2022-04-11 15:10:52
この日時は本エントリーを書き始めた時間です
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忙中ではありますが、にんげんの死生観について
( 死生観を思うとき、なぜかぼくの胸に、海霧のなからイージス艦が姿を現した光景が浮かぶのです。日本海で北朝鮮の脅威に向かい合う作戦を日米共同でおこなう現場でした。緊迫しつつ、どこか幻想的でした。もっともリアルでありながら、どこかこの世では無いような・・・その印象のせいかもしれません。
生と死が実はぎりぎりで向かい合っている現場だったからかも、しれません。
ぼくは民間の専門家として同じ洋上の、海上保安庁の巡視船に乗っていました )
( このイージス艦は、この時より15年ほど前に、ぼくが初めて乗艦したイージス艦でした。
偶然の再会を秘かに喜びつつ、北朝鮮に拉致されたままの同胞を奪還するために半島へ向かうべきだとも考えました )
▼ぼくは、肺癌ではありませんでした。
▼・・・と、急に言われて、分かるひとはいない訳ですが、実は最新の人間ドックで肺癌の恐れを指摘されていました。
先日、過密日程の合間を縫って、再検査を受けてきました。
▼かつて大腸癌の疑いを、やはり人間ドックで指摘され、そのときは若い担当医が「青山さんは癌にならない」といきなり仰ったのです。
内心で、すこし驚きました。別にそんなことは無いでしょ、誰でも癌になりますよ、と。
しかし何も申しませんでした。
担当医は、ぼくの本の読者とのことでした。
このときも再検査となり、この若いお医者さまから「癌でした」と告知されました。
うつむいて、とても悲しそうに、仰いました。
しかしぼくはまったくの平常心でした。
その、おのれの姿に、安心しました。俺の死生観は、嘘では無かったなと思いました。
腹を切り開いて、大腸をずいぶん長く取り除く手術を受けました。
▼この写真からわずか数日後、講演があったので許可を得て病院から都内の講演に行きました。
テレビ番組への参加と違って、講演を取り消されると、代わりは簡単に見つかりません。主宰者は困ってしまいます。
だから講演してきたのですが、おそらくは早すぎる活動再開がさすがに祟って、重いイレウス ( 腸閉塞 ) を発症し、死にかけました。
それでも、遠く尼崎市の講演に行き、舞台からみなさんへの義務として「腸が破裂して舞台で死ぬ恐れがある」と自宅近くの名医の開業医が仰ったことを、そのまま伝えました。
どなたも、冗談だと思われたそうです。
この大腸癌にはまだ後日談があって、取った腸を病理検査に回したところ、ついに癌は見つからなかったそうです。
四の五の言っても腸は戻ってこないので、ぼくはそのまま受け容れました。
▼で、今回の「肺癌の疑い」です。
ぼくは充分に可能性はあると考え、おのれのこゝろの奥を覗き込みました。
しんと鎮まり、なにも揺れていません。
「青山繁晴チャンネル☆ぼくらの国会」の危機一髪シリーズで話しているとおりです。胸の底は、鎮まったままです。
▼そしてきょう4月11日月曜の午前、病院へ再検査の結果を聴きに行きました。
待合室で待っていると、青山さん、とちいさく呼ぶ声があって、ぼくはどこからの声から分からず、振り向いたりしていると、人間ドックでお目にかかる優しい女医さんです。
診察室のドアからすこしだけお顔が覗いています。その表情と声の調子から、あ、肺癌だったのかなと思いました。
無意識に、おのれの胸の裡 ( うち ) をもう一度、覗き込みました。平静に、なにも変わらない自分がいました。
診察室に入った瞬間、あ、違ったんだと分かりました。
女医さんは「肺は綺麗でした」と仰り、写真をぼくと一緒に仔細に点検してくださいました。
気管支炎による炎症がすこし肺にあったようですが、自然治癒して、確かに綺麗でした。
癌なら、これはあり得ません。
▼もしも肺癌なら、どうしたか。
人間ドックでの写真も見ていましたから、仮にそうでも早期であり、手術は7月10日の参院選のあとにしようと決めていました。秘書さんたちにも、そう伝えていました。
政治家はふつう、体調についてなにも主権者・国民に明らかにしないものです。
政治記者の時代には、安倍晋三元総理のお父さま、安倍晋太郎元外務大臣が、癌の闘病でげっそりと細った頬に、綿で入れ物をして元の頬に見せつつ、国事のために奮戦なさる姿も、間近に見ていました。
しかしぼくは、肺癌なら肺癌で、みなさんに伝えるつもりでした。
大腸癌という診断で手術したときは、まさか国会議員になるとは思わない、民間の専門家時代です。
▼あのとき、心配してくださり、応援してくださったみなさま、あらためてありがとうございました。写真は手術前です。
これからも、おのれが少年時代からすこしづつ築いてきた死生観を土台に、元気に、生きて、国益を護ります。
同時に、戦場にされてしまったウクライナの、あの穏やかな街並みで、理由なく奪われる赤ちゃんから歩けない高齢のかたがたまでの命、その悲痛苦を、戦地を歩いた経験からも、きょうも身近に感じています。