずあった。
 しかし、このかたが、中年と呼ばれる年齢になって、しかも会社の経営者として成功されながら、一から勉強し直したいとおっしゃる、その青春のような熱意に、ぼくは深く動かされて定期レクチャーをお受けした。

 その定期レクのあと、歯医者さんの定期検診に行くはずだったけど、会員制レポートの執筆と配信が遅れている。
 検診はキャンセルして、レポートのための取材と執筆を急いだ。

 夕刻には羽田に向かって、そこから大阪へ。
 夜更けまで、関西テレビの報道部と、翌水曜日の報道番組『ANCHOR』の『青山のニュースDEズバリ!』コーナーで何をどう話すか、どんな映像を用意してもらうかについて、打ち合わせる。

 ホテルに入って、夜明けに向けて、会員制レポートの執筆に戻る。
 ところが安倍新政権の人事、いや正確に言えば猟官運動をめぐって、ふだんあまり付きあいのない政治家のひとも含めて、想像を絶する電話質問の来襲に苦しめられる。
 ぼくなんぞに聞いてもらっても、まったくなんの意味もないです。当たり前ながら、なんらの謙遜でもない。


▼9月20日の水曜は、朝7時15分ごろから、RKB毎日放送ラジオ(福岡)の『ニュースの見方・目からウロコ』のコーナーに、電話でレギュラー生出演。
 安倍外交に秘められた、対中、対北朝鮮の戦略について話す。
 徹夜明けの眠気に、まぁまぁ邪魔されずに、お話しはできた気がする。

 午後、関テレ『ANCHOR』にレギュラー生出演する。
 体調が最悪で、これを視聴者に見せるわけにいかないから、いつものように、局入りのまえにホテルのプールで泳ぎ、悪いなかでも、どうにか体調を整える。

 おのれの躯を励まし、立て直し、生放送が始まった。
 ここでも安倍外交について話をし、終わるとすぐに伊丹から羽田へ飛び、テレビ朝日系『TVタックル』のためのコメント収録へ向かう。
 コメント撮りでも、疲れが話に出ないように、秘かに自分を叱咤し続ける。

 深夜に自宅へ戻り、原稿に戻る。
 しかし、あいかわらず異常な電話質問の来襲に苦しむ。


▼9月21日の木曜は、独研秘書室が努力してくれて、すべてのアポイントメントを外し、自宅で原稿を書き続ける。
 ただ、電子メールと電話による取材のあいまに、細々と原稿を書いているに近い。

 会員制レポートを仕上げて、独研に送り込み、会員へ配信してから、自宅近くのスポーツジムに新しく併設されたハリ治療院へ。
 長く苦しんでいる左肘痛に、ハリを打ち込んでもらう。
 さて、効けばいいけどな。キーボードを大量に打つから、肘痛もなかなか治らない。

 この治療師は、もとはスポーツジムのトレーナーだった。
 いまは頭をそり上げて、東洋医学のマジシャンだ。
「ぼくがトレーナーを辞めたのは、2年ほど前なんですけど、このまえテレビで青山さんを見ていて、トレーナーとしてジムで青山さんを見ていた2年前と比べて、躯が絞られているなぁと感心したんですよ。筋肉量が凄く増えて、筋肉の形が上半身もはっきりしてきた」と言ってくれたので、ちょっとびっくりしながら、こころのなかで喜ぶ。

 そういえば、少なくとも太ってはいないのに、体重が増えているなぁ。
 治療師は、「体脂肪が減って、筋肉量が増えているからです」と断言する。
 たった週に1回のジムなのに、効果はあるもんだなぁと、ジムとの縁に感謝する。


▼9月22日の金曜、激しい疲労のなか、這うように独研へ出社する。
 午前、独研へ研修に来ている陸上自衛隊の高級将校(佐官)ふたりに、論文の指導をする。
 かれらはいま、高級幹部学校(AGS)に属していて、論文を書きあげたら、部隊や幕(司令部)に戻っていく。

 日本の何をどう護るのか、民主主義下の戦力としての理念と哲学を明示すると同時に、現実をリアルに改革できる論文になるように、すなわち実際に読まれる論文になるように、ぼくなりに意を尽くして、お話しした。

 独研にこのごろ新しく台頭している、期待の『サーティーズ組』、30歳代のひとりである男性研究員Hが同席した。
 実に的確な発言をするので、彼の人柄の良さも相まって、内心で嬉しくなる。
 佐官ふたりの誠実な希求心も、すがすがしく思う。
 みんな、私心を超えて、やろうね。子々孫々のためにこそ。

 そのあと、独研の仕事の中核のひとつ、ある『研究会』の平成18年度の第1回を開く。
 国民を重大テロから護るために、政府のすべての関係機関と、民間のなかで公共的な仕事をするひとびとに集まってもらって、官と民の垣根を外して、熱く議論する場だ。

