2021-09-19 22:49:14
この日時は本エントリーを書き始めた時間です
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【推敲しました】 わははシリーズ その1 国事と総裁選と、それから、頭の隅にはキレッキレの・・・
いつもいつも堅苦しい話ばかりじゃなくて、このぼくの庭で、たまには楽しい ? 話もさせてください。
名付けて、「わははシリーズ」。
▼きょう9月19日は日曜でしたが、いつも通りに、休みにはならないです。
明日は、連休の最終日ですが、同じです。むしろ今日よりさらに仕事は多くて、責任も重いでしょう。
「青山さん、きょうは休みでしたか」という、なんとなくリラックスした問いかけが来ていましたから、ふと、なぜ休みが無いかを考えました。
ひとつには、ひとりのもの書き、作家でもあるからです。
作家でも、休みをつくっているひとが多いと思いますが、ぼくはたまたま、三菱総研の研究員 → 独研 ( 独立総合研究所 ) の社長・兼・首席研究員 → 参議院議員という、別の職がいつも並走ですから、週末にやすんでいると、どんな作品も書けません。
ぼくが作家となった、つまり自分の著作が出版社から刊行されるようになったのは、ペルー事件 ( 在ペルー日本大使館が現場の国際テロ事件 ) を契機に、共同通信を辞して、記者をやめてからです。
共同通信の時代も、自分の本を出してはいけないという決まりはありませんでしたが、ぼくにはとてもその気は無かった。記者であることに徹していました。
その代わりに、記者を辞めると、すぐに最初の小説を書きました。
その作品「夜想交叉路」が、長い伝統を持つ文芸誌の「文學界」の新人賞の最終候補作になりました。
結果は、その回の文學界新人賞は「受賞作なし」に終わったのですが、当時の編集長に認められて、第2作を書き、それが「文學界」に掲載され、無名の新人だったにもかかわらず、単行本になって文藝春秋社から出版されました。
昭和天皇の崩御を描いた、「平成」ですね。 ( のちに幻冬舎文庫となるときに、改稿、改題して「平成紀」 )
幸運なデビューだったと言えるでしょう。
タクシーに乗っていて、運転手さんからなぜか、「あなたは何をしているひと ? 」と聴かれて、シンクタンク ( 三菱総研 ) で研究員を勤めながら小説を書いて、こういう本が出たばかりですと、ありのままに話すと、なんだかもの凄く喜んでくれました。
そして降りるとき、運転席から振り向いて「これから小説家として頑張ってください。その本、買って、読んでみますよ」と仰ってくれました。
ぼく自身も、前述の「平成」の仕上げを、文藝春秋の本社の一角でやりながら、『子どもの頃からやろうと思っていた小説家としての人生も始まるんだ』と思ったことを覚えています。
窓の外の緑が、風に揺れていました。
編集者の指摘はなかなか厳しくて、決して楽な日ではなかったのに、落ち着いた、いい気持ちでした。
なのになぜ、そのまま作家専業にならなかったのか。
それは、おのれでは良く分かっています。悔いもありません。
ぼくは、日本社会と祖国を放っておけなかった。
えらそうな言い方をするんだなと、誤解されるだろうとは思います。けれども、少年時代からの、ありのままの自分です。
だから作家専業にはならず、まず三菱総研で、記者時代とは真逆の実務者としての経験を積みました。
それを土台にして、独研を創立し、民間なのに外交、安全保障、国家危機管理、資源エネルギーという国事に取り組みました。
その独研がやっと軌道に乗ったときに、万やむを得ず、選挙に出たのです。
▼というわけで、休みは、物理的に無理です。
しかし、しかしですね、休みというか趣味は、頭の中でいつも愉しんでいるんです。
いまは9月ですよね。
この季節になると、自然に頭の隅っこで、スキーシーズンに備え始めます。
実際には滑りに行けなくても、ま、いいのです。来シーズンがありますから。
来シーズンということは、1歳、歳をとるのですが、なぜか心身に変化がなくて、滑りに今のところ影響がありません。
アルペン・スキーヤーは、ぼくのように雪国出身じゃない下手なスキーヤーであっても、イメージトレーニングからシーズン入りします。
実際は1年中、どんなに熱い夏の盛りでも、頭のどこかでは、急斜面へ飛び込み、大斜面を滑走し、ときには試合に出ています。
しかし9月の声を聴くと、それがぐんと本格化します。
