On the road~青山繁晴の道すがらエッセイ~

2021-07-25 15:02:50
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【推敲しました】【書き加え、書き直しました】  同日同時刻  命の最期の力を振り絞ったメッセージ

▼まもなく7月25日の午後4時が来ます。
 わが母は、その腎臓のすぐ上部に巨大な癌を抱え闘病していましたが、この時刻に絶命しました。
 その時刻は、まさしく、ぼくをかつて産んだ刻 ( とき ) だったのです。

▼翌日 ( 西暦2014年7月26日 ) の新聞記事はこうでした。

訃報

青山 喜賜子さん ( あおやま・きしこ=青山繁晴独立総合研究所社長の母 ) 25日死去、91歳。岡山県出身。葬儀・告別式は8月2日午前10時から東京都品川区西五反田5の32の20、桐ケ谷斎場で。喪主は次男繁晴 ( しげはる ) 氏。

▼母は、津山藩 ( 現在は岡山県の一部 ) の武家に産まれ、その武家が甚だしく没落したために、少女の頃から辛酸を舐めました。
 そのために重ねた、言葉にできないような屈辱と悲惨をあえて日記に記し、その日記を生前、末っ子のぼくに見せてくれました。
 ぼくはその見事な文章力に感嘆しつつ、自分のなかで客観視をし、そこから着想して最初の小説、「夜想交叉路」を書きました。
 共同通信社政治部の記者を辞めて、三菱総合研究所の専門研究員となって間もなくの当時です。
 この処女作は、「文學界新人賞」の最終候補4篇のひとつに残り、当時の編集長はずいぶん買ってくださっているようでしたが、選考委員のおひとりの強い反対に遭い、この回の文學界新人賞は受賞者なしに終わりました。
 したがって夜想交叉路は印刷されておらず、物語の背景のひとつ、あくまでひとつですが、背景となった母も読んでいません。

▼父との結婚後も、生家の没落を周りから烈しく責められたとのことでしたが、母は武家の娘としての矜持 ( きょうじ ) を喪わずにいました。
 そして、ようやく家庭が安定期に入り始めてから、遅い子供として、末っ子のぼくを産んだのでした。

 ぼくの少年時代から、母から希望を託されているのが、よく分かっていました。
 しかし、ただの一度も負担とは思わず、マザーコンプレックスにもならず、母がいつも父を厳しく評するのも、ごく客観的に、こゝろのなかで突き放して聴いていました。
 そのうえで、母は、ぼくの背骨を造ってくれました。
 おまえらしく、男の子らしく、晴々 ( はればれ ) と生きなさい、と母はよく言っていました。このことと、女性や性的少数者に偏見を持たないこととは、まったく両立する家庭教育だと考えます。
 要は、ぼく自身の消化次第なのです。

 母も父も別に、「女性を守れ」とは言いませんでした。
 ぼくは父と母の家庭教育を、おのれなりに統合し、「女子を徹底的に護る」ということを生き方のひとつにしました。それを実践しています。
 この実践が無ければ、たとえば、とっくに青山千春博士は船 ( 海洋調査船 ) を降ろされ、メタンハイドレート、メタンプルームへの日本の取り組みはまったく異なったものになっていたのだろうと、これもごく客観的に考えています。

 ちなみに、青山千春博士がふたりのまだ幼い男の子を残して、長期の遠洋航海に出るとき、母は「あんたが言えば、千春さんは言うことを聞く。子供を苦しめる、この乗船は無くなる。とめるべきや」と猛然と反対しました。
 ぼくは「この遠洋航海を逃せば、二度と船に戻ることはできない。子供はぼくが責任をもつ。政治記者の仕事がどんなに忙しくても工夫して、母親が帰ってくるまで立派に育てる。子は、親の背中を見て育つ。心配ない。断固、遠洋航海を支持します」と撥ねつけました。
 母は大泣きをして、「そんな子に育てた覚えはない」と言いました。
 ぼくは、「そんな子に育ったから、女性の夢を護る。お母さん、女も男も夢は同じや。きっと将来は、社会と国のためにもなる」と答えました。
 そのとき父は、医療過誤で、現役社長のまますでに亡くなっていました。
 父はぼくに寛容でしたから、もしも健在でも何も言わなかったでしょうが、おそらく腹の中は母と同じだったのではないでしょうか。

▼ぼくは高校二年生のとき、『わが母はむしろ、ぼくに依存している。マザーコンプレックスのひとがお母さんに依存するのとは反対のことが起きている』と気づき、その段階で母と並んで歩くことすら、拒みました。
 いちばん最初は、駅から商店街へ続く地下道でのことでした。
 なにかにつけ波立つことを好まない温厚な兄貴が、驚き呆れて、ぼくを見ていたのを覚えています。

