On the road~青山繁晴の道すがらエッセイ~

2008-04-05 21:04:56

ことしの桜花はいつもより長く咲いている。ぼくらに、これが最後の機会だと教えるように。




▼にんげんも、日本国民も、まだまだ捨てたものじゃないぞ。

 それが今、大樹玄承(おおき・けんじょう)師のチベットに向けたメッセージを聴いてくださった、多くの、ほんとうに思いがけず多くのかたがたの、共通した気持ちではないでしょうか。

 実は、ゆうべ金曜の夜に、関西テレビの小さな会議室で顔を合わせたとき、師の眼には苦悩の色がありました。
 そして、「青山さん、青山さんはブログに良心と勇気と書いてらしたけれど、わたしは、そんな大それた人間じゃありません」とおっしゃったのです。

 ぼくは師の眼を見て、魂の眼を見て、「大樹さん、ぼくがつたないなりに、いつも視聴者のかたがたや国民のみんなに呼びかけているのが、大それた良心や勇気だったことは一度もありません。みんなが、その生活の場で、そのまんま、ほんの少しだけ、小さな歩みを踏み出しましょう、あるいは、ただ胸のなかで考えるだけでもいいのですと、言っているつもりです。明日の生放送は、たいへんなことです。しかし、同時に、小さな最初の一歩です。ありのままの大樹さんの思いを、静かに示していただければ、それだけでいいと信じます」と応えた。

 師は、穏やかに頷かれた。
 師の隣には、師の生きかたを支える、おくさま(尼僧)と、圓教寺執事の金子師がいらっしゃった。
 このおふたりが、この夜に、控えめに、しかししっかりと「どうしたら公平な宗教者としてのメッセージになるか」について意見を述べてくださったことも、師が最後のちいさな迷いを超えて、最終の決意をされることに繋がった。

 師は、まさしく衆生(しゅじょう、命あるもの)の苦悩と共に迷われ、ためらわれつつ、そして、歩幅は小さいのに深い淵を一気に飛び越える、その勇気をみなに示されたのです。

 そこがいちばん、凄いと、ぼくは思います。
 巨大な国家の圧力に淡々と、強靱に、立ち向かい、隅々までしきたりがゆきわたった宗教組織と共存しつつ、にんげんの自由な、自律した意思を示すためには、この迷いを含んだ勇気こそが、有効なのだ。
 ぼくはあらためて、今そう考えます。


▼きょうの生放送に至るまでのことは、あとで(記せる範囲で)記します。

 ぼくの長年の読者である「風便り」さんによると、このブログにコメントが書きにくくなっているそうです。
 原因は分かりませんが、ひょっとしたら、このひとつ前の書き込みへのコメントが80件を超える多さになったからかも知れません。

 そこで、とりあえず、この書き込みを新たに置いておきます。
 コメントしてくださるかたは、利用なさってください。




 みなさん、ありがとうっ。
 みんながね、ぼくの知らせにあんなに熱く反応してくれたからこそ、きょうの生放送が、最後まで揺らぐことなく、ほんとうに実現したのです。
 みんな、かっこいいぞ!
 われら大和の国の民の、名もなき名誉を、おのれの虚栄のためじゃない名誉を、世界に示しました。
 きょうの主役は、大樹師と、師を見つめた、みなさんでした。


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