2023-01-14 13:54:15
この日時は本エントリーを書き始めた時間です
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ウィーンの夜明け前に、深い悲しみと、感謝のただなかに、居ます
▼「白梅同窓会」を率いて、94歳まで力を尽くされていた中山きくさんが、とうとう逝去されました。
不肖わたしは、海外出張先のスロバキアで訃報を知り、心身が一瞬、動きを止めてしまいました。
いま、いったん戻ったウィーンの夜明け前です。
日本国民の安全をはかるための海外出張がこの先、22日まで続くために、17日に那覇で開かれるご葬儀には参列ができません。
万感を込めて、弔電を打たせていただきます。
▼わたしが、沖縄戦で奮闘され犠牲となられた白梅学徒隊 ( 沖縄第二高等女学校の生徒たちで構成した看護隊 ) の自決壕に巡り会ったのは26歳の新人記者のときでした。
取材で訪ねたのではありません。
共同通信社に入社して初めての夏休みに、沖縄の戦跡を訪ね歩いた時です。
当時は、現在の美しい慰霊塔も建っておらず、訪れるひとも、ウチナンチュ ( 沖縄県民 ) 、ヤマトンチュ ( 本土の日本国民という意 ) を問わず、誰ひとりありませんでした。
その後、沖縄戦の少女たちに深い感謝を捧げるために、お参りを続け、この自決壕の存在を知ってもらえるよう、おのれにできる努力を秘かに続けてきました。
そして、かなりの歳月が過ぎたあとに、中山きくさんら、沖縄戦で傷つきながらも生きて敗戦を迎えられたみなさん、すなわち白梅同窓会のかたがたと出逢うことができました。
出逢ってからは、深い魂の交流を続けてきました。
きくさんとは、青山千春・東京海洋大学教官をはじめ、息子たちやわたしの家族とも親しくお会いいただきました。
▼写真は、その交流のひとつ、インディペンデント・クラブ ( わたしとさまざまな現場を訪ねる会 ) に集う、志あるみなさんと、白梅同窓会のかたがたが、自決壕と慰霊塔において共に祈りを捧げたときです。
わたしのすぐ右横が、きくさんです。
▼きくさん ( 左からふたりめ ) は、ひとりひとりと丁寧にあいさつを交わされました。
▼白梅の塔への参拝のあと、白梅同窓会とお茶を呑んでいると、偶然、近所にお住まいのウチナンチュがわたしに気づかれ合流されました。
左端に写るきくさんは、80代、90代になられても美しく、たおやかな日本女子でありました。
白梅同窓会のみなさんは、きくさんをはじめ、わたしが僭越にもハグをいたすと、みなさん、腕の中で10代の少女に戻られるのでした。
みなさん、この世とあの世の区別なく、永遠に一緒ですよ。
ことし1月2日には、外務省の良心派としてわたしを支えてくれた盟友、和田幸浩総務課長 ( 当時 ) の突然のいわば戦死から、2年を迎えました。
7月8日には、安倍元総理の暗殺から1年を迎えねばなりません。
きくさん、和田さん、安倍さん、募る思いは尽きることがありません。
少女たちが自決なさった、壕の底から、祈りを終えて登られる、白梅学徒です。
光のもとへ、誰もみな、光のもとへ登ります。