 ぼくが三菱総研の研究員だったときからスタートさせて、すでに8年目に入っている。
 仕事としては赤字ベースだけど、決して絶やさない灯火として、続けていきたい。

 激論の2時間のあと、出席者の有志との懇親会へ。
 政府からも民間からも、意欲のある人が残ってくれて、おいしい中華を食べながら、さらに突っ込んで議論する。

 ぼくは途中から食べるのをやめて呑むだけになりながら、つまり、もともとは大酒呑みなので、酒だけになってしまいながら、疲労の黒い海に沈み込みそうな自分を励まし、励まし、意味のある議論になるように、工夫しながら話す。

 そこから東京駅へ向かい、新幹線の最終列車に乗り、大阪へ。
 独研の自然科学部長が同行する。
 彼女も、専門のメタンハイドレート(日本の新しい海底資源)の探査がとても忙しくなっている。

 車中でモバイルパソコンを開き、執筆。
 新大阪に着く直前にうとうとし、到着すると、動けない。
 悪夢からもがいて起き出す、あの感じのように、無理に躯を励まして動かし、ようやくに降りる。

 ホテルに入って、1時間半ほど仮眠をして、朝まで情報収集と原稿。
 電話質問の来襲は、まだまだ、続いている。


▼明けて9月23日の土曜は、まず朝に関西テレビの情報番組『ぶったま』に生出演する。
 土曜日に寛いでいるだろう視聴者に、安倍外交の姿が伝わるようにと願いつつ、お話しする。

 終わると、すぐに伊丹から羽田へ飛んで、まっすぐテレビ朝日に入り、『TVタックル』のスタジオ収録に加わる。
 9月25日の月曜に、スペシャルとして放送される。ぼくはその第2部への参加だ。

 政治記者時代に、日本の改革へ志をともにしていた民主党の参院議員、簗瀬進さんと久しぶりに会う。
 簗瀬さんとは、小泉政権への評価、靖国参拝への考え方などをめぐって思いの違うところもあるけど、なにより生き生きとされていて、ひとりの長い友だちとして、内心で嬉しかった。


▼きょう9月24日の日曜は、テレ朝の『サンデー・スクランブル』に生出演する。
 もう朝の5時50分になっちゃった。
 そりゃ、ぼくだって、徹夜明けじゃない元気な顔でテレビ局に行きたいけどね…。

 過密、という段階も超えてしまった気もするぼくを、かろうじて支えているのは、えらそうな言い方に聞こえたら申し訳ないけど、志だ。
 それと、この躯、なかでも下半身じゃないかなと思う。


▼ぼくがひとりの社会人になったのは、26歳のときだった。
 慶大の文学部を中退し、早大の政経学部を卒業し、そのあいだにはアルペンスキー競技に下手くそなのに打ち込んで両足に大怪我をし、出口のみえない入院生活を送った時期もあった。
 だから勉強もしていないのに、大学院にも行っていないのに、ひとよりも社会に出るのが遅かった。

 入院していたとき、忘れがたい同室のひとびとがいた。
 柔道の朝げいこで下半身が生涯の不随となってしまったばかりの新婚早々の夫や、その夫をひっそりと訪ねてくる新婚の妻、交通事故で首が取れそうになり、頭蓋骨のてっぺんに穴を空けて、その頭を、背中から回した金属フレームから釣り下げて生きている大学生。
 そんなひとたちと、24歳のころのぼくは夏の日に、病室の窓のはるか彼方にみえる打ちあげ花火をみていた。
 あの頃のみんな、いまは、どうして生きていますか。

 ぼくはその後、ようやく病院を脱出したけど、駅のホームで電車を待っていると、両の膝が、外側に曲がる。
 足の膝は、皿の外側に曲がるはずがない。内側にしか曲がらない仕組みになっている。しかし、その皿が、アルペンスキー競技中の大転倒で痛めつけられていたから、左右の足の膝が外側に折れて崩れていく実感に襲われる。
 そのために、退院後も、ホームから線路へ転がり落ちそうになったりしていた。

 いまのぼくは、その下半身で支えられている。
 両足は、ジムのマシーンで100キロの重しを楽に上に持ち上げ、下に押し下げ、マシーンの横に付いているプロのトレーナーが嬉しそうに、そのぼくの大腿筋に触る。

 ぼくが努力して、こう回復したのじゃない。
 ジムだって、仮眠をとるのを諦めて無理にどうにか駆け込むだけだから、週にたった1回のペースでしか行っていない。
 スキーの板というのは、ハンドルもアクセルもブレーキもない。それを時速100キロの遠心力に耐えて下半身の筋力と柔らかさだけでコントロールしようとするから、大怪我もするけど、根っこから鍛えてくれもする。

 そのスキー板が造ってくれた基礎のおかげで、いまのぼくの腰の力や脚力がある。
 たまたまスキーに縁をつくってくれた、天に感謝している。



▽写真は、沖縄電力から独研へ出向していた秘書R(当時)が、最後の大阪出張への同行のとき、関西テレビの社員食堂で撮ってくれました。
 大阪は、おいしい街です。社員食堂のごはんも、充分においしい。

 ぼくはふだん、ほとんどジーパンにTシャツです。飛行機や新幹線での移動も、こういう格好が多いですね。


  • 前の記事へ
  • 記事の一覧へ
  • 次の記事へ
  • ページのトップへ
  • ページのトップへ