On the road~青山繁晴の道すがらエッセイ~

2007-09-23 09:03:45

このあとの10年 ★後半

※前半から続く。
 読んでいただくひとは、恐縮ながら、必ず前半から読んでください。


▼安倍さんは、かつては麻生さんと縁が薄かった。しかし安倍さんが総理になってから抱いていた、麻生さんへの新しい、深い信頼をわたしが直接に感じたのは、5月29日のことだった。
 松岡利勝農水相が自害した、その翌日である。

 松岡さんの遺骸を乗せた車を、首相官邸の正門で迎え、手をあわせて冥福を祈り、ご家族に深く頭を下げて弔意を示した安倍さんは、官邸のなかに戻ってきた。

 昼食をともにしながら、わたしに、安倍さんは、主として拉致問題解決への熱い思いを語った。
 ブッシュ大統領に首脳会談で直接、「日本国民が拉致されたまま、テロ支援国家の指定を外すなら、それは日本国民にとっては裏切りになる」と強い言葉で述べたという。

 わたしは、その明確な言葉を高く評価し、そのあと硫黄島を語り、海上自衛隊基地の滑走路を引きはがして、わたしたちの英霊の遺骨を取り戻してくださいとお願いし、安倍さんは「きっとやろう」と言ってくれた。

 そして別れ際に突然、安倍さんは「青山さん、きのうのことでね(…つまり松岡さんの自害のあと)、誰がいちばん最初に電話してきてくれたと思う?」と聞いた。

 誰かな?
 麻生さん、という名前もよぎったが、ドイツで外相会合に出席している最中だったから、別の名前を考えようとした。

 すると、安倍さんは「麻生さんなんだよ。わざわざドイツから、真っ先に電話をくれてね」と言い、「励ましてくれたんだ」と続けた。
 その安倍さんの眼は、まるで子どものように、うれしそうに輝いた。

わたしはふと、「あ、安倍さんは、いざとなったら辞めることを考えている」と思った。
 政治とカネに絡んで現職閣僚が首を吊るという、あまりに異様な事態に加えて、そのときすでに年金の保険料の記録が消失した問題が大きくなっていた。

 そして「万一の辞任のときには、麻生さんに譲るつもりなんだな」とも思った。
 そこで「総理、麻生さんが志を共通するひとだということは、よく分かります。わたしたちと同じように、拉致被害者の最後の一人まで取り返すことこそが解決だとおっしゃっています。ただ、安倍内閣は史上初めて、国民に明確に憲法改正を訴えて、国民投票法も成立させました。その凍結が解ける3年後までは、安倍内閣を維持する責任があると思います」と述べた。

 その瞬間、その瞬間だけ、安倍さんは眼の色を消した。
 それまで喜怒哀楽を、はっきりと眼に表していたのに、突然、消した。
 そして無言だった。

 わたしは、これは目先のことは別として、長期の政権を維持することには自信が持てなくなっているのじゃないか、と思った。
 だからこそ、麻生さんの真っ先の励ましがうれしかったのだろうと思った。

 それ以上は、わたしは何も言わなかった。

 このちょうど2か月あとの7月29日午後、参院選の投票がまだ行われているなかで、メディアの出口調査によって自民党が30議席台にとどまることが、はっきりしてきたとき、森喜朗、青木幹雄、中川秀直の3氏が協議し、安倍さんの辞任やむなしとして総裁選を通じて福田政権をつくる方向をすでに基本的には決し、古賀誠さんや山崎拓さんと連絡をとった。

 これを古賀派のルートから麻生さんが素早くキャッチして、直ちに行動を起こし、首相公邸に駆けつけて、安倍さんに「福田さんは、拉致被害者5人を北へ返そうと言った人だ。福田政権をつくらせちゃ駄目だ。あなたは続投するべきだ」という趣旨で説得した。

 ここまでの麻生さんの動きは、見事だったと言っていい。
 党内の他派閥の内部から情報を収集する能力、迷いのない決断と行動力で、まさしく安倍さんを支えて、安倍・麻生体制の基礎をあっという間につくった。

 ところが、そのあとの麻生さんに、遺憾ながらいくつかの誤算が生じた。

 ひとつには、森さんらの憤怒を甘くみたと言わざるを得ない。
 安倍さんは、恩義を忘れないひとだから、自分の辞任へ動いた森さんであってなお、自分を育ててくれた人物として敬意は払っていた。
 側近たちは「森さんらがいったん、安倍退陣で動き出したことを、怨んではいないようだった」と語る。
 安倍さんらしいといえば、まことに安倍さんらしい。

