On the road~青山繁晴の道すがらエッセイ~

2011-02-16 04:47:30

その1

遺書ならざる遺書 その1

 2月15日火曜 深更に帰京する新幹線車中にて


▼ぼくは大腸癌です。
 世にささやかながら発信している立場ですから、ここに公表します。

 ただ、早期の大腸癌ですから、手術して大腸を10センチほど切除し、入院からわずか1週間で退院し、即、すべての仕事に復帰します。

 この2月15日の夜から、16日水曜の夜明けまでに、さまざまな至急の仕事(と言っても大半は無償の仕事)をひとつひとつ完遂してから、早朝いつも通りにRKB毎日放送(福岡)のラジオ番組に電話で参加(出演)し、午前10時、都内の病院に入院し、17日木曜にお腹を開いて手術、その翌週に退院します。

 手術に、特に問題はありません。
 ただ、痛み止めのための硬膜外麻酔(脊髄への麻酔)と、それから全身麻酔をおこなって開腹しますから、死亡の可能性はあります。
 きのう2月14日の月曜に、重なり合う仕事のあいまに大急ぎで病院に行き、麻酔科の診察を受けました。術前のプロセスの始まりです。
 診察室での会話の一部をちょっと、忠実に再現してみましょう。

 麻酔医  「全身麻酔では、意識がなくなります。呼吸も止まります」
 あおやま 「じゃ、死人と同じですね」
 麻酔医  「そう、死人と同じ…あ、いや、心臓が動いてますよ、心臓が」
 あおやま 「あ、心臓、確かに。しかし、この(患者が手渡される)注意書きには、20万例に1人は死亡する、と書いてありますね」
 麻酔医  「うん、日本はまだ少ないほうですがね、どうしても20万回に1回は、目 が覚めなくて亡くなってしまう。だけどまぁ、ほかの国に比べれば、まだ少ないほうですから、ね?」
 あおやま 「ええ、少ないほうでしょうね。その20万回に1人がぼくでも、天命ですから、先生、問題ないですよ」

 ぼくは共同通信の若手記者のころ、事件取材のあいまに国立大学の医学部を回り、医事記事も書いていた時期があります。それを思い出しながら、このすこし珍妙な会話を、いくらか楽しみました。

 楽しみながら、あらためて、おのれの死に備えて覚悟を定め直しました。
 実際に、ぼくが20万例の1つになることは、もちろんあり得ます。自分だけが特別ということは、まったく考えません。違う統計では10万例に1人が亡くなっているという数字もあります。全身麻酔という人類の偉大な智恵のなかに、死は確実に潜んでいます。
 そして何より、生まれてこの方、意識をすべて失い呼吸も止まるという経験はありません。人生が、すべてが、不意に喪われるという、世界でありふれた出来事に自分も、少なくともいったんは近づくのが現実です。

 したがって、遺書を、この地味なブログに書き置いていくことにしました。
 ただし、アクシデントが無ければ、たったの1週間で全仕事に復帰するのですし、その短い入院中も、実は仕事はゼロではありません。
 だから、遺書ならざる遺書、遺書にはなれない遺書です。

 けれども、かりそめに書くのではありませぬ。いたずらで書くのでもありませぬ。
 仮にも、親から、ご先祖から、祖国からいただいた、かけがえのない命にまつわる書きものですから。
 そこで、これまで決して書かなかったことを含めて、書き留めていきます。


▼去年11月の1日と2日に、生まれて初めて、人間ドックに入りました。
 そのとき大腸の内視鏡検査でポリープが3つ、見つかり、うちひとつは腸内をほとんど塞ぐほどに大きかった。不思議でした。快便の日々だったからです。
快食快便ではなかった。食事はきわめて不規則で、カップ麺だけの時もあります。残念ながら快食ではなかった。けれども何をどう食べても、最後は快便だった。こんなに巨大で醜いポリープに占領されながら、ぼくの腸はいったいどうやって、あんな快適な新陳代謝をつくり出すのだろうかと、不思議でした。
 そして、ポリープの一部組織の検査では、悪性ではなく良性だという結果が出ました。

