On the road~青山繁晴の道すがらエッセイ~

2023-03-13 13:27:30
この日時は本エントリーを書き始めた時間です
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みんなを災害に遭わせては駄目だ ( 追記しました )


( ご遺体の収容作業です。近くに行くと、もう写真は撮りません )

▼福島県、宮城県、岩手県、茨城県の被災地を広く、這うように回ったこと、事故がまだ進行中の福島第一原発に、被爆しながら入ったこと。
 いずれも、東日本大震災の発災の直後でした。
 それから、個人のブログだから記しますが、ぼくの腸が癌の手術でたくさん切り取られてからは2か月あとのことでした。

 ことしの3.11を機に、それらをめぐって、この地味なブログのふたつのエントリー ( これこれ ) に記して、今、あらためて思うことがあります。

▼ひとつ。
 その後、病院の関係者から「青山さんの大腸の切除部分を病理に回したら、癌は見つからなかった。どうしても見つからなかったんです」と聞きました。
 人によっては、裁判に訴えるでしょうね。

 しかし、ぼくは全くそう思いません。
 癌になるかどうかの瀬戸際で、切り取ってもらったのかも知れないし、何より、仮に裁判でお金とかもらっても、ぼくの腸の15センチは戻ってきません。

 癌は見つからなかったということだけど、手術後にすぐ、講演に行くなどして仕事して動いたためか、イレウス ( 腸閉塞 ) を発症し、これで死にかけたのです。
 大病院に電話して執刀医に相談しても、あまり反応してくれませんでした。
 しかし烈しい嘔吐と、凄まじい痛みが、繰り返し襲ってきます。

 記者時代の初任地、共同通信徳島支局で、検察の特捜事件をめぐって徳島大学医学部の教授から助手までを徹底的に回ったのを機に、少なくない医学者と信頼関係が生まれ、事件がおわったあと多くの医学記事を書きました。
 したがって、多少の知識がありますから、『これ、ひょっとしてイレウスかな』と思いました。
 それをもう一度、執刀医に電話で聞いても、「まぁ、様子を見てください」という趣旨の返事でした。

 そこで自宅の近所の開業医に行くと、すぐ大病院の幹部である執刀医に電話し、「こんな症状の患者をほおっておいては駄目じゃないですかっ」と叱りつけながら執刀の経緯を聞き出してくれました。
 街の開業医が、大病院の著名な医師に電話する、その緊張感も医師の背中から伝わるのです。

 開業医は、聞くべきをすべて聞いて、「まさしくイレウス、それも重症のイレウスです」と断言され、ぼくの命を救う方法を考えてくださいました。
 ぼくは激痛のさなかでも、その医師に深い敬意を感じました。

 そしてこの開業医に「きょう、どうしても講演に行かねばなりません」と相談しました。
 医師は仰天し、「青山さん、あなたね、死にかけてるんだよ」と仰いました。
「そうでしょうね。しかし先生、講演だけはドタキャンしてはいけません。チラシも刷って、聴衆を集めているんです、きっと、主催者は。
 だから、ぼくを講演に行けるようにしてください。ぼくはそのあと、きっと回復します」

 自宅の近くですから、この医師はぼくをよく知っています。
 これまでも、どんな無茶をしてきたかを、知っています。
 たとえば、講演会で聴衆からうつされたらしい肺炎で、右の肺が真っ白になっているのを見つけてくれたのも、この医師でした。そこからも短時間で快復し、「青山さんの回復力、体力は、想定外だ」と何度か仰っていました。

 そして、この開業医のベッドで痛み止めの点滴を4回、受け、講演に向かおうとしました。
「その講演はどこなの」
「兵庫県の尼崎市です」
「えっ。それじゃ新幹線に乗る前に車掌さんに、緊急事態になるかも知れないと言うんですよ」
「先生、今から新幹線では間に合いません。飛行機で行きます」
「ひこうきぃっ ! あなた、イレウスだよ。気圧が変わると腸が破裂するかも知れない」
「そうですね。しかし民間機は与圧しているから、気圧はさして変わりません。ぼくは耐えられると思います」

 そして、尼崎に着き、講演会場に着くと、講演を聴く人が長い列をつくっていました。
 やはり、来てよかった、あのひとたちをがっかりさせるわけにいかない。そう思いました。
 そして楽屋口から入ろうとすると、ぼくに気づいたひとが走ってきて、「サインしてください」と本を差し出されました。ぼくは本を読んでくださることに感謝して、丁寧にサインをしました。

 舞台に上がると、ぼくは念のため、聴衆のみなさんにこう告げました。
「腸を切ったの手術のあと、腸閉塞を発症していますから、医師から、舞台上で腸が破裂して倒れるかも知れないと警告されています。そのときは講演を中断しますから、あらかじめ、申しておきます。したがって、きょうは舞台から飛び降りてみなさんのところへ行くということができません。それが申し訳なく思います」

 聴衆はみな、新しい、そしてヘンな、冗談と思われたようでした。
 飛行機のなかでも、舞台の上でも、ぼくは見かけ上、まったく無事なのですから。

 この聴衆のなかに、東京海洋大学に寄付を続けてくださっている池田香美代さんという、志ある経営者、いまは年齢と体調不良と戦い続けている国士がいらっしゃいました。 ( ぼく自身は献金を1円も受け取りません。池田さんたちの寄付は、国立大学法人東京海洋大の自前資源研究への寄付です )
 ぼくの敬愛する池田香美代さんも、このときのことをよく覚えてくださっているとのことです。

 講演を無事、完遂し、東京へ帰る新幹線に乗るとすぐ、激烈な嘔吐と、どうにも耐えがたい痛みが再発しました。
 往きの飛行機と、舞台では、まったく無かったのです。

 にんげんは面白いですね。
 そして、結局は、気持ち、あるいは気迫によって決まるんだなぁと、苦痛のさなかに思いました。
 車掌さんにわけを話して、トイレに閉じ籠もり、新幹線の数時間を吐き続け、苦しみ続けました。座席には一度も行っていません。他の乗客に迷惑をかけるわけにいきません。それでもトイレのひとつを占領してしまって、今でも申し訳なく思います。

 ようやく品川駅に着いたとき、救急車は呼びませんでした。
 当時は、民間の危機管理専門家として、総務省消防庁とも連携していたので、消防のみなさんに迷惑をかけたくなかったのです。
 新幹線がホームに入ると、なぜか嘔吐はぴたりと止まり、タクシーの運転手さんに絶対に迷惑をかけない確信があったので、何もご存じないタクシーで、大病院に行きました。
 救急患者の受付の長椅子に倒れていると、執刀医が診てくださいました。
 そして「これで・・・ほんとうに・・・講演に行ったのですか」と仰いました。

▼ふたつ。
 こうして死と生の淵を彷徨ったぼくは、そのときから間もなくに被災地で目の当たりにした、膨大な死が、ひとつひとつ、おひとりおひとりの家族への愛や、これまでの労苦や、その死者だけのかけがえのない命の歴史と共に、胸に強く迫ってきたのです。

 災害は大自然がもたらすものであっても、その災害を最小化するのは、まつりごと ( 政 ) の責任です。
 その後に思いがけず国会議員となって、山なす多様な問題、課題が無限にあっても、みんなを災害に遭わせては駄目だ、おまえよ働け、働け、そう強くおのれに言うのです。





 
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