On the road~青山繁晴の道すがらエッセイ~

2021-09-28 05:28:22
この日時は本エントリーを書き始めた時間です
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これまでの自由民主党を「成功モデル」だと深い部分で思い込んでいるのが、自由民主党の旧弊だと考えます

▼かつて共同通信政治部の総理番記者、つまり政治記者としてはまだ経験が浅いころ、それまでに事件記者と経済記者の経験を積んでいても、すこし驚くことは沢山ありました。
 たとえば、竹下登総理 ( 当時 ) の地方遊説に同行したとき、「自民党は高度成長を成し遂げた政党だ」と、ふだん穏やかな竹下総理には珍しいほど力を込めて演説なさったのを、いくらか不可思議な気持ちで聴きました。

 日本の高度成長期は、ふつう西暦1954年、昭和29年の末から、東京オリンピック ( 1964年 ) 、大阪万博 ( 1970年 ) を終えた西暦1973年、昭和48年の秋あたりまでとされています。
 ぼくで申せば、社会人になる、すなわち共同通信に入る6年ぐらい前に完全に終わっていました。高度成長期は、幼児、子ども、学生です。厳しい親の元で育ったこともあるとは思いますが、恩恵は何も実感、記憶がありません。
 ぼくの世代にして、そうです。
 それを、たった今の成果のように、総理は演説時間の大半を費やして強調された。

 竹下総理は物事を大仰には決して言わないひとでしたから、余計に、「あ~、そうか、自由民主党は過去の成功体験に浸 ( ひた ) る体質のある政党なのか」という最初の実感があったのでした。

▼そこから長い年月と経験を経て、今まさかの事実として、その自由民主党の議員でいて、総裁選のさなかに居るわけです。
 予期したとおりに、党の旧弊とも直面しました。
 今回の総裁選が、これまでにない新鮮な試みの側面を、一部ではあっても持っているからこそ、本質的な旧弊も立ち現れてきます。

 総裁選の議員の投票日を明日に控えて、いま夜明けに確信しています。
 遙か昔に偉大な達成があったのは事実です。しかしそれを、実は深い部分で今もなお「成功モデル」として依存している体質を、打破しなければなりませぬ。
 この総裁選は、その出発点でもあるべきです。

 すると、そもそも旧態依然の感覚で切って、報道しているオールドメディアもまた、違うのです。
 これは失望や絶望ではなく、逆です。
 日本に真っさらな伸びしろがあるという希望ですから。





 
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