On the road~青山繁晴の道すがらエッセイ~

2007-03-19 11:51:13

深く淡く生きる   07年の1





▼中東カタールの首都ドーハに、現地時間の3月17日土曜の深夜に到着。気流の関係なのか、ヨーロッパへ行くより長いフライトだった。
 日本時間では18日日曜の朝になっている。

 このごろ海外出張を、独立総合研究所(独研)の主任研究員に任せて、ぼくは出ないことも多いから、タイムラグ(時差)を感じる体になってしまってる。
 ぼくひとりで諸国を駆け回っていた頃は、時差など何も感じず、どこでもいつでも眠れた。いまは、日本時間に体が引っ張られて、眠りに入りにくかったりする。

 もっとも、その頃より仕事がさらに増えているから、眠る時間はどうせ、ない。
 ホテルの部屋で1時間半ほど眠って、パソコンに向かって仕事をする。
 ぼくのノート・パソコンは出発直前に、壊れてしまったから、若き秘書室長のSが用意してくれていた予備のパソコンだ。

 ぼくのノート・パソコンはいつも、ぼくが倒れる先の身代わりのように、ばったりと倒れる、いや壊れる。
 すさまじいハードユースだから無理もないが、タイミングがね、悪すぎるよなぁ。
 しかし用意の良かったSに感謝。今いちばん身近にぼくを見ている人だから、ぼくの前にパソコンが壊れることも、よく分かっていたらしい。


▼ホテルの部屋で仕事をしていると、現地時間の18日日曜の昼を過ぎる。
 午後2時すぎまでには、世界でもっとも存在感のあるニュース専門テレビ局であり、中東で初めて「報道の自由」を掲げた『アル・ジャッジーラTV』に入ってなければいけない。
 有名なアフムド・シェイク編集長にインタビューする約束になっているからだ。日本の視聴者に届ける、大事なコンテンツ(中身)のひとつだ。
 ところが、同行している関テレ(関西テレビ)のクルーから何の連絡もない。

 ちょっと心配していると、関テレがロケからようやく帰ってくる。
 ところが、この現地から日本へ水曜日に生中継する許可を取ろうと、カタール政府と交渉しているだけで時間がとられ、遅くなってしまったとのこと。
 ぼくの懸念していたことが、現実になった。

 コーディネーターを雇って交渉をしてもらっている、とのことだったけど、中東の恐ろしさを知らないのじゃないかなと心配していた。
 コーディネーターといったって、よほどいいコネクションをたどって雇わないと、大半は、なんらかの問題がある。
 関テレの雇った女性コーディネーターは案の定、自分が楽をすること、それなのに自分が褒めてもらうこと、そして言い訳をすることばかりに関心があるようなひとで、アル・ジャッジーラTV局に向かう運転も、どこへ行ってしまうのか分からないような困った運転だ。

 ようやくアル・ジャッジーラTV局に着くと、セキュリティ・チェックで引っかかり、コーディネーター女史は「カメラは持ち込めないと思う」と言い出す。
 おいおい、それじゃ編集長にインタビューをしても、視聴者に届かないじゃないか。

 これは、ぼく自身が交渉するしかないな、きょうはインタビューに当然ながら集中したかったけど、それは諦めて、交渉込みでやるしかないなと、胸の内で決める。
 コーディネーター女史が当てにならず、関テレのスタッフは英語が不得意となると、インタビュアーのぼく自身が切り開いてインタビューを実現するしかない。

 セキュリティ・チェックをどうにかくぐり抜けて、構内に入る。
 応対に出てきたアル・ジャッジーラTVのスタッフに「編集長とアポイントメントがある」と強調して、関テレのムービー・カメラは回しっぱなしのまま、中へ、どんどん入る。

 シェイク編集長の部屋に突撃して、インタビューを開始。
 シェイク編集長は「え?撮るの?」と言う。あんた、テレビ局の編集長だろうが。

 ちょっと嫌がっている編集長に、マイクまで付けさせてもらって、インタビューの収録を始める。
 イラクのこと、イランのこと、イスラエルのこと、もちろんアメリカのこと、そして六か国協議で苦しい立場に立つ日本のこと。
 予定時間を大幅に超えて、たっぷり話す。シェイク編集長は、百戦錬磨でしたたかな、アラブの代弁者だった。