 しかしぼくは、ありありと、子供時代の記憶を呼び戻していました。
 小学校の高学年のころ、『ぼくは大人になると、大腸ガンになるだろう』と、ふと考えたのです。なまなましい予感でした。

 ポリープがあまりに大きいので、良性でも取っておこうということになりましたが、入院・手術のできる日程がなかなかとれません。
 ようやく年末の12月27日から29日まで入院し、このときは開腹せず、レーザーで切除しました。
 切除したポリープのうち、ひとつはあまりに巨大であり、念のため小さなポリープ2つも併せて、本格的な組織検査に出すことになりました。
 まだ若い優しい医師は「こうなると癌の可能性も高くなりましたが、きっと癌ではないと思いますよ」と話し、1月11日にその結果を聞くことになりました。

 こうして癌の宣告の予感のなかで、大晦日も、お正月も過ごしました。
 ぼくの家系は、父方も母方も長寿家系で、癌になったひとは皆無に近いのです。老衰か事故死が大半です。ぼくは国内A級ライセンスを取り直してサーキットに戻っていたりしていますから、一族の誰もがぼくの事故を心配し、ぼくが癌になるとは、夢にも思ったひとはいないでしょう。
 癌の宣告を受ける予感と、「いや、一族に癌はいない」という事実のあいだで、しかし、ぼくは思い悩むことは一切無かったのです。
 これが最後の正月かもしれないと、胸の奥深くで思いながら、こころは澄みわたるようでした。死に向かいあうことで、余計なものが削ぎ落とされ、むしろ晴れやかな気持ちを味わいました。

 ぼくは家庭で武家教育を受けましたから、死をいつも意識し、子供の頃は死ぬのがとても怖い子供でした。
 それを超克する道程が、ぼくの人生でもありました。
 死を超克する道のりで、私(わたくし)を脱するという境地に出逢ったのです。
 その歩みが嘘ではなかった、おのれに嘘をついているのではなかったと、この静かな気持ちのお正月で確信し、それが嬉しかった。

 そして1月11日を迎え、若い医師の無言の顔をみた瞬間に、結果が分かりました。
 医師は、ぼくの顔を正視できないほどに、うなだれ、悲しそうに「残念ながら癌が見つかりました」と告げました。
 ぼくは、またも不思議だった。患者にいちいち感情移入していては、医師の体が持ちません。そんなことはしない習慣がついているはずなのに。
 医師はまるで、ご自身を励ますように「でも早期ですから、問題はありません。転移も無いと考えています」と言葉を続けました。
 この医師が、ぼくのささやかな発信をご存じなのかどうかは、知りません。ぼくは何も話していませんから。

 ぼくは、ただ淡々と、この癌の宣告を聞きました。どうやって入院・手術の日をひねり出すか、それだけを考えていました。
 なぜか。1月、2月は、とりわけ講演会が多かったのです。講演をやるための営業活動は基本的にしません。テレビ番組への参加(出演)とまったく同じで、向こうから自然にやってくる話を受けるだけです。
 講演もテレビも、独研(独立総合研究所)とぼくの本分、本来の仕事ではありませんから。
 それでも、この頃はほぼ毎日、講演会があり、そして講演するぼくは毎日のことでも、主催者は1年ほど前から準備し、チラシにぼくの名を刷り込み、苦労して配り、聴衆を集めています。
「ひとつの講演もキャンセルしない」、そう決めていました。主催者の労苦に違いはないからです。

 そして、今度は開腹手術を執刀するベテラン外科医の診察を受けて、手術日を決めねばなりません。
 しかし、その外科医の診察を受ける日が作れない。
 ことは急を要しています。その外科医の次の診察日に、必ず受診するように病院側から強く求められ、やむを得ず、公職の原子力政策・新大綱の策定会議に遅れていくこととし、1月14日金曜の朝に、外科医の診察を受けました。

