On the road~青山繁晴の道すがらエッセイ~

2023-03-13 03:10:48
この日時は本エントリーを書き始めた時間です
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( さらに書き加えました ) ( 推敲し、たいせつな追記をしました ) 【その2】 12年まえの現場を、確かな記憶のなかでもう一度、今度はみなさんと一緒に、歩く



▼これは、【その2】です。東日本大震災から12年を迎えた3月11日にアップした、このエントリーの後編です。
 3.11から2日遅れとなりましたが、ようやくアップできます。
 わたしの仕事に週末はありません。同じようなひとも珍しくないと思います。そして月曜になりました。月曜になれば、すべてが公に動きます。
 これ以上、アップを遅らせないためには、月曜の未明、夜が明けるまえに書き進めるしかありませぬ。

 待っていてくださったかたには、遅くなったことをお詫びします。

▼まずは、念のため、前編のエントリーの最後の方を再現します。
「必要ない」というかたは、読み飛ばしてください。

~ わたしはこの日 ( 東日本大震災の被災地を歩いた日 ) のあと、当時の警察庁警備局長から、震災が誘発した福島原子力災害をめぐって電話を思いがけず、受けました。

「まもなく『警戒区域』は誰であれ立入禁止にします。青山さんはきっと警戒区域内の現場にも入りたいでしょう。入るのなら、すぐに許可願いを出してください」という電話でした。

 わたしは直ちに正式な許可を得ました。
 原子力防災服を用意し、原子力関連の危機管理用品を積み込んで、頑丈な大型乗用車を運転し、夜明け前に東京を出発し、東北道を被災地へ向かいました。
 やがて夜が明け始めると、正面の遠い空に真っ黒な雲が垂れています。
 そこだけの雲で、空は晴れわたっていくのです。

 わたしは、迷うことなく、疑うことなく、突然に津波と地震によって人生を奪われたひとびとの魂魄が、故郷を離れることができずに、空を漂泊していると思いました。
 やがて東北道は縦にうねり始めました。

 わたしはサッダーム・ハイウエイの惨たる状態を思い出しました。
 イラク戦争のさなか、ヨルダンの首都アンマンからイラクの首都バクダッドへ、サッダーム・ハイウェイ、すなわちやがて実質的にアメリカの手で死刑に処される独裁者、サッダーム・フセイン大統領の造った高速道路です。
 それを、テロリストと通じている疑いの濃いイラク人ドライバーの運転で、疾駆したときを想起したのでした。
 そのハイウェイは、アメリカの空海軍の爆撃とミサイル攻撃で、縦にうねっていたのです。

 わたしは、東北道で大型車を、おのれの持てる技術を懸命に駆使して、うねりを克服しつつ福島原子力災害の現場へ走り続けました。
 この手と脚と眼と頭、五感のすべてで、どれほど被爆しようとも、現場の真実は何か、それをどうしても専門家の端くれとして摑む決意を固めてステアリングを握っていました。 ~

( 前編の最後の部分は、ここまでです )

▼やがて東北道は「この先は通行不能」という表示が出ました。
 わたしは、使用可能だったPAで原子力防災服に着替えて、高速を降り、地道を走ってやがて、警戒区域の阻止線に達しました。
 車を降りて、警備の警察官に、身を呈して警備してくださっていることに深い感謝を述べました。

 許可が下りていることが充分には最前線の警察官に伝わっていなくて、警察官たちは指揮命令系統に従って連絡をとってくれました。
 やがて許可が確認されて、わたしは車に戻り、運転して阻止線の中へ入っていきました。

▼そして福島第一原発のある大熊町、双葉町をはじめ、第一原発から20キロの圏内をくまなく調べ、車を降りては放射線量もプロ用の線量計で正確に計っていきました。
 区域内はもはや、警察官や自衛官の姿もありません。ひっとこひとり、居ません。

 まったく無人のなかを桜の花びらが舞い、鳥がさえずり、無人の家に食べかけの食事が、道路からも見えたりしました。
 そして痩せこけた動物たちが、わたしの周りに集まってきたのです。
 SF映画の中に入り込んでしまったような気持ちもしました。

▼最後に、福島第一原発の正門前を目指しました。
 すると道路がひび割れて、陥没したり、路肩から崩れ落ちているところに直面しました。
 亀裂に嵌まって放置されている、無人の乗用車もあります。
 自分の車から降りて、調べ、考えました。

