On the road~青山繁晴の道すがらエッセイ~

2006-05-04 04:39:28

あたらしい朝に





▼さて、世は連休の真っ最中だ。
 今のぼくに、休みというものはない。
 それでも、世のひとびとが休みというだけで、気持ちはぐっと寛ぐ。
 羨ましいという気持ちは感じない。休みもないのにリラックスした、いい気持ちになる。
 自分でも、不思議だけど。

 共同通信の記者だった時代も、たいへんに忙しかった。
 学生時代に、記者生活の忙しさは想像していたけど、いざ記者になってみると想像を絶した。
 それでも記者時代には、みなが交代で休みを取ることができていた。

 新米の事件記者のとき、大学の医学部の不正を追うために、構内の非常階段で連日、張り込んでいたことがある。
 夏の始まりの明るい日射しのなかで、夏休みを交代で取るためのシフト表をポケットから何度も取り出しては、しげしげと眺めていたおのれを、なぜかいつまでも覚えている。

 ぼくは「25歳まで」という共同通信の新卒採用の年齢制限を超える26歳ながら、どうにか中央突破で入社して3か月ほど。
 同期で当然、最年長の、27歳直前だった。同期は全員、地方支局に散らばっている。あちこちの支局から、同期が何度も、ぼくの赴任先へ遊びに来ていた頃だ。

 地方支局はデスクから新米記者まで、みながカバーし合って休みを取る。
 ぼくはシフト表をデスクから受けとると、自分が休みの日を、ていねいに黄色く塗った。
 その黄色の日が何日も続いているシフト表、つまり社会人最初の夏休みカレンダーを眺めて、ほくほくと嬉しかった。
 あの日々は二度と帰らないけど、あの感じ、きもちよく胸に残っている。

 その夏休みにぼくは、当時はまだブームじゃなかった沖縄行きを選び、知られざる戦跡の「白梅の塔」を縁あって訪ねる。
 沖縄戦のさなかに自決した沖縄第二高等女学校の女生徒たち、その真っ白な遺骨、そしてありありと、そこにいる霊と出逢うことになる。
 その日から、沖縄のことは、ぼくの生涯のテーマの一つだ。


▼大学医学部の非常階段で張り込んでいた夏の日から、18年ほどが過ぎたころ、ぼくは東京本社の政治部記者としてペルーの「日本大使公邸人質事件」の取材に特派され、帰国した直後に、記者を辞める決心をした。
 そして三菱グループのシンクタンク、三菱総合研究所(三菱総研)に移り、研究員になった。
 その時点でぼくは、自分と交代できる人のいない立場に変わった。
 つまり、休みを取ることはできなくなった。

 三菱総研に移ることが決まったときは、当然、休みは増えると予想して、楽しみにしていた。
 記者以上に忙しい仕事がこの世にあるとは思えなかったから。

 たとえば政治記者だったとき、夜中の1時半ごろまで、政治家や官僚の自宅で「夜回り取材」をして、それから共同通信の本社に上がり、帰宅は未明の3時や4時になった。
 居間のソファーで少し、うとうとすると、もうシャワーを浴び、遅くとも朝6時には「朝駆け取材」に出た。
 朝に強いタイプの政治家の自宅へ行き、ほかの社の記者が少ないうちに独自の取材をするためだった。

 もう、いずれも亡くなってしまった梶山静六さん(元法務大臣、元官房長官)の住んでいた九段の衆院議員宿舎や、河本敏夫さん(元通産大臣、総理大臣の候補でもあった)の住んでいた三田の高級マンションなどが、その朝駆け取材の回り先だった。

 ところが三菱総研に移ると、このわずかな時間の帰宅もできない日々が続いた。
 床に段ボールを敷いて、ごろ寝で仮眠をとり、朝に出勤してきた秘書役アシスタントの足音で目が覚めるという凄まじい日々になった。
 この秘書役アシスタントの見つけてくれた銭湯に行き、風呂を出るとまた三菱総研に戻っていた。

 そして、三菱総研の時代の仲間と一緒に、現在の独立総合研究所(独研)を創立したあとは、さらに究極の忙しさになった。
 テレビ出演なども始まり、仕事がいちだんと多様になったし、社長に就任したから、「交代する人のいない立場」がもっと、はっきりしたからだ。

 つまり、共同通信を辞めてから、1日も休んでいない。
 平成9年12月31日付で、共同通信を依願退社し、翌日の平成10年1月1日付で三菱総研に入ってから今日までの、8年と4か月強、1日も休まないままで来た。
 代わりのいない立場にいるだけではなく、物書きであることも大きい。
 いつも原稿の締め切りを抱えているから、会社に出ない日はあっても、仕事をしない日はない。

 これを辛い、つらいと思っていたら、やってこれなかった。
 辛いと思ったことは、あまりない。
 休みは取れなくなっても、記者時代よりストレスは減ったから。
 なぜストレスが減ったか。
 上司というものが、いなくなったからだ。

 記者のときは、常に上にデスクや部長がいて、助けてもらうことも多かったけれど、がちっと束縛されてもいた。
 三菱総研に移ると、上は役員会だけだった。
 判断はほとんどすべて自分でできる立場になり、束縛はぐんと減った。

 独研の社長になると、束縛する人はゼロになった。

 この変化は、体験してみるまで、その意味の大きさが分からなかった。
 ぼくにとっては、休みがないことよりも、束縛のないほうが、ずっと大切なリラクゼーションのようだ。