 だから森さんの周辺が、この時点からすでに「麻生に気を許し過ぎちゃ駄目だ。政権を乗っ取られてしまうぞ」と安倍さんに吹き込んでいったとき、まったく聞き耳を持たないというよりは、次第に、そうかもしれないという表情も、かすかにではあるが、みせるようになったという。

 麻生さんは、しっかりと安倍さんと手を組んでいるつもりだっただろうが、裏側では、安倍さんの麻生さんを見る眼に変化を起こさせるための動きが進んでいた。
「そうだねぇ、麻生に気をつけろと、町村派の誰が安倍総理に吹き込んでいようと、麻生さんは意に介さなかった。麻生さんの明るい、おおらかな性格という長所のためでもあり、わりあい油断しやすい短所のせいでもある」と、町村派内で福田さんと距離を置く議員は話している。

 次の誤算は、まさしくこれである。
 麻生さんは、安倍さんにゆっくりと疑心暗鬼の思いがきざし、、そのために尋常ではない深い孤独感に苛(さいな)まれはじめていることに、あまり気づいていなかったようだ。

 安倍側近のひとりは言う。「安倍さんが麻生さんをちらりと見る目つきとかね、ああ、なんだか今までとは違うなぁと思ったけど、麻生さんは気にしている様子がなかった」

 安倍さんはそうしたなかでインドを含むアジア歴訪の旅に出て、麻生さんとは電話連絡だけになった。そして、内閣改造、党人事に向けた準備が進んでいった。

 前述したように、このインドで心身の調子はずいぶんと悪化した。
 日本にいた麻生さんにも、その様子はかなり伝わっていたようだ。
 このあたりでは、麻生さんの情報収集はちゃんと行われていた。

 だからこそ麻生さんは、その安倍さんの心身の不調を知るにつれ、人事に積極的に、てきぱきと意見を述べるようになった。メモの作成もあった。
 総裁派閥の町村派のなかでは、思想として福田さんに遠く、麻生さんに近かった議員をも含めて、これで麻生さんへの不信感が一気に高まってしまった。

 このあたりが第三の誤算だ。
 安倍さんの万一を考えるなら、町村派の議員たちをむしろ真っ先に、全体として味方に付けておくべきであり、不信感を広げてしまったのは、まったく逆のことであった。
 もともと町村派のなかで、福田さんがそう人望があったのではなく、町村さん自身も安倍さんが辞任した直後には出馬を考えていたから、町村派には、さまざまな選択肢があった。その中に「麻生支持」という要素を、麻生さんはつくっておくべきだった。

 それでも安倍さんは、幹事長に予定通りに麻生さんを起用し、麻生さんの進言も容れて、官房長官は与謝野さんとし、防衛、外務、厚生労働といった主要閣僚は安倍さんがみずから決め、安倍改造内閣、麻生執行部の自民党が無事にスタートした。
 8月下旬である。

 旧安倍派にいた古参代議士は、わたしに言った。
「そのためにむしろ、麻生さんは致命的に油断したね。安倍は、拉致強硬派の親友たちを、閣僚や首相補佐官には起用できなくとも、党でしっかり処遇して、味方がしっかりといてくれる態勢を望んでいることに、あまり気づかずに、とにかく世間や党内から友だちとみられている人間を、どんどん外していった。安倍のお父さんの代から、晋三さんと長年つきあってきたわれわれからすれば、麻生さんが乗っ取ったようにみえるし、晋三さん自身も、急速に不安感を強めていったことに、麻生さんは気づいていなかったな」

 麻生さんにすれば、友だちをもはや安倍さんの身辺に置かないことが、むしろ安倍改造内閣を強化すると、思慮したのだろう。
 だからクーデター説など、まったく間違っている。
 一方で、安倍さんの極めて信頼する身近な議員からも「これじゃ、麻生さんに乗っ取られたとしか言えない。こんな、みんな、みんな外してしまって、安倍総理は孤立感を深めている」という電話が、わたしにも頻繁にかかるようになった。