▼きょう9月19日の日曜でいうと、国事に取り組み、総裁選に取り組み、原稿を書きつつ、頭の隅では、キレッキレの滑りのイメージがずっと進行しています。イメージのなかの白い急斜面をどんどん滑り込んでいきます。
そして、階段を降りるときは、イメージトレーニングのリアル版です。
谷側のスキーにしっかり乗り込んで斜面を切っていくと、山側のスキーがちょっと遅れても、すぐに谷側に気持ちよく付いてきて両スキーが綺麗に揃って、しっかり加重していきます。
すると地球がどーんと撥ね返してくれるので、新しい谷側のスキーでふたたび斜面を切っていきます。
階段ではこのイメージトレーニングができますから、ひとが居ないことが確認できたときには、膝を実際の滑りのように曲げて、高速で降りていきます。
すると、脚力の鍛錬にもなります。
▼原稿を自宅で書くときはすべて、立ち机で書きます。
仕事部屋は、椅子を撤去しちゃいました。
足の裏が痛くなり、ふくらはぎが腫れ上がり、朝に革靴を履くと、かかとが痛くて、けっこう大変です。しかし気になりません。スキーヤーにとって脚力は絶対不可欠ですから。
▼きょう日曜は、ほんの短い時間しかできませんが、強力なトレーニングをしました。
理解者のトレーナーが、競技スキーに必要なメニューを作成してくれています。
背筋、胸筋、腹筋の鍛錬、脚力と腰の筋力強化、バランス感覚をさらに向上させること、そしてアルペン・スキー特有の動きを取り入れた全身の筋力強化・・・短時間ですが、これが全部、入っています。最高のトレーナーです。
元はラグビー選手ですが雪国出身でもあり、アルペンスキーを勉強して、メニューを作成し、怠けたいぼくを辛抱強く指導してくれます。
そのメニューに沿って、苦しみつつ今日もなんとかトレーニングを完遂しました。
平日は無理です。
しかし公式日程が減る週末なら、短時間のメニューであれば、やれます。
ぼくは単調な動きが大の苦手なので、その意味でもメンタルも辛いのですが、雪の便りまであと2か月と思うと、身体をつくる意欲が湧きます。
▼実は昨シーズン、競技に復帰する決意をして、ワールドカップで表彰台にあがった経験のある著名なスキーヤーに相談のうえ、大回転の試合にエントリーを終えていました。
結局は、忙しくて出場不能。
試合は、感染症対策をとっておこなわれましたが、ぼくは無念の不参加となりました。なりましたが、来シーズンがあります。
総裁選に出て、もしも常識を覆す結果になっても、試合の参加を相談するつもりでした。わはは。
名付けて、「わははシリーズ」。
▼きょう9月19日は日曜でしたが、いつも通りに、休みにはならないです。
明日は、連休の最終日ですが、同じです。むしろ今日よりさらに仕事は多くて、責任も重いでしょう。
「青山さん、きょうは休みでしたか」という、なんとなくリラックスした問いかけが来ていましたから、ふと、なぜ休みが無いかを考えました。
ひとつには、ひとりのもの書き、作家でもあるからです。
作家でも、休みをつくっているひとが多いと思いますが、ぼくはたまたま、三菱総研の研究員 → 独研 ( 独立総合研究所 ) の社長・兼・首席研究員 → 参議院議員という、別の職がいつも並走ですから、週末にやすんでいると、どんな作品も書けません。
ぼくが作家となった、つまり自分の著作が出版社から刊行されるようになったのは、ペルー事件 ( 在ペルー日本大使館が現場の国際テロ事件 ) を契機に、共同通信を辞して、記者をやめてからです。
共同通信の時代も、自分の本を出してはいけないという決まりはありませんでしたが、ぼくにはとてもその気は無かった。記者であることに徹していました。
その代わりに、記者を辞めると、すぐに最初の小説を書きました。
その作品「夜想交叉路」が、長い伝統を持つ文芸誌の「文學界」の新人賞の最終候補作になりました。
結果は、その回の文學界新人賞は「受賞作なし」に終わったのですが、当時の編集長に認められて、第2作を書き、それが「文學界」に掲載され、無名の新人だったにもかかわらず、単行本になって文藝春秋社から出版されました。
昭和天皇の崩御を描いた、「平成」ですね。 ( のちに幻冬舎文庫となるときに、改稿、改題して「平成紀」 )
幸運なデビューだったと言えるでしょう。
タクシーに乗っていて、運転手さんからなぜか、「あなたは何をしているひと ? 」と聴かれて、シンクタンク ( 三菱総研 ) で研究員を勤めながら小説を書いて、こういう本が出たばかりですと、ありのままに話すと、なんだかもの凄く喜んでくれました。
