2009-03-23 09:59:52
たいせつな急告、ふたつ (後半)
(※上は、新刊の表紙デザイン原案の、全体です。裏表紙まで含めると、こんな感じです)
(承前)
▼さぁ、もうひとつの急告は、今度の水曜日、あさっての3月25日に放送する関西テレビの報道番組「アンカー」の「青山のニュースDEズバリ」のコーナーについてです。
ぼくはその日、腰椎横突起(ようつい・おうとっき)という腰の骨5本の骨折にともなうコルセット作りを、病院で行うために、生放送のスタジオには出向けません。
病院は、独研(独立総合研究所)の本社から至近距離の病院で、ドクターに信頼がおけて、しかも待ち時間が一定の範囲内におさまりそうな病院でなければ、ぼくの仕事の現状からして通院ができないので、つまりは、特定のひとつの病院しかありません。
その病院のコルセットやギプスを作る技師は、毎週水曜にしか来ないのです。
そのために3月25日水曜のスタジオには行けないのですが、できれば、なるべく多くの人に視ていただきたいのです。
こんなお願いは、ふだんは決してしません。
ぼくはビジネスでテレビに顔を出しているのではないので、できれば宣伝めいたことはしないようにしています。
これまで、同じ関西テレビの土曜日の情報番組「ぶったま」に、チベットのひとびとと連帯する大樹玄承師(書写山圓教寺)をお迎えするときにだけ、こうやって事前に「みなさん、みてください」とお願いしました。
そのとき、ほんとうに沢山のかたが視てくださり、大樹師の番組参加をほかの報道番組に断られたあとでもありましたから、たいへんにうれしく思いました。
あらためてお礼を申します。
そして、今回も、同じようにできれば視てくださいと、お願いします。
それは、なぜか。
この個人ブログで前にすこし触れましたが、硫黄島で、わたしたちのためだけに戦って亡くなった先達を閉じ込めたままの滑走路を引き剥がして、遺骨を取り戻すことを、この麻生政権下の防衛省と厚労省が決めました。
それをめぐるロケーションの映像を、放送します。
まず一つのロケーションは、3月1日の日曜に、硫黄島の戦いを率いた栗林忠道・帝国陸軍中将のお墓のある菩提寺(ぼだいじ)で、おこなわれました。
長野県は松代町の、明徳寺です。
(栗林中将は、硫黄島の戦いの最期に、大本営にあてて、有名な訣別電報を打ちました。
それには辞世が添えられていて、「矢弾尽き果て 散るぞ悲しき」の一節があります。
その電報を受け取った大本営は、大将に昇進させました。しかし同時に大本営は、「悲しき」の言葉に、充分な弾薬もないまま玉砕せねばならない戦いの実状への批判を感じとったのか、「散るぞ口惜し」と勝手に改竄(かいざん)しました。
今上陛下は、平成6年に硫黄島を訪ねられたとき、「島は悲しき」と詠まれました。
栗林中将の無念と、それを真っ直ぐに受け止められた今上陛下のお気持ちを胸に刻むために、ぼくはふだん原則として、栗林忠道中将とお呼びしています。
このことは、栗林家の現在のご当主でいらっしゃる、教育家の栗林直高さんにも、お伝えしてあります)
3月1日の日曜、こう申せば、気づく人は気づくかもしれませんね。
2月27日の金曜に、腰の骨を5本折ってから、まだ翌々日でした。
出張で訪れていた長野県内で、2時間だけ空き時間があり、スキー用具をレンタルしてスキー場で滑った最後に、ジャンプ台でジャンプして墜落しました。
(テロに遭ったのじゃないかと、いまだに心配のEメールもいただきますから、この、ぼくが悪いだけの顛末などは、またあらためてアップします)
その金曜の午後5時ごろから、うつ伏せでぴくりとも動けず、目もくらむ痛みとともに、呼吸も困難な情況に陥り、生死の境目にいるような自分を感じてから、土曜の夜明け前に、ようやく救急隊に来てもらい、病院に緊急入院しました。
その土曜の午後には、当日の夜に面会予定だった仕事の関係者に、病院に来てもらって、うつ伏せで面談。
そして日曜の午前に、ドクターの了解を半ば無理矢理にもらって、退院。
スキー事故に詳しいドクターは「あのジャンプ台では過去に2ケタのスキーヤーが半身不随になっています。青山さんは、その心配はない。それだけでもたいへんな幸運だから、青山さんの思うようにやって良いかもと思いますよ」と、柔らかに微笑しつつ、言ってくれました。
その日曜の午後3時半に、車椅子で、長野県の「栗林大将を偲ぶ会」(会の名前は、栗林大将となっています)の幹事のかたがたと、予定通り待ち合わせをしました。
日曜に、栗林中将の墓前に、硫黄島の滑走路の引き剥がし決定を報告することになっていたからです。
偲ぶ会のみなさんに、あまり怪我のことを言い過ぎては心配なさるので、ごく簡単に伝えて、偲ぶ会が出してくださった迎えの車に乗りました。
栗林中将のお墓がある明徳寺までは、片道1時間半ぐらいかかります。
その車のなかで、正直、眼の前が赤くなったり黒くなったりするほど苦しみ抜きました。
それでも何とか無言で耐えて、車がついにお寺へ着きました。
お寺には、偲ぶ会や、それから栗林家の現在の当主、栗林直高さんが集まってくださっていて、そのもようを広くみんなに知ってもらうために 関西テレビのロケ隊も来てくれていました。
関テレにも、事前には何も伝えませんでした。
伝えると必ず、「ロケを中止しましょうか」という配慮をしてくれるから。
しかし中止などできません。
