2021-12-13 18:12:46
この日時は本エントリーを書き始めた時間です
この日時は本エントリーを書き始めた時間です
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(推敲し、分かりやすくしました) ★ 行動はどんどん進んでいくので、ブログの記述が間に合いませんが・・・
・・・諦めずに、振り返り、振り返りしつつ記録していきます。
▼12月11日土曜に、まず築地本願寺にて、すぎやまこういち先生のお別れ会に参列しました。
出逢いと別れは、ひとの常です。
とはいえ、辛いことです。
築地本願寺から、飛行機の時刻ぎりぎりで羽田空港に着き、那覇へ。
沖縄は1月に名護市長選、2月には、わが盟友の中山義隆市長が4選を目指す石垣市長選、そして夏の沖縄県知事選など大切な選挙が続き、来年は選挙イヤーと呼ばれています。
ぼくは不肖ながら26歳の時から、沖縄のことをライフワークのひとつとして取り組んできました。
今は、思いがけず国会議員となっているからこそ、謙虚に、あくまでも謙虚に、取り組まねばなりません。
そのうえで、できることは静かにやっていきます。
▼白梅の少女たちについては、これまでずっと発信し続けてきました。
しかし、まったくご存じないかたも、まだまだいらっしゃる、と言うよりは、ご存じないかたの方が依然、はるかに多いと思います。こうしたことも謙虚に考えねばなりませぬ。
▼ぼくが初めて、白梅学徒看護隊のことを知ったのは、26歳の時です。
共同通信に入社して最初の夏休みに、沖縄を訪れ、先の大戦の末期、悲惨な沖縄戦の南部戦跡を訪ねて回るために個人タクシーをチャーターしました。
料金は、新人記者の給料で払えるぐらい、とても安かったです。
回るうちに運転手さんが「あなた、若いのに、こんなに陰気なところばかり回らないで、ダイバーのライセンスも持っているんだから、海に行きましょう」と仰ったのです。
ぼくは、新米の記者であることを明かし、「今回は戦跡だけを回ります」と言うと、運転手さんは「あなた、記者なのか。では、行くところが違うんだよ」と仰り、白梅学徒看護隊の自決壕に連れていってくださいました。
それが現在は、写真の「白梅の塔」が建立されている地です。
ぼくが最初に行ったときは、この塔はまだ、ありませんでした。
沖縄戦の学徒看護隊とは、今で言えば女子高生 ( 当時の高等女学校の生徒さん ) が、日本の兵士の、たとえば足を切断するようなむごい手術を手伝って軍と行動を共にされ、米軍に殺されたり、自決をなさったり、凄まじい運命に直面された少女たちです。
ひめゆり学徒看護隊は、広く日本国民に知られ、ぼく自身も訪ねたことがありました。ありのままに申せば、少女たちの悲劇は同じですが観光地にもなっています。
ところが、白梅学徒看護隊をはじめ他の学徒看護隊は忘れられていて、運転手さんは厳しい表情で26歳のぼくに「沖縄県民だって忘れている。あなた、記者ならば、どんなに非難されても、この白梅のことを伝えてくれませんか」とぼくに言われたのです。
▼以来、ぼくは、沖縄県民を含む日本国民に語り続け、自決壕の暗い奥へ降りて、少女たちに祈りと感謝を捧げてきました。
硫黄島の英霊と同じく、白梅の少女たちも決して犬死にではなく、この同胞のおかげで、いまのわたしたちがあります。
▼長い時間が過ぎ、やがて、当時参加していた関西テレビの「スーパーニュース・アンカー」という報道番組のロケをきっかけに、白梅の少女たちの生き残りのかたがたと出逢うことになりました。
そのうちのおひとりが、写真の中山きくさんです。
白梅学徒看護隊の生き残りのかたなどでつくる白梅同窓会の会長で、沖縄でもっとも高名な語り部のひとりです。
93歳です。とても、とてもしっかりされています。
武漢熱でお逢いできない日々もありましたが、こうやって昨日、12月12日の日曜に白梅の塔を再訪して、お逢いできました。
いつものようにハグをすると、ぼくの腕のなかで16歳に戻られる気がしました。
▼ところが、この日はNHKの取材を受けておられました。
このエントリーで記したように、自決壕の崩落が始まっていたのです。
中山きくさんは、その素晴らしい行動力で、自決壕を保存し、後世に繋げていくために、若梅会という新しいグループを発足させておられます。
そのおひとり、新垣ゆきさんも、取材を受けておられました。上の写真の右にいらっしゃいます。
新垣さんによると、若梅会は20歳代から50歳代まで参加されているとのことです。
