2023-11-12 11:38:52
この日時は本エントリーを書き始めた時間です
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青山千春・東京海洋大学特任准教授やわたしと共に闘った日本女性、その最期のお姿です
▼以下に、池田香美代さんのお嬢さんの書き込みを原文のままアップします。
そのいわれは、ひとつ前のこのエントリーをご覧ください。
~以下、原文のまま引用~
2023-11-12 01:02:15に投稿
池田香美代の娘です。○○さんからお知らせいただき、以前の投稿を書き直して再送いたします。
青山繁晴様
先日、母の四十九日法要を無事に勤めることができました。母が亡くなって以来、時間軸が今までと違うようで、もうそんなに日が経ったのかと驚いています。
青山様、千春博士には葬儀に際して心のこもったご弔電をお送りくださいまして、ありがとうございました。通夜式と葬儀の両日、司会者に紹介していただきました。
また、青山様の力強いお言葉が書かれた色紙とサイン入りのご著書は四十九日法要の霊前に捧げさせていただきました。生涯青山さんの追っかけを自認していた母はきっと喜んでいたと思います。
気が強い母と気ままな私、ぶつかることも多かったのに、今母を思い出すと不思議なことに、浮かんでくるのは笑っている顔だけです。
母の最後の日々をここにご報告いたします。
母が入院したのは、2023年5月23日でした。
ちょうどヘルパーさんがいらっしゃる日で、朦朧とした母の様子が只事ではないと、救急車を呼んでくださったのです。搬送先は、母が長年お世話になっている主治医のT医師がおられる病院。用心深い母は、自分の容体が急変したら必ずそこに搬送してほしいと、常々周囲の人間に知らせていたのが役だったのでした。
誤嚥性肺炎と診断された母の血中の酸素飽和濃度は70台しかないとのこと。
健康は人なら98程度、90を切ったら息苦しさを感じ、70台ともなると失神してもおかしくないのだとT医師はおっしゃっていましたが、母には意識がありましたし、明瞭ではないものの会話もできました。ヘビースモーカーだった母は元々の酸素濃度が低いため、落差が小さくて耐えらるのかもしれないとの所見をお聞きして、嫌煙家の私は苦笑いしたことを覚えています。
主治医のT先生のお見立ては、1ヶ月くらいで退院できるのではないかという明るいものでした。
ただ、脳に十分な酸素が行き渡らない状態だからでしょうか、入院して数日の間、母の話の内容は、過去にワープしていたり、架空の話が多かったです。
入院から数日経ったある日。面会時間が過ぎ、帰ろうとする私に母がこう言いました。
「隣の部屋に青山さんがいらっしゃるから、必ずご挨拶して帰るように」
私は驚いて母の顔をまじまじと見てしまいました。すると重ねて
「帰る前に必ず青山さんにご挨拶して。池田香美代の娘ですって言ったらわかってくださると思うから。失礼のないようにね」と申します。
どうやら母の頭の中では、青山繁晴さんの講演会に居るようなのです。
「わかった。必ずご挨拶をしてから帰る」と答えたところ、母は安心した様子でした。
安心したのは母だけではありません。こんな状態でも心は青山さんの講演会に行っているのだから、再び講演会に参加することを目標に母は回復するに違いないと、私も安心することができたのでした。
入院当初、1ヶ月くらいで退院できるかもと言われていましたが、3ヶ月に訂正になったのがこの時期です。
世間では徐々にコロナ禍以前の生活が戻って来つつありましたが、病院ではまだまだ厳しい感染対策が取られていました。特に母が入院している病棟はご高齢の方が多く、規制が厳しかったです。
面会は週に1回、2人まで。面会時間は10分で、2人で来た場合は10分を分け合うようにとのこと。また、洗濯物の交換や備品の差し入れなどは週に一度別の日に来ることを許されていましたが、ちらっと顔だけでも見られるかといえばそうではなく、ナースに手渡すだけ、という徹底ぶり。面会も洗濯物交換も予約制です
7月の末のこと。洗濯物交換のために訪れた私が、母の病室の階でエレベーターを降りたら、すぐそこに、車椅子に座った母がいるではありませんか。
「今からこの廊下を端まで歩いて戻ってくるリハビリやねん」
策略家の母は、ナースとの会話でさりげなく、私がいつ洗濯物交換にくるのか予約日時を聞き出し、その時間に合わせてリハビリを行いたいと、介護士さんにお願いしていたのでした。