 このとき運転していた自動車は、重さが2.3トンもありました。
 進めば、悲惨な事態になることも考えられます。

 当然、迂回することも検討しました。
 しかし、許可が出ているのはこの1日だけです。と言うより翌日からもう、警察庁の警備局長の言った「誰も入れないようにする」措置となるのです。
 そして、ほかの場所をくまなく回ってきた後ですから、陽が落ちるまで時間がありません。
 決心しました。
 ながいこと、下手くそながらレーシングドライバーでもあったことを活かそうと思いました。
 そして、まさかの片輪走行も含めて、とっさの挙動で運転し、そこを抜けました。
 そこを抜けて、静まりかえっている十字路で、もう一度車を降りて、福島第一原発への方向を確認し、放射線量を計りました。
 ある程度、上昇していますが、無条件で人が避難し、生活を捨てなければならない放射線量とは言えませんでした。

 警戒区域に入るまえから、「原発から単純な同心円を描いて、20キロ圏内は避難とする政府のやり方は間違っている。地形と風向こそをシミュレーションして住民を避難させる、アメリカの原発インディアンポイント2の周辺自治体のやり方から学ぶべきだ」と問題提起していました。
 当時、ニューヨークの電源だったこの原発と、その周辺自治体は、自費で出張して充分に調査していました。

 その問題提起の考えが正しいことを、あらためて確信しました。
 菅直人総理の民主党政権は、ここでも大きく間違っていたのです。

▼そして福島第一原発の正門に着き、短時間なら車を停めても問題が無いと思われる場所を探して車を降り、構内には当然、入れないと考えて、周りを調べていたら、構内から発電所の職員が何人も飛び出してこられたのです。
 注意されるのだろうと思いました。
 福島第一原発の中に入る許可は無いから入らないこと、しかし周辺を調べる許可は出ていることを、平静に、お話しするだけだと思って向かい合いました。

 ところが、そのなかのひとりが「やっと、専門家が来てくれましたね。さっきから、警備所のモニターに青山さんの顔が大きく映っているんです」と仰いました。
 当時、わたしは内閣の原子力委員会・原子力防護部会の専門委員でした。

▼原子力委員会の委員とは違います。原子力委員会の委員は、政府に、はっきり申しまして雇われている立場です。
 専門委員は、政府に問題を指摘する立場です。
 ところがこのあと、東京で、原子力委員会に呼び出され、当時の委員長から「なぜ、原子力委員会の許可なく、福島第一原発に行ったのか」と言われました。
 わたしは「とんでもない。専門委員は、委員とは違います。原子力委員会に自由な意見を言う立場であって、原子力委員会の指図は受けません」と反論しました。
 すると委員長は、この紙に署名してくれと言います。
 みると、「原子力委員会の指示で行ったのではない」という文面です。
 わたしは失笑しました。
 そして、それは事実ですから、署名しました。

 原子力委員会はこれで終わりましたが、民主党政権の内閣府副大臣から電話で、脅され、これにも厳しく反論し、そして政権の内部から、警察庁に逮捕を検討するよう指示がありました。
 なぜ分かるか。
 警察の内部の高官から、わたしに「政権に、逮捕を準備させられている」と告発電話があったからです。
 わたしは平然としていました。来るなら来い、正当に戦うだけです。

▼場面を、福島第一原発の正門前に戻すと、なかから飛び出してきた職員は「中に入られるんですね ? 」とわたしに聞かれました。
 わたしは、たいへんに驚きつつ、すぐ理解しました。
 専門家という専門家は、福島第一原発から、できるだけ遠くへ、逃げて逃げて逃げていたのです。
 なかには、ご家族と沖縄まで逃げた人もいました。
 発電所の作業員の方々とはまた違う立場で、まだ進行中だった原子力災害を現場で見て、アドバイスすることが必要なのに、みな逃げるばかりです。
 実は、福島の地元メディアを除き、報道機関も同じでした。

 そのなかで初めて、内閣の原子力委員会の専門委員が来てくれたと、みなさん、思ったのでした。

▼わたしはその場で、こう申しました。
「いや、正式な許可を取るべきだと思いますから、いったん東京へ帰ります。許可が出ればすぐ、ここへ帰ってきます」
 作業員のみなさんの努力への共感を込めて、こう約束しました。