▼そして麻生さんの誤算は、中曽根さんという存在を軽くみたことにもある。

 中曽根さんは、安倍政権が人気を失っていった、その過程で逆に「安倍さんは、小泉さんより偉い。小泉さんは、郵政民営化というシングル・イッシューをやっただけだが、安倍さんは戦後政治の見直しをやっている。まさしく保守本流だ」と絶讃し、安倍さんはこれをたいへんに喜んだ。

 やがて安倍さんは、携帯電話で中曽根さんに電話し、アドバイスを仰ぐようになった。
 わたしが官邸の安倍さん側近に電話し、「総理は最近、中曽根さんとばかり電話で話してるでしょう。どうしたんですか」と聞くと、この冷静なひとが珍しく慌てた。
 その後、数日を経て、「安倍総理は、中曽根さんを、最後の心の友だと言っている」という話が、この側近からあった。

 中曽根さんは、インド洋の海上自衛隊の活動中断は、日米同盟を壊しかねない重大事態だとアドバイスした。
 これが安倍さんの「職を賭して」という唐突な発言のベースになったと、わたしはインテリジェンスを総合して考えている。
 また、ブッシュ大統領らに「中断なき継続」を約束する背景にもなったと考えている。

 このことは前にも触れたが、この中曽根さんの思考は、冷戦時代のそれである。
 このアジアでも冷戦構造は、ついにして壊れつつある。
 北朝鮮がアメリカと接近して、冷戦時代のボスであった中国の影響力を削ごうとしているのが、その最先端だ。
 アメリカの要求にはいつだって満額回答をせねばならないという冷戦時代の発想では、むしろ新しい日米関係を築くのに邪魔になる。
 だから安倍さんが、中曽根さんの意を容れて「職を賭して」と発言したのは、遺憾ながら大きな誤りだった。

 麻生さんが、この中曽根さんの動きを充分に、あるいは完全に知っていたのかどうか、今のところわたしには分からない。
 ただ前述したように、麻生さんの党内の情報収集能力は秀逸だから、まったく知らなかったということは、ないようだ。
 そして、麻生さんは、すでに冷戦時代の発想を脱していることを、外相当時に「自由と繁栄の弧」という優れた戦略構想を打ち出したことで、証明している。
 だから、麻生さんはまさしく麻生さんらしく、おおらかに、この中曽根さんの安倍さんへの耳打ちを無視、あるいは軽視したのではないかと考えている。

 だから麻生さん、そして与謝野さんにとっては、海上自衛隊の活動継続は、テロ特措法の延長であるべきと限らず、新法によっても良かった。
 延長なら、小沢さんと談合せねばならず、そのような会談をセットするなら、安倍さんが代わりに首を差し出す話にもなってしまう。
 新法なら、短期間の活動中断は出るが、参院で否決されたあと衆議院の再議決で堂々と活動を再開できる。

 この考えは、ごく真っ当である。
 真っ当だからこそ、麻生執行部は、小沢さんとの談合会談を積極的にセットしようとは、しなかった。
 セットしようとしたのは、どうせ物別れになる公式会談だけ、それを一度だけ申し入れた。
 小沢さんが「会談の申し入れはなかった」と述べたのは、この経緯を指している。

 心身が弱り、麻生さんにも、松岡さんの自死の時や、参院選大敗の時のような、万全の信頼を寄せられず、そのために急速に孤立を深め、中曽根さんを「最後の心の友」として頼っていた安倍さんには、小沢さんとの会談がぎりぎりと真剣には模索されないこと、だからテロ特措法の延長は無理であると確定してしまうことが、不満であり、怒りを含んだ絶望となり、急に新法の路線で代表質問に答えられないということも重なって、代表質問直前の辞意表明という、麻生さんや与謝野さんには理解不能な行動になってしまった。

 辞意表明の直後、麻生さんも与謝野さんも「病気主因説」を会見で明言した。
 これを見ていた、関西テレビの若手アナウンサーが「病気が原因、ということにしてしまいたいみたいですね」と言い、わたしも、そのときはそうかな、と思った。(ただし、放送の中ではない。放送前のスタジオ外で、雑談のなかで出たアナウンサーの発言だから、放送はされていない)

 今は違う。
 麻生さんも、与謝野さんも、そうとでも思わねば、安倍さんの行動を実際に理解できなかったのだろう。

 ここまでは、すべて情報に基づく議論だが、ここでひとつだけ、まったくの推測を書いておきたい。
 推測だからテレビでは述べないが、この個人ブログでは、書いておきたい。