 そのシェイク編集長に、アル・ジャッジーラTV局の内部を撮影させてくれと、頼む。
 コーディネータ女史は、「関テレの依頼は急だったし、テレビ局内部の撮影許可なんて、ふつうは下りない」と下手な英語で言い張り、関テレのカメラマンに「許可がないんだから、撮影をやめなさい」と叫んでいる。
 あなたはいったい、何を、コーディネイトしているのかな?

 シェイク編集長に「許可がないのだけど、このまま局内を撮影させてくれ」と頼むと、編集長は困惑しつつ、姿を消す。
 さぁ、誰かに交渉しに行ってくれたのか、それともインタビューが終わったから姿を消したのか、判断がつかない。
 とにかく居座ることにして、カメラは回しっぱなしにしてもらっていると、シェイク編集長が「国際担当」という人物を連れて、戻ってくれた。
「この男を案内役に、どうぞ局内を撮影してください」とシェイク編集長。やれやれ。

 この人物は話せば話すほど好意的になり、こちらの希望するところは全て、撮影させてくれた。
 報道の自由という観念そのものがなかった中東から、とにもかくにも「報道の自由」を掲げて世界へ発信するアル・ジャッジーラTVのニュースルーム(CNNと同じくキャスターらが生放送で発信する現場)からパラボラアンテナの集積基地まで、撮りに撮った。

 この「国際担当」のひとと別れを告げたあとも、関テレのカメラマンが建物の外観などを撮っているので、ぼくは慌てて「もうやめて、早く撤収しましょう」と大きな声を出す。
 セキュリティがひょっこり現れて、「撮影は許可証がないと禁止だ。テープを出せ」と言うことも充分にあり得るからだ。
 中東に限らず、日本のような自由のない世界では、仕事を七分目で終えてさっさと撤収することが肝心だと、経験からしていつも考えている。


▼アル・ジャッジーラTVでの取材は無事に、やや奇跡的に終わったが、肝心の日本への伝送、中継の許可が下りていない。伝送や中継の手段そのものも、なんら確保されていない。
 うーむ、これまで体験したことのない、びっくりの現状だ。

 コーディネーター女史が全く当てにならないことがカンペキに判明したので、なんと、ぼくと独研の若き秘書室長Sが、関テレのディレクターと一緒に、アル・ジャッジーラTVのエンジニアに協力してくれるよう交渉する。

 おいおい、ぼくらは番組のコンテンツ(中身)を充実させるのが役割で、伝送とか中継の技術的なことは何も知らないし、こりゃ困った話だ。

 アル・ジャッジーラTVのエンジニアは、親切に応対してくれたが、アル・ジャッジーラの局としては協力できないとのこと。
 代わりに「カタールTV」を紹介するというが、その紹介うんぬんのややこしい交渉と、面識も何もないカタールTVの側との交渉も、実質的に独研のS秘書室長と、ぼくが担うことになってしまった。

 S秘書室長は、肝心の国際戦略会議でのぼくの役割をサポートする本来業務をこなしつつ、話がなかなか伝わらない相手と、電話で交渉を続ける。
 彼女の疲労と困惑が、ぼくに肌で伝わってくる。

 その最中に、カタールに駐在している、ある日本政府の関係者と会って、食事をともにする。
 誠実なひとであったが、「雑務に圧迫されて、情報収集(インテリジェンス)は何もできていない」と言う。
「アル・ジャッジーラTVは、イスラーム過激派の影響下にある」とも言うので、その根拠を聞くと、実は情報は何もない。

 ぼくは疲れてもいたし、人柄がよい相手だし、どうしようと思ったけど、心を励まして「インテリジェンスをやらないでは、日本国民に負託されて、この地にいる意味がない。雑務は理由にならない。同じような雑務を抱えつつ、ぼくも驚かせるほどのインテリジェンスを遂行しているひと(日本政府の関係者)が、この中東に複数いますよ。残り任期に、せめて、もう一度、新しい努力をされてはいかがですか」と問いかける。