「たまたまリハビリの時に洗濯物交換に来たんだから、側で見るくらい良いですよね?」
と、ニヤリとする母。
ナースも「そうね、たまたまだからね。仕方ないねぇ」と笑っています。
今思えば、私に直接予約日時を確認しなかったのは、私をびっくりさせたかったのかもしれません。ともかく母の企みは成功しました。
私はナースに許可を取り、歩行器を使って廊下を歩く母の姿をスマートフォンで録画させてもらいました。厳しい面会規制のため、見舞いに来られない親戚たちにそれを送って見てもらうことができたのは、母の企みのおかげです。私たちは、母がこの調子で回復し、退院できると大いに希望を持ったのでした。
80代にしてはかなりのハイテク女子だった母とは、毎日のようにメールのやり取りをしていました。
8月の半ばだったでしょうか「リハビリは進んでいる?」と問うたところ、できていないと回答がありました。洗濯物交換時にリハビリ風景を録画してもらった日がピークだったと。
「ベッドから体を起こすことも自力ではできません。ベッドの上、手の届く範囲が今のママの世界です」というメールの文面に胸を突かれました。
さぞ気落ちしているだろうと思いきや、池田香美代という人は、ここでめげたり、愚痴をこぼすような女性ではないのです。どうすれば快適に過ごせるか、いちいちナースコールをせずに自身の目的を達することができるのか、作戦を練るのでした。
まずはITに詳しい甥っ子を呼び出し、Wi-Fi環境を整えてもらいました。これでスマホは使い放題。通話、メールでのやりとりはもちろんですが、インターネットを通して私の出演するローカルラジオを欠かさず聞き、体調の良い時には番組にメッセージやリクエストを送ってくれました。また、青山繁晴さんのYouTubeチャンネルを日々鑑賞。結局約4ヶ月の入院生活でテレビカードは1枚も購入しませんでした。
また、私にはS字フックを大量に持ってくるよう指示がありました。どうするのかと思ったら、日常品を取手付きの袋にいれ、ベッドの転落防止柵に取り付けたS字フックにぶら下げたのです。ベッド周りの手の届く範囲に必要なものが全てぶら下がっている状態を想像してみてください。ベッドに横になった状態で、必要に応じて物を手繰り寄せる母。私にはそれがまるで、コックピットにいる宇宙飛行士のように見えたのでした。
この頃の母は、面会に行くたびに「朝、目が覚めたら今日一日だけは頑張って生きさせてもらおうって思う」と申していました。
9月に入ると、母は再び誤嚥性肺炎になり、発熱。毎週末、病院から呼び出しがかかるようになりました。妹弟や会わせたい人がいたら呼ぶようにと。
そんな危機的な状況でしたが、母は今まで見たことがないほど顔色が良くなっていました。若い時から食べることにあまり興味がなく、痩せて、いつも青黒い顔をしていた母が、薄ピンク色の頬をしていたのです。栄養バランスの良い病院食を食べ続けたことが皮膚にいい影響を及ぼしていたのでしょう。タバコを吸わなくなった(吸えなくなった)おかげか、面会のたびに「病院の食事が本当においしい」と申しておりました。ですから、週末ごとに呼び出されても、まだまだ私たちには危機意識はありませんでした。
9月22日(金)の午後、容体が急変したと病院から呼び出しがかかりました。これで3度目の呼び出しです。
近くで働いている甥っ子や妹が駆けつけ、私も間に合い、母と顔を合わせました。ところがしばらくすると今回も持ち直し、ナースから一旦帰宅するように促されました。ナースは「毎回毎回、お呼び出ししては帰っていただいて、オオカミ少年みたいですみません」と恐縮しておられましたが、むしろそれは嬉しいことでした。では一旦帰ろうかと皆が移動しかけた時、再び容体が悪くなったと呼び戻され、私たちは病室にとって返しました。
私、妹たち(私にとってはおば)、妹婿がベッドを囲みます。母は朦朧としていて、誰とも焦点があっていません。ところが、最後に近づいた妹婿が「Mですよ。来ましたよ」と言ったところハッと目が開いて、焦点が合い、誰が来たのか理解しているのが側から見ていてもわかりました。一瞬、母はとても安心したような表情を浮かべ、そして静かに目を瞑ったと思うと、スーッと呼吸が止まったのでした。私は母の枕元にいたのですが、その安らかさに驚きました。「静かに息を引き取る」とはこういうことだったのか、本当に文字通りなのだなと思ったくらいです。