 帰京して、東京電力本社と、なにより、構内の管理権を持つ吉田昌郎・福島第一原発所長の正式な許可を取り、1週間後に、専門家として初めて構内に入りました。
 構内には、放射線量が1シーベルトという場所もありました。報道などに良く出てくる、1マイクロシーベルトの100万倍です。1ミリシーベルトの1000倍です。吐き気といった症状がすぐ出てくるレベルです。
 献身なさっている作業員も、決して近づかない場所です。水素爆発によって、原発施設の瓦礫が飛散して、それが大量に集積している箇所は、そうでした。
 これは、ほんとうは何を意味しているか。

 構内と、回りの住宅地域とはまったく状況が違うのです。放射線量がまるで違います。
 なぜか。
 原子炉自体が壊れたのではなく、停電で炉中の核燃料棒が融けて床を突き破り、水に混じって、いちばん軽い放射性ヨウ素と放射性セシウムだけが、水の蒸発に伴って、環境へ、つまり人の住んでいる構外へ出て行きました。
 放射性ヨウ素は、8日間で消えます。二度と存在しません。
 放射性セシウムは、土中に入ると、ほとんど動きません。
 だから環境中の、すなわち住宅地域の放射線量は、構内に比べ高くなかったのです。
 それは大きな差でした。
 のちに住宅街を調べた東大の学者が「驚いた」と発言され、「線量があまりに想像より低かったから」という趣旨を仰っています。

 水素爆発は、建屋の中に溜まった水素が爆発して、建屋の上部が吹き飛んだのです。吹き飛んだのはあくまで、外枠の建屋です。日本は地震国ですから、とても薄い構造です。
 しかし原子炉は吹き飛んでいません。
 その建屋の瓦礫が、構内にありました。だから瓦礫のある場所は、前述のように非常に高線量でした。
 もう一度申します。原子炉は吹き飛んでいません。当時も今も、まるで原子炉が吹き飛んだようにずっとメディアでもどこでも扱われ続けています。

 原子炉自体が爆発したチョルノービリ原発事故とは、まるで違います。
 なぜ今に至るまで、安倍政権下も含めて、チョルノービリ原発事故と同じレベル7 ( IAEA国際原子力機関の事故基準 ) にしているのでしょうか。
 こんなことをやっている日本政府だから、安全を高めた原子力の活用が進まないのです。自由民主党の議員として、ずっと問題提起しています。

▼冒頭の写真は、構内を巡るまえに、吉田昌郎所長と議論しているところです。
 吉田さんとは初対面でしたが、わたしをTVタックルや朝まで生テレビ、あるいは原子力委員会の議事録で、よくご存じだったそうです。
 いきなり大きな両手でわたしの手を握り、「青山さぁん、よくぞこんな奥まで来てくださいましたね。ありがとう」と叫ばれました。







▼これら写真はすべて、わたしが撮った動画が元です。
 事前に吉田所長から、自由に撮影する許可を得ました。
 わたしの自宅に使わずに眠っていた、家庭用の安価なビデオカメラです。
 映っているかどうかは、正直わかりませんでした。

 画面がすべて眠い、すこしぼやけているのは、カメラを東電の指示にしたがってビニールでぐるぐる巻きにしているからです。
 レンズの上も例外にはせず、ぐるぐる巻きです。
 構外へ出るとき、そのビニールを廃棄するためです。
 実はスイッチが入っているのかも、良く分かりませんでした。スイッチの上も分厚くビニールが覆っていたからです。
 構外へ出て、カメラ本体の放射線量に問題がないことを確認した上で、映っていることがわかり、ほっとしました。

 動画はこのあと、そのまま完全に無償で、希望するすべての報道機関に提供しました。多く報道されました。TVのスタジオでも解説しました。しかしNHKだけは、完全に無視していました。

「世界が知りたい構内を初めて知らしめたのであり、アメリカのピュリツァー賞に該当する。応募すべきだ。推挙したい」ということも言われました。
 だが、わたしは「いや、ジャーナリストとしてではなく専門家として入構し、記録し、吉田所長らと議論したので、そういうことはしません」と答えました。