 そして「アル・ジャッジーラTVはむしろ商売上手なビジネス集団だ。反米的でアラブ民族主義に傾いた報道をすれば、視聴者が増えて儲かるのは当たり前であって、その報道ぶりだからイスラーム過激派に資金を提供しているとか、逆に資金をもらっているとか決めつけることはできない。社員のなかに、過激派のシンパなどが、そりゃいるかも知れないが、組織としてどうか、とは別の問題でしょう。組織としてのアル・ジャッジーラTVが過激派と関係を持つなんて、リスクの高すぎることをやるとは、具体的な根拠のない限りは、思えない」と話した。

 食事は、まぁ、ずいぶんとマズイ、冷えきった味のイラン料理の店で、支払いだけは立派な金額だった。
 インテリジェンスをやっているひとであれば、現地人の行く、おいしい店を必ず知っている。このひとは、この店すら「ほとんど来たことがない」とのことで、食事は現地の情報源と接触するのではなく、家族と一緒にいつも家庭で食べていたんだなぁということが、分かる。

 そんな生き方も、ある。
 だけど、生涯にまたとないかも知れない中東赴任の機会だし、なにより国民に負託されているのだから、家族との食事も大切にしつつ、現地のさまざまな立場のひとびとと交流し、情報を手にしてほしい。
 人柄の良い人と書いたのは、もちろん社交辞令ではなく、ほんとうにそうだから、ぼくは惜しむ。リカバリーを、こころから期待している。
 まだ会って2回目のぼくに意見されるのは、きっと不快な体験だろう。それを、どうか活かしてほしいな。


▼ホテルへ帰ると、どっと疲れが噴き出す。
 秘書室長Sも、思わぬ専門外の仕事に疲れ切っているだろうに、それを顔に出さずに耐えて奮闘している。
 がんばれ、きみのような志ある次世代に灯火を渡すために、ぼくは命を削ってる。
 きみのような、ひとたちが、いる限り、ぼくらのこの祖国は大丈夫だ。

 とりあえず1時間半ほど仮眠をする。
 ベッドがふかふかで快適なのが、救いだなぁ。
 だけども、なにやら哀しみでいっぱいの夢をみて、うなされるように目を覚ました。
 どうして、ぼくは、こんなに、悲しいのだろう。

 ともあれ、さぁ、また夜明けに向けて、仕事だ。
 明日の朝は、アメリカ政府のなかで最も信頼している高官と朝食ミーティングが入っている。
 北朝鮮にすり寄って、日本を裏切るのかと、彼の胸に聞いてみよう。



 この地味なサイトに来てくれるひとのために、なにか写真をアップしたいけど、きょうのぼくは「テレビ局の中継基地を確保する交渉」などという、まったく知らない世界の仕事にいきなり直面して、ちょっとね、写真を撮る余裕はなかったです。
 ごめんなさい。

 …と書いたところで、このひとつ前の書き込みにいただいたメッセージ、「チンシャ猫」さんと「さくら」さんのメッセージをいま読んで、ちょっと涙が出ました。
 ありがとう、ああ、ほんとに励まされます。

 だから思い直して、ホテルの部屋のテラスに出て、一枚、撮りました。
 なんだか前と似た写真で、やっぱりごめんなさい。

 だけど、ペルシャ湾に面した砂漠の地、ドーハらしい夜明けの色は感じてもらえると思います。
 ペルシャ湾は、意外なほど水がきれいです。エメラルド色に澄んでいる。そして、この季節の夜明けは、これも意外なほど、穏やかに、もやっていることが多い。強い太陽が出てくるには、すこし時間があるのです。

 いま現地時間の3月19日月曜の早朝、5時45分です。


  • 前の記事へ
  • 記事の一覧へ
  • 次の記事へ
  • ページのトップへ
  • ページのトップへ