On the road~青山繁晴の道すがらエッセイ~

2021-11-21 05:50:55
この日時は本エントリーを書き始めた時間です
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厳粛なる11月  永遠の秋




( 時は移り、いまは大学で教える立場ともなりました。上は、近畿大学経済学部。武漢熱下の授業なので、WEBと、ごく少数に抑えた対面方式の学生諸君です。下は、東京大学教養学部。これは、武漢熱に襲われる前です )


▼11月もあっという間に、あと10日もせずに去っていこうとしています。
 毎年、11月はぼく個人にとって、厳粛な月です。

▼高校3年生のとき、淳心学院中高等学校の同級生が誰も彼も受験勉強だけに集中していて、そのことに胸の裡 ( うち ) では疑問を持ちつつ、何も言わず、おのれ自身は受験のための勉強はせず、読みたい本を読み続けていました。
 その日々のなかで、11月の17日頃だったかと思いますが、ある日突然に、気がついたのです。
『自分が大学に行くことだけは何も疑わない、聖域にしておいて、社会を批判し、人を見ている』

▼行きたくても大学に行けない日本人が居るのに、なぜ、お前自身だけは大学に行くと決まっているんだ ?
 自分だけはしっかり守っているじゃないか。都合よく、あらかじめ守っているじゃないか。

 じゃ、どうするんだ。
 大学に行くのをやめて、北海道の農園で働いている大学紛争世代も居ると聞く。 ( ぼくの世代は、大学紛争も高校紛争も終わって、何も無くなっていた世代です )
 それが正しいのか。それで世の中が良くなるのか。
 大学に行って、学んで、基礎を造って、世の中を良くする仕事をする、それが当然ではないか。

 いや、それは自分への上手な言い訳だよ。
 結局は、良い大学に行って、見栄えのいい仕事をして、そういう自分を守るために、その言い訳を自分自身にしていて、しかもそれが両親、兄姉、親戚、学校の友だち、先生方、みんなみんなに通りがいい、理解もされる、そこに安住しているだけだろう。

 じゃ、一体どうするんだ。
 大学に行かないで何をするんだ。

▼この無限の問いかけが突如、18歳の胸にどっとのし掛かってきて、誰にも相談せず、苦しみ抜く日々が始まりました。
 なんと大学受験の当日、キャンパスで試験を受けている最中にも、この疑問と対峙し続けて、やっとのことで、設問を読み、どうにか答えを書いていたのです。
 東大、慶大、早大の試験会場で、他の受験生が試験に没入しているらしい様子を茫然と見て、試験官が穏やかな表情で巡回なさっているのも見て、思わず手を挙げて「試験を放棄します」と申し出ようとして、どうにか自分を抑えていました。

 東大の1次試験を突破して、2次試験でまさかの大遅刻をしました。
 この遅刻は、上記の苦悶とは直接、関係ありません。出発が遅れ気味だった上に、良かれと思い、乏しい財布を犠牲にして乗ったタクシーが、エンジンの不調で止まってしまい、運転手さんが「すみません、ふだんこんなこと無いのに」とうなだれた姿を今も覚えています。
 そこから長距離を、東大本郷キャンパスの受験会場まで走りに走りました。
 ようやく着くと、門前の東大の先生方が入れてくれません。「君ね、こんな時間から受けても、どうせ駄目だよ」と突っぱねられます。
 こういう危機になると、ほんらいの自分が内部から立ち上がってきて、負けずに説得を試み、遂に門が開いて中へ入れてもらいました。
 しかし得意の英語が5分しか受けられず、大きな解答用紙の右下の隅っこ、英作文のわずか2問だけ回答して、あとは白紙で試験を終えました。
 後日、本郷へ行って、東大新聞を手にし、そこに掲載されていた正解集をもとに自分で計算してみると、おそらくは国語、数学、社会、英語をあわせた総合2点差で、落第しました。 ( 当時の東大入試の文系は、理科は第1次試験だけの科目でした。同様に理系では、社会がそうだったと思います。現在のぼくは文系、理系をこのように分けることを変えるべきだと考えています )