考えてみると、母を見送ったのは、もともと仲のいい8人の兄弟姉妹の中でも歳が近く、特別仲が良い3人で、それに娘である私が加わっていたことになります。コロナ禍で人数が制限されるなか、最大限の見送りができたのではないかと思います。そして最後の最後まで、母は意志が強い人だったと感じました。というのも、あの時少しでもタイミングがずれていたら、母は一人きりで旅立つことになっていたのです。絶対に一人では旅立たないぞという母の意思が私たちを引き留め、最後のお別れをさせてくれたのだと私は信じています。母にとっても、見送った私たちにとっても、ありがたいことでした。
私が母の死に関して「あの時ああしておけばよかった、こうしておけばよかった」ということを全く感じないで済んでいるのは、あの安らかな最期に立ち会えたおかげです。だとすると、母は私に何一つ後悔させないように頑張ってくれたのかもしれません。
こうして9月22日午後4時46分に、池田香美代は永眠いたしました。84歳でした。
母が葬儀場へと送り出される時、お世話をしてくだった主治医のT先生やナースたちが見送ってくださったのですが「息を引き取る直前まで意識があるなんて、珍しいことですよ」とおっしゃってくださいました。「普通は、意識がなくてもお耳は聞こえていますから話しかけてあげてくださいってご家族に申し上げるんですけれど、最後までどなたが来られたかわかっておられましたね。それがとても香美代さんらしいですね」とおっしゃったのが印象に残っています。私もそう思います。
母の遺影は、今から24年前、母の還暦祝いに撮った私とのツーショットから作ってもらいました。
還暦のプレゼントは本当に迷いました。娘が言うのは変ですが、なんでも持っている母に今更何をプレゼントしても喜んでもらえない気がしましたし、食べることが好きではない母には食事会も今ひとつ。そうして思いついたのがホテルの写真館での記念撮影でした。母はこのアイデアをとても喜んでくれました。まさかこれが遺影になるとはその時には想像もしませんでしたが。
戒名に関しては、好きな漢字を二文字選ぶことができると言われ、母の名前から「香」を、そして青山繁晴さんの「晴」をいただくことにしました。青山さんには無断で申し訳ないと思いつつ、永遠の追っかけを自認していた母はきっとこの選択を喜んでくれるはずだという自信がありました。
そうしてつけていただいた母の戒名は「澄晴院釈尼香蓮」。「澄」の字はご住職が選んでくださいましたが、のちにこの字も青山さんにゆかりがあることをお聞きし、ご縁というものはこうして繋がるのだと鳥肌が立つ思いでした。
大変長くなりましたが、通夜式では以上のことをかいつまんで説明させていただきました。
通夜式に参加してくださった皆様には聞いていただいた内容であると思います。
最後に、告別式での喪主挨拶をここに付け加えさせてください。
母が亡くなってから通夜式まで、私は不思議と平静でした。
ところが、告別式が始まった時、気持ちに変化がおきました。なぜかわかりませんが、脳裏に母の笑っている顔が次々に思い浮かんだのです。私のことで母が喜んでいる顔が。私がラジオパーソナリティとして番組を担当できることになった時、本を出版した時などの節目はもちろんですが、ほんの些細なことでも、母は喜んでくれました。私は母の死に後悔は全くないのですが、あんなに小さなことで喜んでくれたのだから、私がもっと優しい娘であればもっともっと喜ばせてあげられたのではないかと、それを思うと涙が止まらなくなったのでした。
そんな状態での喪主挨拶です。台本を書いてしゃべったわけではないので、正確ではありませんが、心からの言葉をもって結びとさせてください。
ーーー
本日は故 池田香美代の告別式にご参列くださいまして、誠にありがとうございます。
母と私は事情があり、一緒に暮らした年月は3年にも満たないものです。
もしかしたら、ここにご参列の皆様の方が母についてよくご存知かもしれません。
ですから、ここで母の経歴紹介などは致しません。私の目から見た母のことをお話しさせてください。
私は母が24歳の時の子どもです。干支が二回り違うのです。
私が10代の頃、つまり30代から40代にかけての母は、私にとって憧れでした。
まだ女性の社会進出が珍しかった時代に、同族会社とはいえ、専務取締役を務めていた母は、男性相手にも物おじせず発言し、部下にはビシビシ檄を飛ばしていました。いつもキリッとしていて、的確に情報を分析し、決断も早く、まさに「仕事のできるオンナ」。
また、謙遜ということをしない人で、当時の母の口癖は「口八丁手八丁、何させても下手にようせん!(下手にはできません)」