「手術を3月以降にできませんか」
 そう聞いてみると、外科医は「見つかった癌を取らないまま3月なんて」と驚き、ぼくのお腹を調べて、「青山さんは腹に脂肪がついていないから、開口部を小さくできる。ふつうは最短でも2週間の入院が必要だけど、このお腹なら、1週間に入院を縮められる。その代わり、入院を急いでください」とおっしゃった。
 たまたま2月の半ばに、オランダでの講演などのために海外出張をする期間が、1週間、取ってありました。
 このオランダでの講演は、幸い、まだ告知もチラシ作りも始まっていなかったとのことで、かける迷惑は他よりは小さく、主催者のかたがたが深く理解してくれて、この海外出張を取りやめた1週間に、ようやく入院・手術を押し込むことができました。
 それが2月16日からの1週間なのです。


▼これ以外に、去年の夏から脇腹の痛みに襲われつつ我慢し、12月1日水曜の関西テレビ「スーパーニュース・アンカー」の生出演の際に、痛みが最高潮に達し、番組を気合いで終えたあと、救急病院へ行き、尿路結石と分かりました。

 それから、1月14日の夜から、実に10日間、夜には42度や41度まで体温が上がる高熱を発し、朝にはどうにか熱を下げて仕事を遂行するという地獄のような繰り返しとなり、ようやく近所の開業医に診てもらうと、重篤な肺炎で、そして敗血症による多臓器不全で急死する一歩手前だったそうです。

 かの偉大なヘレン・ケラーになぞらえるのは、あまりに僭越ですが、まぁ実際、癌を加えた三重苦だったわけですね。ふひ。
 尿路結石と、肺炎は、押さえ込みました。
 2月16日からが、最後の戦い?です。


▼人間ドックからは実に3か月半を経て、ようやく、この腹に巣くった癌細胞を切除します。
 この間に転移したら、とは、ぼくも考えました。

 しかし、さまざまな講演会や、公(おおやけ)の会議、それらを準備されてきたひとびとの労苦を、どうしても無にはできなかった。
 これがぼくの生き方だから、やむを得ません。

 癌だけではなく脳卒中や高血圧すらいない長寿家系、そのなかでも格段に体力があることを一族のみなが知っているぼくが、ただひとり、なぜ癌になったのか。
 劣化ウラン弾によって汚染された戦地を歩いたからか、尋常ならざるストレスのせいか、それは分かりません。
 分からないし、詮索するつもりもない。誰のせいでもなく、ぼく自身の招いたことだからです。

 さて、この遺書ならざる遺書に書き留める、「今までは決して書かなかったこと」とは、上記のことではありません。
 それは、「その2」以降に書いていきます。


▼きょう2月15日火曜は、大阪の守口門真青年会議所(JC)の招きで、青年諸君と、広く市民のかたがたのために、夜7時から講演しました。
 講演時間が短かったから、ぎりぎりまで、いや、ぎりぎりを超えて、話し、問いかけ、一緒に考え、そして最終の新幹線に何とか間に合ったとき、新大阪駅で、みごとに転んでしまいました。
 手術に備えて、何十時間も絶食していますから、ぼくなりに死力を尽くした講演のあと、実はふらふらでした。

 物凄い音とともにパソコンを駅の通路に叩きつけてしまい、パソコンはどうやら無事ですが、通信のためのUSBデバイスを壊してしまいました。
 そのため新幹線の車中でネットにつないでアップする予定が不可能となり、アップ時間が遅れました。新幹線を降りたら、至急の仕事がいくつも待っていました。無償の仕事だからといって手を抜くわけにはいきません。
 もうすぐ、夜が明けていきます。
「その2」はいつ、書けるか。なるべく入院中に書きたいですね。退院すると即、至急仕事の大津波が押し寄せてきますから。

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