On the road~青山繁晴の道すがらエッセイ~

2010-03-28 19:04:15

日本の春




▼ことしの春は、ときに凍えるようだ。
 われらの祖国の現在のありようを、季節が静かに語っている。

 冷たい風のなかで懸命に咲こうとしている桜花は、ことしもけなげで、みていると思わず込みあげるものがある。
 美しい邦、日本はいまだ生きている。


▼新刊「ぼくらの祖国」の執筆時間をつくることに苦しみ、苦しみ抜いている。
 書けなくて悩むのじゃない。
 胸の奥を引っ掻き回すさまざまなストレスを、かろうじてくぐり抜けて書く時間を生みだそうとして、それがろくにできず、惨たる泥の道でもがいている。
 講演であれ、関西テレビの報道番組「アンカー」であれ、RKB毎日放送のラジオであれ、独研(独立総合研究所)の社長としての任務であれ、独研から配信している会員制レポートの情報収集と執筆であれ、ほかの仕事には一切、影響を与えていない。
 しかし、影響を与えないようにしているから、よけいに書く時間が作れない。
 ぼくの原点は、どこまで行っても、ひとりの物書きであることだ。だから、じっくり原稿に向かう時がないと、魂を削ぎとられるようだ。


▼そのなかで、介護中の母が、眼の輝きを取り戻していることに、励まされている。
 かつて、家長であった父が亡くなったとき、母は、蔵の中の屏風も掛け軸も何もかも、ひそかに焼き払った。
 家督を継いだ長兄も、他の家族も知らないうちのことだった。
 だから、末っ子で家督を一切手にしないぼくはもちろん知らないうちに、母は、子孫に美田を残さずという信念のもと、敷地の内の焼却場にひとりで運んで、すべて焼き払った。
 ぼくの魂の背骨を作ったのは、この母である。

 時間がないことに内心で焦りつつも、母をきょう、車椅子で花見に連れていった。




 母は、すこし前、倒れて頭を打ち、救急車で病院に運ばれた。出張先から病院に駆けつけてみると、母はぼくが誰だか分からなかった。ぼくの家族も分からなかった。
 突然に、認知症そっくりの症状が表れていた。

 主治医の診断も聴き、ぼくは、頭を打ったせいではなく、病院という家族のいない環境のためだろうと判断した。ぼくはもちろん医学者ではないが、一応は、医学記者の経験もある。
 病室には、障害のあるらしい中年の娘さんを「病院に入れてもらってるんだから、感謝しろよ。だから泣くな、こら」と怒鳴り続ける父親らしいひともいた。それはその家族のことで干渉は決してしないが、母の気持ちがふさがないかと、心配だった。個室に空きはなかった。
 その病院は新しくて、きれいだった。看護師さんたちも奮闘していた。

 だけども、母に母の個性がある。
 高齢者である前に、怪我人である前に、患者である前に、ひとりの人格と個性がある。
 ぼくは主治医とじっくり話しあった。若い主治医は、クールな語り口ではあっても、きちんと向き合ってくれた。
「脳内に出血は残っていても、自宅で注意深く介護し、通院だけで治すことも可能だろう」という診断を得て、ぼくは、車をそろりそろりと運転し、家族と一緒に母を連れて帰った。
 大雨の日だったけれど、もう一日も待ってはいけないと思い、診断を得た直後に、必要な手続きを済ませ、母を車に乗せた。
 乗せるときは看護師さんが手伝ってくれたが、一切動けない母を、どうやってぼくら素人だけで車から降ろすのかが問題だと考えながら、雨の首都高速を走った。
 しかし、ほんとうの問題は、家に入ってからだった。

 食べ物を、飲み物を、母は、嚥下(えんげ)もできないのだった。つまり、口に入れてあげても、喉から食道や胃に降ろすことができないのだ。
 その食事が始まるまでには、正直、のけ反るような費用もかけて、プロの介護士さんたちに集結してもらったが、ぼくは内心では、眼の前が暗くなるような絶望感にも襲われた。

 しかし母は戦った。
 家族も、介護士さんたちも、ヘルパーさんたちも、みな一緒に戦った。
 そして誰よりも、老いた母はみずから戦った。
 不撓不屈の日本人が、そうです、ここにいる。

 母は、驚嘆すべき早さで、眼の輝きを取り戻し、今朝は「あんたのことを、分からなかったことがあったからねぇ」と言った。
 ぼくを認知できないときがあったことを自覚できるのは、凄い。素晴らしい。

 ぼくは、そのとき、ちいさな決心をした。

 ことしの日本の春は冷たい。
 母が寒くないか、風邪を引かないか。
 そして桜もまだ、あまり咲いてはいない。
 それに、ぼくは原稿を書く時間がない。

 それでも、きょう、たった今、花見に連れていこうと思った。
 人生は、どんなことにでも、どんなときにでも、「この時」があるのだ。

 母に相談すると、うれしそうに同意してくれた。
 車椅子を押して出てみると、案の定、桜はまだあまり咲いていない。
 それでも樹によっては、ほぉと声が出るほどに咲いてくれている。
 写真を撮った、この歩道では、母はしっかりと枝を見上げて、「これは大島桜。近くでみると、びっくりするぐらい、きれいやなぁ」と言ってくれた。 




 不思議なひとである。
 かつての美女も、お婆さんになれば、眼が小さくなって、皺に埋もれる。
 母も、もちろん、しわくちゃだ。
 だが、眼だけは変わらない。丸く、明るく、意志と知的な好奇心で輝いている。
 この母の政治批判は凄まじい。マスメディア批判も徹底的である。
 ほら、あなたと同感らしいですよ。







■きょうは、わが母の話になりましたが、この地味ブログの次の書き込みでは、春がいちばん遠い、北海道は中標津(なかしべつ)、わたしたちの国後島までわずか16キロの地の青年たちのことを記します。
写真もです。

■4月から、インターネット・テレビの「青山繁晴.TV」(あおやましげはる・ドット・ティーヴィー。こっぱずかしい番組タイトルだけど、仕方ありません…)の本番が始まります。
すでに、初回から数回分の収録は終わりました。意外な方向へ話がどんどん走っていって、自分でもびっくり。これまで他人様(ひとさま)に話したことのない話も、出てしまいました。
カメラの向こうのディレクターの質問を受けて、ぼくがひとりで話していきます。
視聴は、試験版のときと同じく、無償となりました。

■CS放送の日本文化チャンネル桜から、熱心な申し出があり、レギュラー番組を持つことになりました。
ぼくは、時間的に無理ではないかと思いましたが、独研の内部で自然科学部長らから積極意見が強く、やってみることにしました。
番組タイトルは、「青山繁晴の答えて、答えて、答える!」です。
タイトルで分かるように、すべて、視聴者のかたがたの質問に答えていく番組です。質問されると、ぼくは頭の中に埋まっている引き出しが開くので、実はやりやすいのです。明日に初収録があります。
オンエアは、これも4月からです。




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