中山きくさんと新垣さんによれば、すでにクラウド・ファンディングでおよそ300万円が集まり、白梅の塔の敷地内の画期的な整備などを実現されたそうです。
ぼく自身も、たとえば入り口から塔までが、高齢の方でも歩きやすくなっていることに驚き、感嘆しました。
ところが、そこに新たに、自決壕の崩落現象という、とても大きな出来事が起きているのです。
▼NHKの女性記者に頼んで、ぼくのスマホで撮ってもらいました。 ( 現場にいらした地元の区長さんらから、ぼくも取材を受けるように言われましたが、決して取材は受けないようにしました。今のぼくでは、何か政治的なことと誤解されてはいけないと考えたからです。もっともNHKの方でも、国会議員に取材する気など皆無だったと思います )
中山きくさんを真ん中に、向かって左が、ぼくの盟友のひとり奥間亮・那覇市議です。
奥間さんは、ぼくにとって記念碑的な作品となっている「ぼくらの祖国」に登場している、琉球大学生です。その現在の立派な姿です。
国士として、ぼくと同じく自由民主党を中から変えるために、那覇市議会で行動しています。
その左は、奥間さんが紹介してくれた、那覇市教育委員会の山下恒・教育相談課長です。ぼくの本の熱心な愛読者だそうです。ありがとうございます、山下さん。沖縄の教育を担って、これからも奮闘をお願いします。
中山きくさんの右隣が、若梅会の新垣さんです。ぼくのことはまったくご存じありませんでした。当然です。
那覇市議の奥間さんにも、自決壕は糸満市ですが、修復と保存に協力してくれるようお願いしました。
ぼく自身も、もちろん考えます。
このエントリーで、初めて白梅の少女たちに関心を持たれたかたは、たとえば「ぼくらの祖国」をパラパラと見てみてください。
この日、白梅の塔と自決壕の前には、地元の区長さんらもいらしていました。
ぼくのことも、ぼくと白梅との長い、長い、ご縁も一切、ご存じありませんでした。
それでいいと思います。
どこまでも裏方として、白梅の少女たちの存在を知っていただくことに努めます。
沖縄戦の学徒看護隊はほんとうは、高等女学校の生徒さんだけで8隊ありました。
ほかに男子、中学、ぜんぶで21校の生徒さんたちが、少年少女でありながら、祖国の沖縄を護るために命を捧げられることになったのです。
それを知りつつ、ぼくも森羅万象のすべてに対応することは物理的に不可能ですから、あえて白梅に集中して、問いかけていくようにしています。
しかし沢山の辛い気持ちも抱えています。
帝国海軍の大田実少将は、沖縄戦で自決をなさる前に、海軍次官に打電した電報によって沖縄戦のあり方を徹底的に批判しました。
冒頭の部分には「現状ヲ看過スルニ忍ビズ之ニ代ツテ緊急御通知申上グ(中略)沖縄島ニ敵攻略ヲ開始以来陸海軍方面防衛戦闘ニ専念シ県民ニ関シテハ殆ド顧ミルニ暇ナカリキ」とあります。
大意は、『沖縄県民の現状を見るに忍びず、緊急に伝える。沖縄に敵の侵攻が始まって以来、陸海軍は防衛の戦闘に専念して県民を顧みることができていない』ですね。
その電文のなかで、少女たちについてもこう述べられています。
「看護婦ニ至リテハ軍移動ニ際シ衛生兵既ニ出発シ身寄無キ重傷者ヲ助ケテ敢テ真面目ニシテ一時ノ感情ニ馳セラレタルモノトハ思ハレズ」
大意は、『看護婦さんたちに至っては、軍の部隊が移動するときに衛生兵が置き去りにしてしまった重症者を助けている。ほんとうに真面目であって、一時の感情に駆られたものではない」ということです。
この「看護婦」とは、実は、白梅の少女たちを含め高等女学校の生徒さんだったと考えられます。
そして大田少将は「沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」と締め括られています。
ぼくら日本国民は、この言葉、『沖縄県民はこのように戦われた。沖縄県民に対し、後世に特別の配慮があるべきだ』と仰る言葉に応える務めがあると、ぼくは26歳の時から今に至るまで、寸分、変わることなく考え、ささやかに行動し続けています。
▼とてもブログでは書き切れません。
よろしければ、上掲の那覇市教育委員会の山下課長のように、著作を見ていただければと思います。
まさか、本の宣伝ではありませぬ。
書いていて、なんだか悲しくもなってきました。こんなときに、本の宣伝だと誤解されることも予想せねばならない社会です。そして、果てしのない努力も、地元ですらほとんど伝わってはいません。
しかし、なにも変わることなく、明日も国会に行きます。
問題は唯ひとつだからです。
その問題とは、ぼく自身の努力が足りていないというだけのことです。