2022-02-12 04:15:11
この日時は本エントリーを書き始めた時間です
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日本の防人 ( さきもり ) はほんとうはどんな人々か 戦前も今も変わらないその魂の真髄とは何か
▼わたしたちの航空自衛隊のF15戦闘機が墜落した事故について考えるとき、日本の主権者・国民に思い出していただきたい史実と、場所があります。
▼それは日本の初めての、そしてただ一度の敗戦の前年、西暦1944年10月12日のことです。
台湾の南西部にある台南市を爆撃しようとするアメリカ軍を迎撃し、台湾を守るために、帝国海軍航空隊の戦闘機が出撃したときのことです。
茨城県出身の杉浦茂峰・帝国海軍兵曹長 ( 戦死後に少尉に特進 ) の乗る戦闘機は、米軍機の銃撃を受けて火を噴きました。
しかし杉浦兵曹長はパラシュートで脱出することをせず、住民の住む村落を避けるために操縦を続け、養殖池のあたりに達してからようやくパラシュートで脱出しました。
しかしアメリカ軍戦闘機の機銃掃射によってパラシュートが破れ、墜落死なさいました。
わずか21歳でした。
▼翌年の8月に戦争が終わったあと、この村では日本海軍の戦闘機乗りが枕元に立った、あるいは畑を歩いていたという証言をするひとが何人か現れ、それを契機に、村人たちは杉浦兵曹長 ( 少尉 ) がみずからの命を犠牲にして村人を守ったことを知りました。
そして、「飛虎将軍廟」 ( ひこしょうぐんびょう / 飛虎は戦闘機、将軍は杉浦さんへの尊称、廟はお寺 ) を建立し、地域の守り神として現在に至るのです。
このお堂では今も毎朝、毎夕に、「君が代」と「海ゆかば」が流され、杉浦兵曹長 ( 少尉 ) への尽きない感謝をあらわしてくださっています。
▼ぼくは、自由民主党の同期当選の参議院議員たちと共に、ここを訪れ、杉浦さんに深い敬意と感謝の祈りを捧げました。
そして、日の丸が掲げられていることも確認しました。
この「飛虎将軍」である日本人が村を守ったことは、地元では小学校の教科書にもあると現地で聞き、その実物も拝見しました。
冒頭に掲げた杉浦さんの姿は、現地で発行している「鎮安堂 飛虎将軍廟」というパンフレットの2ページ目に掲載されているものです。
写真には「杉浦茂峰生前英姿」という説明が添えられ、肉親から寄贈された写真という説明もあります。
▼日本では一部にしか記憶されていない恐れもある、この杉浦さんの尊い生き方は、台湾の地でいまも熱く語られているのです。
今回のF15戦闘機の墜落を考えるとき、杉浦さんの精神が自衛隊にも脈々と受け継がれていることが感じられないでしょうか。
それを、きのう2月11日の紀元節 ( 建国記念の日 ) の夜にアップした「青山繁晴チャンネル☆ぼくらの国会」の第281回放送 ( ここです ) では、杉浦さんから55年後の西暦1999年に航空自衛隊の訓練機T33Aが埼玉県の入間川河川敷に墜落した事故を語ることで、みなさんにお話ししています。冒頭に掲げた杉浦さんの姿は、現地で発行している「鎮安堂 飛虎将軍廟」というパンフレットの2ページ目に掲載されているものです。
写真には「杉浦茂峰生前英姿」という説明が添えられ、肉親から寄贈された写真という説明もあります。
▼日本では一部にしか記憶されていない恐れもある、この杉浦さんの尊い生き方は、台湾の地でいまも熱く語られているのです。
今回のF15戦闘機の墜落を考えるとき、杉浦さんの精神が自衛隊にも脈々と受け継がれていることが感じられないでしょうか。
なお収録の時にはまだ、F15の機体が発見されていませんでしたが、その後に垂直尾翼などが基地に近い海底で発見されました。
杉浦兵曹長 ( 少尉 ) の広い意味で後輩にもあたる、ふたりの戦闘機乗りのかたがたは依然、発見されていません。
冬の日本海の荒れる冷たさを思いつつ、一刻も、一刻も早い発見を望んでいます。