偲ぶ会や栗林直高さんが集まってくださり、たいせつな報告を行うのですから、ぼくが勝手に起こしたスキー事故のせいで、やめることなどできません。
車の中から、よたよたと現れたぼくを見て、関テレのスタッフは仰天し、すぐ懸命に手を貸してくれました。
集まってくださった偲ぶ会と、栗林直高さんは、車中からの「偲ぶ会」幹事からの電話で、もう事実をご存じでした。
ほんとうに心配そうな眼で、しかし、ぼくなりの志をしっかり理解されている眼で、ぼくを見守ってくださいました。
車から、そろりそろりと、長い時間をかけて墓に近づきました。
しかし、墓はすこし高くなっていて、どう痛みをこらえても、上がれません。
そこで跪(ひざまづ)き、栗林中将に、このような姿で現れたことへのお詫びを申しあげ、それから滑走路の引き剥がし決定を報告させていただきました。
そのあと、集まってくださったみなさんに、滑走路の引き剥がしがどのように行われ、わたしたちの先達の遺骨をどのように取り返す計画になっているかを、必死の思いでお話ししました。
それから、偲ぶ会のみなさんと、栗橋直高さん、それから志をもって参加してくれた信越放送の生田明子アナと、予定されていた懇親会に、そのまま最後まで参加しました。
生田アナは、昨年に明徳寺で行われた栗林中将の63回忌法要で司会をしてくださった、美しいひとです。
生田アナは、栗林直高さんと信頼関係を築いておられて、信越放送で栗林中将を見直す放送を先駆的になさったプロフェッショナルでもあります。
懇親会は、遺骨を取り返せるという朗報で盛りあがり、ぼくの骨折は忘れて手を握り、ぼくと抱き合うひとも、当然ながら出てきて、ぼくはなんだか胸の中で泣き笑いでした。
そこからまた、宿泊先のホテルまで1時間半かかる車の中の地獄が、頭の中を繰り返し、よぎっていました。
しかし、関西テレビのロケ隊クルー、ディレクターの落合さん、ADのしおちゃん、カメラマンの松田さんの心遣いで、大きめのロケバスで送ってもらえることになり、うつ伏せで移動できて、これにほんとうに救われた!
しかも苦しい移動中ずっと、しおちゃんが優しさいっぱいで話しかけてくれて、ぼくは何とか気が紛れ、発狂せずに、宿泊先まで戻れました。
実はここまで書いてきて、ぼくは何度も、ぼくの手帳や独研・秘書室作成の日程メモを再確認しました。
夜明け前に救急病院に運ばれた、その当日に、うつ伏せとはいえ病室で人と面談し、その翌日には、退院して、往復3時間をかけて墓参し、懇親会にも出る。
こんなことが、あるはずはない。
現実とは思えなくて、何度も確認したのですが、事実です。
ぼくの怪我の実際からすると、ふつうなら、今も入院していると思います。
きっと、硫黄島の戦士たちへの感謝の気持ち、それだけが、奇跡のようにぼくを動かしていたのだと思います。
それから9日後の3月10日火曜には、防衛省に出向き、増田好平防衛次官と対談して、滑走路の引き剥がしの具体的なお話を聞きました。
これも関テレのロケ隊によって収録されています。
滑走路の引き剥がしは、滑走路を管轄する防衛省と、遺骨収集を担う厚労省との縦割りがあり、ほんらいは増田防衛次官としては話しにくいことが山ほどあるのですが、増田さんは、ずいぶんと踏み込んで、覚悟を感じさせる話をしてくれました。
インタビュアーのぼくは、まだまだ烈しい痛みのなかにあり、口も回らず、ひどいものでした。
しかし増田さんはあっさり、「別にふだんと変わらないよ」と、言ってくれました。
▼この先は、まさしく3月25日放送の番組を視ていただければと思います。
ただ、ひとつお断りしておかねばならないのは、こうしたロケの映像を、ぼく自身は全く見ていませんし、その編集がどのように行われているかも、全く関与していません。
ぼくは番組を仕切っているのではなく、あくまでも一出演者に過ぎないからです。
それは、ことし1月7日に放送された、3人のキーパーソンの政治家、民主党の総理候補のひとりの前原さん、麻生首相側近の鴻池さん、非麻生の立場を鮮明にしつつあった世耕さんという3人へのインタビューと同じです。
実際に放送された編集ぶりに、ぼく自身は必ずしも得心していませんが、それは、あくまでもテレビ局の編集権に属します。
今回の、硫黄島をめぐる放送も、どのように編集されるか事前には何も教えてもらっていません。
ぼくとしては、みんなの高い志がありのままに伝わるように祈るばかりです。
実は、硫黄島の放送をめぐっては、いちばん最初の硫黄島訪問、その次の栗林中将の法要、そして今回のいずれも、ディレクターの決して小さくない反対に直面しました。
半ば以上、強引に押し切る形で、ロケや放送にこぎ着けました。
今後も、ぼくとしては、あまりに当然ながら、この硫黄島をめぐる事実を追っていきたいと思いますが、それができるかどうかは、ただただ、沢山のかたが視てくださるかにかかっています。
どうかお願いです。
まさかぼくのためではなく、誰のためでもなく、硫黄島でわたしたちを護ろうと戦いきって、それなのに長く忘れられ、放置され、悪者あつかいされてきた先達のために、視てください。
君が代に歌われているさざれ石ゆかりの長良川のほとりから、文字通りに伏して、お願いします。
あぁ、もう夜明けです。
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