確かに言葉通り、仕事だけではなく、なんでも手早く仕上げられる人でした。
その一例は、お正月の着付け。1月2日、母は私だけではなく、姪っ子をずらりと並ばせて、次々にメイク、ヘアメイク、そして振袖の着付けをしてくれました。親族が多いので、女の子だけでも10人以上いたと思います。全員の着付けが終わると車に分乗して大阪中之島にあるロイヤルホテルに繰り出します。お正月、晴れ着でフォーマルな場所に出かけ食事をしてテーブルマナーを学ぶのが池田家の年中行事で、その先頭に立っていた母は本当にかっこよかったです。
私が30代、40代の頃、50代、60代だった母は私にとって煙たい存在となりました。
常に経営者目線だったからでしょうか、母は何事においても、二手三手先どころか、10手も20手も先を読んで行動する人でした。そして私に対してもその調子で忠告してくるのです。今から何かを始めようとした時に、先回りして忠告を受けると、こちらは「もう!!今やろうと思っていたのに!!」思わず反発したくなるのでした。
母の先の先を読む性格は、何事も始めたらとことんまで突き詰める性質と根っこが同じかもしれません。
母の凝り性は相当なもので、これまで動物など飼ったことがなかったのに、犬を飼うとなったら一気に3匹も飼ってしまう。刺繍や編み物に凝り始めたと思ったら「そんなものにまで刺繍をするの?!」「え?手編みでワンピースを編んだの?」と周りは驚いたり呆れたり。
60手前で英語を習い始めたと思ったらアメリカに引っ越してしまったこともありました。
とにかく、いい加減なところで止めることができない人でした。
そして私が50代の時、70代になった母に対する私の感情は「この人の真似は絶対にできない」というものでした。
「終活」という言葉がない時代から母は終活を始めていました。
最初は大好きだった園芸からだったと思います。凝り性だった母は花を育てることにも熱心で、母の自宅は庭や通路、家の中にも鉢植えや花木が溢れていました。ところがある時母は、大ぶりな植木鉢を自分では持ち上げられなくなったことに気がついたのです。いくら好きなものでも、自分で持てないものを置いておいてはいけない、と、植物を処分し始めました。どなたか貰ってくださる方に譲っていったのです。
そして、着物、洋服、食器、家具……ありとあらゆるものを譲っていきました。母の入院の後半、母の家に入った私は、がらんとなった部屋を見て、胸が詰まるような気持ちになりました。母は家具に愛着がないわけではなく、とても大切に使っていたことを知っています。それをよくここまで潔く手放せるものだ、私にはできない、そう思いました。
また、母は自宅でまだ動けている時から「介助がないと生活ができないとなったらママは介護施設に入ります。今から準備しておかないといけないと思うからカタログを取り寄せて」と私に指示してくれました。母は主治医T先生に最後を看取っていただくことを希望していましたので、ご相談の上、それが叶う施設に入居希望を出し、退院したらそこに移る予定になっていました。これも本人から言い出してくれたわけです。
こんなふうに、一つ一つ、終活を進めていく母を側で見ていて、本当に見事な人だと思っていました。
そして、今回、こうして集まってくださった親族の方から、母が生前どんな行動をしていたのか、どんな発言をしていたのか、聞かせていただく機会がありました。それは人間として立派な行いであり、人によっては自慢してしまうようなことでした。なのに母はそれを自分の中にしまいこみ、一言も漏らすことがありませんでした。私は母が亡くなってからそれを知ったのです。
今、私が母に感じることは「尊敬」の一言。本当に尊敬、しか言葉がありません。
ありがとうございました。
~以上、原文のまま。ただし、冒頭の人名は○○と致しました。その冒頭にある「書き直し」とは、わたしのブログのトラブルのためです。
その後、再び送っていただき、さらにお嬢さんご自身が短くしてくださいました。不肖わたしからは「短くしてくださいますか」といったことは何も申していません。お嬢さんとしては、まだまだ書き足りないことと存じます。ご配慮をありがとうございました~
わたしたちの盟友、池田香美代さんとそのご遺族にあらためて深きも深い弔意と敬意と感謝を申しあげます。
池田香美代さんがずっと尊い寄付によってその研究を支えてくださった、青山千春・東京海洋大学特任准教授の新刊を、ご霊前に謹んで捧げます。