▼ぼくに休みはなくとも、世は連休中だから、シンクタンクを経営する仕事は本来、減るはずだ。
 調査・研究プロジェクトを独研に発注する政府や自治体、企業はいずれも、お休みなのだから。

 そこで、この連休中に、本をまるまる1冊、それに純文学の小説の新作を、書く約束になっている。
 このほかに、書く約束をした本がもう1冊、書かないままになっているから、できればそれに着手もしたい。
 さらに、初めて子供たちに向けた本を書くことも考えている。

 大人向けの本2冊と小説新作はいずれも、出版社のひととすでに交わした約束がある。
 その約束を実行することも、たいへんに大切なうえに、講演会で会う読者のかたに「次の本はまだですか」「待っているんですけど」とよく尋ねられることは、きっと、もっと大切だ。

 シンクタンクの社長と、物書きを両立させるのは正直、ずいぶんと難しい。
 だけど、おのれで選んだ生き方だから、どうしても両立させたい。


▼連休の前半は、テレビ出演が予想外に忙しかった。
 フジテレビの「報道2001」やテレビ朝日の「サンデー・スクランブル」の生出演、テレ朝の「TVタックル」や「ワイド・スクランブル」、「スーパーJチャンネル」のコメント収録が続き、きのうは大阪で関西テレビの報道番組「スーパーニュース・アンカー」の生出演だった。

 出演時間が短かったり、コメントの放送はあっという間でも、テレビは、事前に準備したり、情報を集めたり、番組スタッフと打ち合わせたり、想像をはるかに超えて手間はかかるから、連休前半はテレビに消えましたというのが実感だ。
 後半も、TVタックルのスタジオ収録が控えてはいるけど、すこし落ち着くだろうから、原稿を書きたい、書きたい!


▼日本テレビのバラエティ番組「太田光の私が総理になったら」をめぐっては、ほんとうに多くの反響をいただいた。
 ぼくへの批判、ぼくの背中を叩いて激励してくれること、それから番組への疑問や批判、さまざまに寄せられた。

 どれか一つが正しいと決めるつもりは、ない。
 ただ、報道番組ではなくバラエティ番組ではあっても、太田さんの主張が明確であればあるほど、その主張がぼくらゲストにそのまま受け容れられたような誤解を視聴者のなかに、仮に一部であっても生んだことは、やはり良くない。
 それだけは、この視聴者からの反響を通じて、はっきりしたと思う。

 それに、テレビ番組というものに、こんなに関心を持ってもらっていること、それもはっきりした。
 ネット時代にあっても、いやネット時代だからこそ、テレビにしっかりと関心を持ってもらっている、その事実はテレビマンには貴重だと思うし、ぼくも単に横っちょからわずかにテレビに関わっている立場であっても、責任をあらためて噛みしめたい。


▼この地味なサイトにもらったコメントや、ちょっと覗かせてもらった2チャンネルの書き込みには、思わず頷いてしまうものや、「よおく見てるなぁ」と内心で感嘆してしまうものも少なくなかった。

 たとえば、「青山さんのブログにはなぜ、ひらがなが多いの?」なんて、書き込みが2チャンネルに一瞬、出ていた。
 よく気がついてくれたなぁ、とぼくは思った。
 この書き込み自体は、いくらか否定的に、いや疑問を込めて、書いてあったのかも知れないけど、ぼくは、ひらがなこそが日本語だと思っている。

 漢字は、文字通りに漢の国、すなわち中国から来たものだけど、ひらがなは、その漢字から日本民族が柔らかな智恵で生み出した、わたしたちだけのものだ。
 そして文化こそが祖国だと、ぼくは信じているから、ふつうの基準よりも、ひらがなを多用することにしている。

 それに、同じ言葉を同じ一文のなかで、ひらがなにしたり漢字にしたり、あえて不統一もやる。
 文脈から、そうするのはもちろん、それだけではなく見た感じが硬すぎると、柔らかさを出すために、漢字をひらがなに変える。
 わたしたちの日本文化には、素晴らしい柔らかさがあるからだ。

 視聴者や読者の、こころの眼の多様さ、おもしろさ、それをぼくはあらためて実感している。
 みなさん、ありがとう。
 みなさんに、連休後半も、いいお休みがありますように。


※写真は、独研の社長室で、ささやかな色紙にサインしているところです。
 気持ちを込めて書いているとき、秘書さんが「社長が一生懸命に書いている姿を、見てほしいと思って」と急に撮ってくれたのです。

 字を書くことは、好きです。
 へたくそだけど、書道家にもなりたいと思うくらいです。

 坂本龍馬がどれほど自由自在な精神を持ち、その精神によってこそ世直しに取り組んだことは、龍馬さんの遺した手紙の字からわかります。
 ふつうの基準からすると、うまいどころか、とんでもない字ですが、見る者を惹きつけます。

 独研の社長室には、小さな盾が飾ってあります。海上自衛隊の自衛艦隊司令部で講演したときに、司令官からいただきました。
 盾には、帝国海軍の山本五十六・連合艦隊司令長官の遺した「常在戦場」の字が彫り込んであります。
 何気ない字です。うまい字でもありません。しかし、この山本長官の字も、ひとめで、その精神の自由がわかる字です。

 字には、魂にどんな背骨が通っているか、どれほどの自由を抱いているか、それが浮き彫りになる気がします。



 いまは2006年5月4日の早朝4時半ちょうど。
 さぁ、新しい朝です。


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