▼これは、作業車から作業員が撮ってくださいました。
 作業員のかたがたは、安全のために作業車から降りず、わたしはひとりで原子炉建屋に近づいていき、車内の作業員の被爆が起きないよう短時間で、子細に調べました。

▼これらの様子は、すで書籍などに記しましたから、ここまでにします。
 ここは、わたしの個人ブログですから、忘れがたい余談を書いておきます。

 わたしはこの西暦2011年の2月17日に大腸癌の手術として、15センチという長さで、腸を切り取っています。


( 思いがけず、お見舞いをくださったみなさん、今も感謝しています )






( このときはまだ幸せだったのです。全身麻酔から覚めると、凄まじい激痛が襲ってきました。痛み止めをいくら使っても、まったく効きませんでした )


( この写真は、術前ではなく開腹手術後です。術後、数日でもうベッドに半身を起こして、原稿を書いたり、仕事をしています。まだ痛かったですけどね。きっと意外でしょうが、我慢強いのです。わはは )

▼開腹手術後わずか6日日目の夜7時すぎ、執刀医の許可を得て、傷口に分厚い5重のガーゼを当て、切腹 ( 看護師さんのジョーク ) した患者専用の腹帯 ( ふくたい ) を巻き、寝間着をスーツに着替えて、青年会議所の理事長との対談に行きました。

 医師の許可は得ていましたが、無理無茶です。
 しかし、ナマ対談は講演と同じで、かなり前に決まっていて、チラシもつくり、人も募集なさっています。
 命が掛かっていようが、これを断って、迷惑を掛けることは致しませぬ。

 当時は、民間の専門家時代ですから、年におよそ130回の講演を行っていました。現在の議員時代とは大違いです。
 癌が分かってからも、講演のない隙間を探して、手術日の決定に時間をとり、お医者さんを心配させました。
 そしてようやく、遠方のオランダでの講演だけ、こころから申し訳ないけれどもキャンセルを伏してお願いしました。
 海外のオランダ出張のために前後の移動日を確保しているだけに、迷惑を掛けることが最小限にできると判断したのです。

 そしてオランダでの講演の主催者に、わかっていただきました。
 しかし、その後一切、オランダ講演の主催者から連絡はありません。
 癌から生還しても、二度と、オランダで講演する機会はないのです。
 講演の主催者をはじめ、迷惑を掛けたかたがたにあらためて、お詫びします。



▼これは福島第一原発ではありません。
 フランスのアルデンヌ県にあるショー原発の廃炉現場に入って、調査しているところです。

 福島の尊い教訓は、世界のひとびと、そして祖国日本の同胞に、安全で安定した電源を供給することに、直結します。
 当時は逃げて逃げていながら、それが社会から忘れられているのを良いことに、みずからの良心の口をぬぐうように、まるで見てきたかのような嘘を言うひとたちがいることに、こころが冷えます。

 あの当時の現場はもう、もちろん残っていません。
 事故が進行中の現場を見た専門家は、不遜ながら、永遠にわたしひとりです。

 わたしは今後も、どれほど中傷され誹謗され、排除されても、あのときの吉田所長の心意気、作業員のみなさんの真摯な協力、そして福島原子力災害で今も空前の被害に苦しみ続ける地元民のみなさんのために、みずからの経験を活かせる国会議員として、献身していきたいと、発災から12年の今、静かに、考えています。

 いちえふ ( 福島第一原発。ふくいちとも ) の所長の吉田さんはそれからおよそ1年4か月後に、食道の癌で入院なさいました。
 事故とは関係がありません。
 吉田さんは秘かにわたしに、事故前から癌と診断されていて、事故への対応中も、どうしても必要なときは福島第一原発から抜け出て東京へ戻り通院していると、仰ったからです。
 入院から1年後、吉田さんは亡くなりました。

 入院中にわたしと電話で話されたとき、「わたしは青山さんと同じ考えです。防潮堤が気になる。防潮堤さえ高くしていれば、近くの東北電力女川原発のように無事故だった。それなのに今も、防潮堤の強化が不充分だ。次に津波が来たらどうするのか」

 吉田昌郎さんは、真の国士でした。
 国士が居たからこそ、不肖のわたしが構内に入れたのです。
 その国士の魂魄は、いまなお、いちえふのある福島の浜通りの空にいらっしゃると、わたしはこころ深く、感じているのです。









 
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