そして降りるとき、運転席から振り向いて「これから小説家として頑張ってください。その本、買って、読んでみますよ」と仰ってくれました。
ぼく自身も、前述の「平成」の仕上げを、文藝春秋の本社の一角でやりながら、『子どもの頃からやろうと思っていた小説家としての人生も始まるんだ』と思ったことを覚えています。
窓の外の緑が、風に揺れていました。
編集者の指摘はなかなか厳しくて、決して楽な日ではなかったのに、落ち着いた、いい気持ちでした。
なのになぜ、そのまま作家専業にならなかったのか。
それは、おのれでは良く分かっています。悔いもありません。
ぼくは、日本社会と祖国を放っておけなかった。
えらそうな言い方をするんだなと、誤解されるだろうとは思います。けれども、少年時代からの、ありのままの自分です。
だから作家専業にはならず、まず三菱総研で、記者時代とは真逆の実務者としての経験を積みました。
それを土台にして、独研を創立し、民間なのに外交、安全保障、国家危機管理、資源エネルギーという国事に取り組みました。
その独研がやっと軌道に乗ったときに、万やむを得ず、選挙に出たのです。
▼というわけで、休みは、物理的に無理です。
しかし、しかしですね、休みというか趣味は、頭の中でいつも愉しんでいるんです。
いまは9月ですよね。
この季節になると、自然に頭の隅っこで、スキーシーズンに備え始めます。
実際には滑りに行けなくても、ま、いいのです。来シーズンがありますから。
来シーズンということは、1歳、歳をとるのですが、なぜか心身に変化がなくて、滑りに今のところ影響がありません。
アルペン・スキーヤーは、ぼくのように雪国出身じゃない下手なスキーヤーであっても、イメージトレーニングからシーズン入りします。
実際は1年中、どんなに熱い夏の盛りでも、頭のどこかでは、急斜面へ飛び込み、大斜面を滑走し、ときには試合に出ています。
しかし9月の声を聴くと、それがぐんと本格化します。
▼きょう9月19日の日曜でいうと、国事に取り組み、総裁選に取り組み、原稿を書きつつ、頭の隅では、キレッキレの滑りのイメージがずっと進行しています。イメージのなかの白い急斜面をどんどん滑り込んでいきます。
そして、階段を降りるときは、イメージトレーニングのリアル版です。
谷側のスキーにしっかり乗り込んで斜面を切っていくと、山側のスキーがちょっと遅れても、すぐに谷側に気持ちよく付いてきて両スキーが綺麗に揃って、しっかり加重していきます。
すると地球がどーんと撥ね返してくれるので、新しい谷側のスキーでふたたび斜面を切っていきます。
階段ではこのイメージトレーニングができますから、ひとが居ないことが確認できたときには、膝を実際の滑りのように曲げて、高速で降りていきます。
すると、脚力の鍛錬にもなります。
▼原稿を自宅で書くときはすべて、立ち机で書きます。
仕事部屋は、椅子を撤去しちゃいました。
足の裏が痛くなり、ふくらはぎが腫れ上がり、朝に革靴を履くと、かかとが痛くて、けっこう大変です。しかし気になりません。スキーヤーにとって脚力は絶対不可欠ですから。
▼きょう日曜は、ほんの短い時間しかできませんが、強力なトレーニングをしました。
理解者のトレーナーが、競技スキーに必要なメニューを作成してくれています。
背筋、胸筋、腹筋の鍛錬、脚力と腰の筋力強化、バランス感覚をさらに向上させること、そしてアルペン・スキー特有の動きを取り入れた全身の筋力強化・・・短時間ですが、これが全部、入っています。最高のトレーナーです。
元はラグビー選手ですが雪国出身でもあり、アルペンスキーを勉強して、メニューを作成し、怠けたいぼくを辛抱強く指導してくれます。
そのメニューに沿って、苦しみつつ今日もなんとかトレーニングを完遂しました。
平日は無理です。
しかし公式日程が減る週末なら、短時間のメニューであれば、やれます。
ぼくは単調な動きが大の苦手なので、その意味でもメンタルも辛いのですが、雪の便りまであと2か月と思うと、身体をつくる意欲が湧きます。
▼実は昨シーズン、競技に復帰する決意をして、ワールドカップで表彰台にあがった経験のある著名なスキーヤーに相談のうえ、大回転の試合にエントリーを終えていました。
結局は、忙しくて出場不能。
試合は、感染症対策をとっておこなわれましたが、ぼくは無念の不参加となりました。なりましたが、来シーズンがあります。
総裁選に出て、もしも常識を覆す結果になっても、試合の参加を相談するつもりでした。わはは。