On the road~青山繁晴の道すがらエッセイ~

2007-02-19 11:16:36

ちいさな冬富士をみた





 いま二千七年、平成十九年の如月(きさらぎ)十九日の午前十時半ちょうど。
 お正月に書き込んでから、一度も、書き込むことができずにきた。

 年が明けて、ぼくの一身のまえの権威主義の高い壁、反権力と権力との巧妙な癒着は、いっそう分厚くなっている。

 このブログに、ひとことを書き込むための数分の時間もなく、この二月下旬ちかくまで来た。
 多忙には耐える。
 いつか死がぼくを休ませるから。
 ただ多忙のなかで強まっていくばかりの徒労の感覚と疎外感は、ほとんど誰にも話せず、正直、ここ七、八年ではもっとも苦しい時を、かろうじて生きている。



 慌ただしく乗り降りする狭い機中から、よく富士をみる。
 先日、いつもよりずっと南のルートを飛行機が飛び、そこから、富士をみた。
 わたしたちの列島の色と姿をよく伝える半島に、ぽつぽつと雲が湧き、その向こうに小さな富士をみた。

 富士を、間近な空からみることが多い。
 その大沢崩れの傷の深さ、ことしの雪の薄さをありありと何度も眼にして、富士の苦しみを感じるように思うときが増えた。

 それでも、小さくなった富士をみて、胸のなかの灯火が揺れた。かすかに明かりを強くした。
 太宰治の「富嶽百景」を、高校生のとき感嘆しつつ読んだ記憶も、ふと思い起こす。太宰のあがることのなかった天空から、富士が、しんと清冽に鎮まっているのをみている。

 富士を造った、わたしたちの列島のエネルギーは、南の硫黄島に、運命の火山をも造った。擂鉢山、すりばちやまだ。
 日本国民の島に星条旗が打ち立てられた擂鉢山は、富士火山帯につながり、ぼくが訪れたときも水蒸気を、白い末期(まつご)の息のように吐いていた。

 ああ天よ、ぼくのあまりに小さな命が死して地の奥に埋(うず)もれる、そのまえに、せめてひとつなりとも、われらの祖国と、それからできれば広く国境を越えた人の世に、寄与せしめよ。



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