 なぜ入院中の安倍総理に代わる首相臨時代理を置かないか。
 わたしは、それは安倍さんの最後のこだわり、すなわち辞任を病気のせいにしたくないという思いのためではないかと、これは勝手に推し量っている。
 そして、その思いを、麻生さんと与謝野さんが今は理解して、しっかり受け止めることが可能になり、そのために、いわば安倍さんと麻生さんらのウェル・コミュニケーション、相互理解が復活しているのではないかとも、推察している。

 首相臨時代理を置かないこと、そのものには、わたしは危機管理の専門家の端くれとして異論はある。
 しかし同時に、やがて、国家主権の回復を再び掲げる政権を樹立するためには、この理解回復が、素晴らしいベースになることも、深く祈っている。


▼経緯の分析の最後に、麻生さんの最後の誤算にも触れねばならない。(以下は、再び、情報に基づく議論です)
 それは、小泉さんの動きをめぐる誤算だ。

 小泉さんについては、麻生さんはちゃんと注目していたと思われる。
 だからこそ、総裁選の日程を短くしようとした。
 これが誤算であり、この焦りが党内の反発を掻きたて、代議士会で小泉チルドレンから麻生幹事長が公然と批判される直接的な原因になった。

 そして小泉さんは、短期勝負とみたからこそ、あっという間に決断した。
 それは、平沼さんの無条件復党、すなわち郵政民営化反対のままの復党をさせない福田さんへの全面支持であり、もはや拉致問題は一顧だにしない決断であった。
 平沼さんの無条件復党へ動いていた麻生さんは、その一点だけで、小泉さんを福田さんの庇護者にしてしまい、それが町村派を福田支持でまとめ、最大派閥の町村派が素早く固まったために、勝ち馬に乗る派閥が相次いでしまった。

 郵政民営化の造反組、反対者の復党は、麻生さんだけが志向したのではなく、安倍さん自身も志向した。
 だから小泉さんにとって、安倍さんが後継者であった時代はとっくに終わっていた。したがって、小泉・安倍・麻生と続く後継政権をつくる意志は、もはやカケラもなかったのである。
 麻生さんは、残念ながら、その小泉さんを完全には読み切っていなかった。


▼こうやって今日、9月23日の総裁選で、福田政権が実質的な産声をあげる。
 これによって、国家主権の回復への試みは、いったん確実に頓挫するだろう。

 しかし絶望ではない。
 まず麻生さんの総裁選での健闘によって、拉致問題にちゃんと光があたり、日本国民に国家主権の問題について違う選択肢があることを、深い部分で伝えることができた。
 クーデター説のような愚かな情報操作についても、麻生さんはきわめて冷静に対処し、国を率いる危機対処能力の素質を持つことを証明した。

 あとは今日、麻生さんが少しでも多くの票を取り、明日につなげることを祈るばかりだ。
 ほんとうは、安倍さんが両院議員総会に現れ、麻生さんに投票すると明言してくれることを夢想した。

 もちろん、それはかなわず、安倍さんは黙って、病室で不在者投票を済ませた。
 しかし、安倍さんが辞意表明によって憑き物が落ちて、麻生さんと志を共有する信頼関係に戻っている、あるいは戻りつつあることを、ほのかに感じる。
 安倍さん、麻生さん、それぞれの誤算によって生まれた、誤解、それが溶ける時機が来ていることを、かすかに感じる。

 安倍さんの辞意表明の主因は、まさしく、あまりに深い孤立、孤独であった。
 国家主権のフェアな回復、それを安倍さんは「戦後レジュームからの脱却」と呼んだ。
 それを進めようとする時に立ち現れる、巨大な壁、その壁を打ち破ろうとしたときに直面した孤独と孤立は、あえて申せば、貴重な孤独でもあった。

 わたしたちの祖国が主権をほんとうに回復するのは、これほどまでに厳しい道のりであることを、志を同じくする者は、政治家であれ市民であれ、それは関係なく、この安倍さんの孤立による挫折でむしろ学んだのだ。

 これからの10年、このあとの10年だからこそ、国家主権の公正な回復という根っこの志を共有できるひとびとは分裂せず、連帯する、団結する、それが、たいせつではないだろうか。



 青山繁晴 拝
 講演まえの出雲にて 徹夜明けの朝 2007年9月23日午前8時45分





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