 慶應義塾大学の文学部に入り、やがて、やろうとしていた哲学という学問に深い疑問を持って、「実際に世の中を良くするには経済学を学ぼう」と決めました。しかし当時の慶大には転部制度が無かった。 ( 今は知りません )
 そこで両親にも誰にも相談しないまま、大好きだった慶大を中退し、同じく好感を持っていた早稲田大学政治経済学部の経済学科をを受け直して入り、卒業したのでした。

 ところが・・・外からは何も分からなかったと思いますが、この長い青春の時代にずっと同じ、自分自身への問いかけに苦しみ続けていたのでした。

 20歳の頃には、死に近づいていたと思います。
 そこからひとりで再起しつつも、『お前は、自分だけは安全圏、聖域に、ちゃっかり置いているじゃないか』という問いから自由になることは無かったのです。
 しかし当時のクラブ仲間、つきあった女子たちにも、ひとことも言いませんでした。そんなことを言えば、彼らだってみんな大学生、おなじ安全圏、聖域に居ることになってしまうからです。
 それはぼくの本意ではありません。問題なのは、あくまで、青山繁晴自身でした。

▼このぼくが救われたのは、26歳になって、早大の卒業とともに共同通信社に入り、初任地の徳島支局で、交通事故を取材し、警官に「あっち行け」と怒鳴られたときからだったと思います。
 18歳の11月から7年半を経て、社会の矛盾に直接、激突し始めたからです。

 たまたま国立徳島大学と巨大な民間病院が舞台の、特捜事件が始まりました。
 いずれも地元では、まさしく「聖域」のような存在でした。何があっても警察は触らない、そこに、弱小のはずの徳島地検が特捜 ( 特別捜査 ) を挑んだのです。
 当然、絶対秘でした。
 検察は、地元の分厚い壁、強烈な圧力に抗して捜査をしていきます。検察の首脳陣によって固められた秘の決まりは絶対でした。
 それを打ち破って、どんどん特ダネを出していきました。
 検事・・・地方の末端とも言うべき検察ですからまだ未熟な若い検事もいる、大物の検事正もいる、大阪地検の特捜部で鍛えた鬼検事もいる、そしてじっと捜査の裏側で努力するノンキャリアの副検事まで、支局の誰かの指示を受けた訳ではなく、みずから徹底的に回っていきました。
 そして特捜を阻みたい、こっそり批判している側の警察も、大幹部から巡査まで回り、被疑者になっている大学教授、その教授をこの際、追い落とすことを狙っている違う派閥の教授、捜査をたった今受けている病院の当事者、とにかくさまざまに味方を増やして、壁を打ち破り、記事を出しては味方から怒られ、それをまた正面から説得して、次の段階の取材に繋げる。
 その凄絶な日々に、自問自答は吹っ飛んだのです。

 この延長線上に、一本の道の上に、現在の不肖ぼくがあります。
 民間の専門家の時代も、国会議員の現在も、何も変わらない、ぼくなりの生き方があります。

▼このようにして、11月が厳粛にして、永遠の季節になったのは、ただの個人的な愚考と、ちいさな現場体験の結果にすぎません。
 しかし、なぜこれを書いたか。
 若いひとから、若くないひとまで、絶望感を克服する最善の道は、生の現実とぶつかることですということを、お伝えするためです。
 だからプライバシーも晒して、なるべく具体的に書きました。

 いま、この地味ブログは、岸田内閣の現状を中心に、怨嗟の声、失望と絶望の声で埋め尽くされています。
 ブログを開くたびに、そのすべてがぼくにのし掛かってきます。
 多くは正義の怒りであり、ぼくに託されたものはすべて、受け止めています。
 ぼくにやれることは、水面下が主となりみなさんに見えなくても、あるいは見えても、それは関係なく、日々、誇張なく24時間態勢で、力を尽くしています。

 同時に、あなたさまがあなたの現場で、現実とじかにぶつかることがもしもあれば、きっと絶望感は、後ろに下がっていくでしょう。
 その積み重ね、その連帯こそが、祖国を救う唯一の道です。

▼ただの、ひとつの考え方です。
 体験に基づく、考え方です。
 よかったら、日曜のひとときの、参考になさってください。

 日曜にも、ぼくと同じく働いているかたがたは、いつか時間のできたときに、ふと、考えてみてくださればと祈ります。





 
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