2025-03-11 22:08:05
この日時は本エントリーを書き始めた時間です
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【書き加えました】 あぁ、3.11 尽きることのない同胞への慕情とともに、参院環境委の委員長として委員会の冒頭、黙祷をお願いしました


( ※ このブログの記事と写真の著作権は、青山繁晴にあります。無断転用はできません )
▼撮影は、わたしです。14年前の6月、すでに何度目かの被災地入りでした。
このあたりは宮城県の南三陸町です。
最初は目を疑いました。
警察官の寮の屋上に、乗用車が居ます。まだ、大津波が運んできたままです。
目の前の川に、ゆっくりと別の乗用車が後輪を空に向けて沈みゆきます。
自衛官は、その手がガラスの破片で切れることもいとわず、素手で瓦礫のなかのご遺体を捜索していました。
指揮官は、民間専門家のわたしに、率直に話してくれました。
「津波に衣服を剥がれて素裸になっておられることも多いご遺体を決して傷つけないようにと、部下は、いくら手袋をしていいと言っても、素手で探しています」と仰いました。
こんな軍隊は世界に居ません。

▼これより2か月以上も前、わたしは事故が進行中の福島第一原子力発電所に入り、まだ手つかずの現場を、危機管理の専門家として、また原子力に関する長い経験と知見に基づき、調べました。
吉田昌郎所長が不肖わたしの志と行動を理解してくださり、ただひとりへの例外的な正式許可を出されたおかげで、作業員以外では初めて入りました。
多くの原子力の専門家が、京都や沖縄に、あるいは全国に家族ごと逃げていた当時です。
わたしの古巣の通信社の記者も、社命で福島から遠ざかっていました。残っていたのは、福島民友、福島民報という地元紙の記者さんたちだけでした。
わたしはこうして、作業員のかたがたを除くと、福島原子力災害の収束まえの現場を見て、歩いて、調べた、世界で唯一の専門家となりました。
吉田昌郎所長は「みんな逃げて、遠ざかっていったのに、青山さんだけが逆方向に、こちらにやってきた。専門家に現場を見て欲しかった。よくぞこんな奥深くまで来てくださったなぁ、ありがとう」と、その大きな声で叫びながら、わたしの手を両手で握られました。

▼日本政府は過てる対応のひとつとして、放射線量が低く避難する必要の無かった高齢でご病気のかたがたを避難させ、たとえば透析を中断することによって、沢山の同胞を、原子力災害の関連死で喪いました。
一方で、放射線障害で亡くなったかたは居ないこと、放射線障害で治療を受けた地域のかたも居ないことをオールドメディアは報じず、政府は真実を述べる勇気を持たず、現場を知ったわたしは、真実を14年間、主権者のみなさんにお伝えしてきました。
放射線量は、福島第一の建屋が水素爆発した破片や瓦礫が飛び散った構内と、構外ではまったく違いました。
わたし自身は事故進行中の構内で、作業員の方々が行かないところも調べたので、多く被爆しました。
しかし、わたしが居たのは1日だけです。作業員の方々は、遙かに長く構内に留まられて、よくぞ戦われてきました。
たったひとつの命を奪われた同胞に、いつまでも色褪せることのない敬慕を捧げます。
その同胞を救うためにおのれを犠牲にして献身された自衛官、警察官、消防官 ( 消防吏員 ) 、最後まで「逃げてください。津波は想定より大きい」と放送を続けて津波に呑まれた、結婚直前の遠藤未希さん ( 南三陸町危機管理課・職員 ) をはじめ自治体の職員のみなさん、そして福島第一原子力発電所の吉田昌郎所長とすべての作業員の方々に、海より深い畏敬と感謝を捧げます。

▼遠藤未希さんは、放送を続けたために屋上への避難が遅れ、この非常階段を登ることができませんでした。
24歳、結婚式までちょうど半年でした。
未希さんはやがて、海から、家族のもとへ戻ってきました。しかし誰も、二度と、その声を聴くことができませんでした。

( この宮城県・南三陸町の危機管理庁舎の悲惨な現場は、2011年4月に訪れました。手前のタイヤは、車が津波で運ばれて庁舎にぶつかっているのです。
エントリー冒頭の、警察官の寮の上に車が居る写真は、その2か月後に再訪した際に撮りました。
時系列で言うと、福島県大熊町、双葉町の福島第一原子力発電所 → 宮城県南三陸町の危機管理庁舎 → 南三陸町への再訪です )
▼参議院の環境委員会は、きょう3月11日にちょうど、審議の開催が重なりました。
参議院事務方もきちんと配慮してくださり、委員長のわたしは、審議の冒頭に、委員会の全出席者に黙祷をお願いすることができました。
与野党の議員も、大臣も副大臣も政務官も、すべての行政官も共に、こうべを垂れ、わたしたちのかけがえのない同胞を偲びました。
※いつでもどこでも無償、無条件の発信をやめません。
「青山繁晴チャンネル☆ぼくらの国会」は今夜も、ここに最新放送をアップしました。「積極財政派は死なず」です。
わたしは、日本国の防災力を高めるのは、石破総理の仰る「防災庁の設置」ではなく、積極的な財政出動による国土の変革だと考えます。
死者に敬意と慕情を捧げる日には、安倍晋三総理と議論した記憶も、あらためて胸を突きます。
きょう、議員会館の青山繁晴事務所でCBDC ( 中央銀行発行のデジタル通貨 ) と関係する行政官 ( 官僚 ) のみなさんと意義ある議論をしました。
そのあと、帰り際の行政官がひとり、ふと、かばんから『反回想 わたしの接したもうひとりの安倍総理』を出されました。ずっと厳しい表情をなさっていた人だし、思いがけないことでした。
表紙の裏に、黒々とサインいたすとき、わたしは、こころのなかで慰められたのでした。ありがとうございました。
わたしはきょう一日、黒いネクタイで過ごしました。
きょうの夕刻に開いた、護る会 ( 日本の尊厳と国益を護る会 ) の拡大執行部会でも同じでした。
気づくひとは僅かでした。
御魂、みたまがおひとりでも、気づくことがあるかも知れないと考え、外すことができませんでした。
敬愛する吉田昌郎所長の魂魄は、今も、福島の浜通りに来られている確信があります。
現在の防潮堤をじっとご覧になっている気がします。
入院された吉田さんとの最後の電話の会話も、防潮堤への心配でした。