2024-01-13 11:14:49
この日時は本エントリーを書き始めた時間です
この日時は本エントリーを書き始めた時間です
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一歩も引かず、しかし互いを認め合い、良き激論を交わしました
▼日本と台湾の時間できょう1月13日の夜にも、結果が分かってくるだろう台湾の総統選と立法院選 ( ご承知のように日本時間の方が台湾より1時間早く進みます ) の情勢把握、それから能登半島地震をめぐって志賀原発を含む最新対応、羽田事故から貴重な教訓を汲み取って新しい危機管理態勢を構築する試み、同時に、自由民主党の派閥政治を同志とともに変えること、それらについて暗号化された通信で取り組みつつ、スイスの平野部にある原子力施設へ近づいていきました。
この写真は、川越しの遠景で、現地時間きのう1月12日金曜の朝です。
いまは、現地時間1月13日土曜の未明3時14分です。チューリヒのホテルに戻っています。
▼スイスに居ると、ぼくはいつも、ぼくらの生まれていない時代の第二次世界大戦当時のことを深く考えます。
日本人にとってスイスはやはりアルプスの少女ハイジのイメージですね。
ただ、スイスが大戦当時に武装中立国として連合国に与しなかったために具体的に何が起きたかということについて、たとえばイギリス軍の将軍や佐官は今でもぼくにあれこれ語ります。もちろん当時の軍幹部ではありませぬ。イギリス軍の内部で語り継ぎ、学び続けているのですね。
また、たった今の現在においては、ウクライナ戦争の支援に困難な問題が生まれていることとスイスの関わりについて鋭く論じる米欧の政府当局者、軍当局者もいます。
つまりスイスはヨーロッパでは常に、イギリスやEU、それからNATO諸国と、実は烈しい議論になる存在です。
そのためでしょう、ぼくはスイスに居ると、祖国日本の大戦当時から現在までを、まるで大戦当時から現在まで生き抜いてきたかのような不思議な実感をもって、考えることができるのです。
これは、ぼくなりの歴史観の深化に役立っています。
▼まもなく夜が明けていくと、慌ただしく再び飛行機に乗り、パリに向かいます。
荷物をほどいてはすぐパッキングするのは、正直、大きな負担ですが、避けて通れませんね。
▼スイスの原子力施設の内部で、長時間をかけて議論を交わしました。
ここでの写真の撮影と公開は、許可されました。
ぼくの手前隣は、欧州情勢に明るい在スイス公使の中田さんです。
写真を撮ってくれたのは、ドイツ語が堪能な一等書記官の大隈さんです。
先方は、施設の首脳陣から、政府系の独立機関の幹部、治安当局者がずらり揃っています。
スイス側の協力に感謝しています。
▼議論のあと、施設内の現場を歩きました。
そこでの写真は一切、許可されません。
現場から戻ってくると、それを踏まえて、議論再開です。
▼最後、和気藹々 ( あいあい ) と別れを交わします。
この後の末永いお付き合いも大切です。
▼さて、まもなく、上述の通りに空路、パリへ移動します。
パリからはフランスの国鉄に乗ります。
ぼくはフランスの国鉄は何度も利用していますが、今回のように深刻な害虫騒動のさなかに乗るのは初めてです。
ことしにパリ五輪が迫っていますから、フランスの当局と民間が連携した対策が進んでいます。こちらも自衛します。
国鉄は、北部の古都ルーアンで降ります。
ジャンヌ・ダルクが火刑に処せられた地として、ぼくも少年時代から記憶する都市です。
そこで再び、原子力施設の現場に入り、世界有数の強固な武装部隊とも、去年の1月に続き議論します。
▼諸国のさまざまな立場に配慮しつつ、丁寧にこのエントリーを書いているともう、チューリヒはなんと朝7時になってしまいました。
これは、たいへんです。しかし夜はまだ明けていません。
日本はちょうど午後3時ですね。
新年2度目の土曜の午後3時、ほんらいは多くの同胞がくつろげる時間かなと、欧州の一角から考える時間帯です。
しかし元日から祖国を襲った災害と事故、犠牲者に鎮魂の祈りを捧げ、被災者と関係者に、あらためて魂の底からのお見舞いを申しあげます。
そして昨年から続く自由民主党の派閥政治への強制捜査、わたしたち同志は安易な弥縫策 ( びほうさく ) を許しません。
▼こうしたなかも、ぼくの主権者への責任のひとつである、無償にして無条件の情報提供も続けています。
このブログも、まさしくそうです。
そして「青山繁晴チャンネル☆ぼくらの国会」の動画があります。
最新の放送のひとつはこれです。上述の「弥縫策は許さない」ということに関連し、総理がつくられた「政治刷新本部」について真っ直ぐに考えています。
19歳の日本男児がぼくに問うショート動画も視てください。
視る人が少なくて、彼のひたむきな努力があまり報われていないですね。全責任はぼくにあります。