 母は、どれだけ寂しかったでしょうか。
 よく分かっていました。

 しかし高校生ながらにこゝろを鬼にし、やがて、誇り高い母は何も言わなくなり、よい親子関係が戻ってきました。
 ぼくは18歳から20歳の頃にかけて、生き方に凄まじく苦しみました。ぼくと淳心学院中高等学校の友だちはみな、あらかじめ大学に進学することが決まっています。
 大学に行けないひともいるのに、まるで当然のことのように大学に行っていいのか。
 では大学に行かないことが、解決策になるのか。むしろ逆ではないのか。
 いや、そう考えるのは、結局は、自分が無事に大学に行っていたいからの口実ではないか。

 二度と若い自分に戻りたくありません。
 ほんとうに苦しかった。誰にも言わず、考えに考え抜いて、ついには自死に近づいた瞬間を、今でもありありと覚えています。
 そういうぼくを、母も父も、黙って支えてくれていました。
 すべてを克服して、共同通信の記者になったとき、父と母はほんとうに喜んでくれました。

 ぼくが社会に出てから一度だけ、母が激怒したのが、上記の遠洋航海に送り出す決断の時でした。
 しかし、男の子ふたりは、まさしく女性を護る男子に育ちました。いまも調査航海を続ける、ふたりの母親のよき理解者でもあります。
 それを見て、わが母は、長い時間をかけて納得してくれたようでした。

 その母は、東京が大嫌いでした。
 母は、誇りに満ちた日本女子であると同時に、矛盾にも満ちていて、箱根の山の向こう ( 東 ) になぜか偏見を持っていたのです。
 標準語を認めず、「ただの東京弁や」と言っていました。
 ぼくの学生時代に、最初の下宿先にやって来て、魚屋さんへ買い物に行って帰ってくると「ちりめんじゃこと、しらすの区別もつかへんのや」と、ぶうぶう言っていました。あるべき食文化もない、というわけです。わはは。
 その母が年齢とともに歩けなくなり、諸事情を考えて、あえて母の嫌いな東京に引き取りました。
 母が評価してくれる東京の食べ物は、江戸前のお寿司だけなので、車椅子で一生懸命に、お寿司屋さんに連れていきました。

 そして、長い闘病が始まり、ぼくが独立総合研究所の社長として出張に出て、新幹線に乗っているとき、青山千春博士から涙声で電話があり、「容態が急変した」とのことでした。
 まもなく、「お母さんの最期の心拍だよ」と再び、電話がありました。
 病室のモニターに表れる、母の鼓動の音でした。
 それが止まったのが、午後4時ちょうど、まさしく同日の同時刻に、神戸市にてぼくを産んだ刻 ( とき ) でした。

▼もちろん、ただの偶然だと言うひとも、沢山いらっしゃるでしょう。どうぞ、そのように解釈なさってください。
 いわば当事者のぼくは、母の最期の気魄を感じます。
 日本の武家の娘の、伝言です。
 天下晴々と使命を果たしなさい、と。

▼あれから今日で7年。
 日本キリスト改革派教会の信徒だった母には、何回忌というものがありません。

 父も母も、ぼくが「選挙に出てくれ」という要請を断っていることを知っていたので、今のぼくを、予想もしなかったでしょう。
 父と母の代わりに、姉と兄が心配しつつ見守ってくれています。

 母の最期の気魄に感ずるところが深く大きくて、思わず、これまでより踏み込んだお話しを、無条件に公開しているこのブログで話してしまいました。
 そして、ゆっくりと記しているうちに、午後4時を回り、さらに午後5時も回りました。

 父も母も喪っている今のぼくには、みなさんが居て、沢山のお祝いメッセージをいただきました。
 魂からの感謝を申します。

 ご存じのかたもいらっしゃるとおり、万やむを得ず、議員を続ける決心をしました。
 しかし、それは、議員の任務を続けられるということとは、まったく別物です。選挙でどうなるか分かりません。
 その証拠に、この新しい決心と覚悟を思い切ってお話しした動画は、一部の方が視てくださったあとは、ぴたりと視るひとがいなくなっています。 ( その動画はこれです )
 これが現実です。

 この5年間の議員活動は、主流派のオールドメディアによって徹底的に、ほんとうに徹底して、この世に存在しないことにされ、国会質問すらも報じられず、活動だけではなく、ぼくという国会議員、にんげんはこの世にいないことになっています。
 これは、来年夏の参議院選挙にどーんと響いてくるでしょう。
 卑劣にして巧妙な妨害工作が、外国からの豊富な資金も得ていますから、現状に増して、行われるでしょう。
 しかしそれよりも影響が大きいのは、一部の方を除いては、ぼくはすでに忘れられた存在だという現実です。

 このエントリーで何度も「みずからを客観的にみる」という姿勢をあえて記しましたが、このことも、客観的に自分を突き放して考えれば、そうだということです。

 しかし、ぼくは何も変えませぬ。
 いかなる利益団体の支持もお断りをし、どんなに選挙資金が無くても、政治献金をどなたからも1円も受け取らず、政治資金集めパーティを一度も開きません。いずれも法が保証していても、ぼくはやりません。
 新しい議員のあり方、そして働き方を、後続のかたのためにも示す、それを変えません。

 不肖ながら代表を務める護る会 ( 日本の尊厳と国益を護る会 ) の衆参67人とともに、まずは、祖国を甦らせるための秋に臨みます。





 
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