On the road~青山繁晴の道すがらエッセイ~

2010-04-30 20:23:13

太平洋へ飛び立つまえに その2 (その1から読んでください)

【この個人ブログとネットをめぐって】

▼ぼくの庭である「ON THE ROAD 道すがらエッセイ」のコメント欄のあり方について、ぼくなりの考え方を先の書き込みで示しました。
 その書き込みに、250件を超える多数のコメントが寄せられています。それらを読ませていただいたうえで、以下のように決しました。相談したひとは、誰もいません。

 今回の、この書き込みをアップすると同時に、コメントを承認制にします。
 今後もコメントは自由にできますし、ぼくは、猥褻コメント以外はすべて読みます。
 しかし、すぐにコメント欄には反映されないことになると思います。寄せられたコメントのうち、ぼくがコメント欄にそのまま登場していただこうと考えたコメント、つまり庭にさりげなく置こうと考えた草花だけが、反映されることになるでしょう。

▽そのわけと経緯 その1

「この個人ブログは、ぼくの庭です。家の内とは違い、社会に対して開かれています。それと同時に、あくまでも個人のささやかな空間であり、すくなくとも半ばはプライベートな場所です」という趣旨には、やはり沿わない実状もコメント欄にはあるなぁと考えます。
 どなたがどうというのではなく、これまでのような完全開放を、まことに残念無念ながら打ち止めとすることを、まず決しました。

▽わけと経緯 その2

 ぼくの本心は、できればコメント欄の完全開放を、これからも続けていくことでした。
 それを諦めると決めたとき、「二者択一しかないのでしょうか」という問いかけを含んだコメントは、ぼくをあらためて考えさせました。
 そして、先の書き込みで「コメント欄をすべて閉じるか、あるいは、個人ブログそのものを永遠に閉じるか、どちらかしかありません」と記したことを、省みて、撤回することを決めました。
 コメント欄を閉じずに、承認制で続け、それによって個人ブログも続ける。
 これが結論です。

 先の書き込みで、「猥褻書き込み以外は、特定の書き込みを削除することはしません」と記しました。
 削除して、誰にも読ませないようにすることは、しません。
 寄せられたコメントは、ぼくが読みます。ぼくの庭への訪問者ですから。
 そのうえで、訪問者の持ってこられた草花は、ガーデニングの常として、恐縮ながら選んで置かせていただきます。
 しかし置かない草花は、折って捨てるのではなく、ぼくの家の内、胸の内には、とっておきます。いろいろな人の思いがこもっているのですから。

 そうやって、コメントを選んで置くことを、すぐにできるとは全く限りません。
 ぼくの仕事の数々について、信頼と負託に応えられるよう、こなしていくことが優先です。
 だから、時間がたくさんかかってから、コメント欄に反映することも起きると思います。コメントされるかたは、それをご承知のうえでお願いします。


▼コメント欄をこのようにすることと合わせて、ツィッターに参加するどうか、検討を始めます。
 これまで「ツィッターをやってほしい」という要望は、ずいぶんといただきました。
 仕事と生活の現状からして、きわめて困難ですから、これまでは検討もしていませんでした。
 ただ、コメント欄の問題をみなさんとともに考えているとき、この砂粒のような存在のぼくと一緒に歩きたい、というお気持ちを感じることがありました。
 だから、検討を始めます。
 ただし、ツィッターに参加するかどうか、それはまったく分かりません。無理があることはありますから。


▼新刊の「ぼくらの祖国」の現況についても、お知らせせねばなりませんね。
 ほんらいは、3月末までに、つまり新入学や新学年までに出版したかったのです。
 これは初めて、日本の子供たち、小中高生と、その親のかたがたや先生に語りかける本でもありますから。
 それで、ずいぶん無理に無理を重ねて執筆したのですが、ついに時間切れとなりました。
 ちなみに、ぼくはこのとき、ほんとうに疲弊しました。生涯でもっとも疲弊したと言っていいと思います。顔も変わってしまいました。

 そのあと、すこし執筆ペースをまともなペースに落として執筆を続けていて、疲労も取れはしないですが、ふだんレベルの疲れになりつつあります。顔つきは、ふだん鏡をあまり見ないので分かりませんが、もう元には戻らないかもしれませんね。

 その後も、仕事があまりに重層的に積み重なっていて、書く時間がなかなか取れず、苦しんできました。
 そこで、このゴールデンウィークは、アメリカ太平洋軍と「中国海軍の西太平洋進出」について議論するために出張しますが、その出張中に、とにかくふだんにない時間をつくって書いて、連休明けと同時に、全文を版元の扶桑社の編集者に渡す予定です。
 6月中に書店に並べることができればいいなと思っています。

 この書き込みの冒頭の写真(その1の冒頭)をご覧になって、「お、出たのか」と喜んでくださったかたも少なくないでしょう。
 これは実は、表紙と装丁の見本として扶桑社が作ってくれたものです。
 ページを開けると、真っ白なのです。
 だけども、この見本は、めげそうになるぼくを励ましてくれました。
 今回の海外出張中も「ことしもまた、連休もまったく休めないんだ」という気持ちを、さらりと乗り越えられるよう、ぼく自身への励ましのためにも、この見本の写真を撮って、アップしました。

「ぬか喜びをしちゃったよ」というかたも、きっといらっしゃるでしょう。
 そういうかたには、こころから、ごめんなさい。

 この新刊のデザインは、「日中の興亡」、「王道の日本、覇道の中国、火道の米国」(いずれもPHP)と同じく、ぼくが提案しました。
 それをプロフェッショナルなデザイナーが、発色も美しく仕上げてくださいました。
 帯の言葉も、上記の前著、前々著と同じく、ぼくが書きました。


▼お知らせの最後は、ブルーリボンについてです。
 みなさんがよくご承知の通り、ブルーリボンは、拉致被害者を最後のひとりまでこのわたしたちの祖国に取り戻す運動の、鮮やかな象徴です。
 だけども、ぼくはこれまで終始一貫、こう申してきました。
「ブルーリボンを胸に付けているひとと、ブルーリボンを知らなかったり、あるいは付けたくないひとの、あいだに立って、非力ながら仲立ちをいたしたい」

 実際には、ふだん着のセーターの上などにはブルーリボンをひっそり付けて外出することもあったのです。ほんとうの思いは、ブルーリボンを付けているひとと同じですから。
 ただ、たとえば横田めぐみちゃんのご両親、有本恵子ちゃんのご両親をお迎えして2008年12月1日に大阪の中之島公会堂で「大阪ブルーリボンの会」が開いた集まりで講演したとき、このようなときには逆にブルーリボンを付けませんでした。
 そして講演の始まりのあたりで、なぜブルーリボンを付けないか、それは付けているひとと付けていないひととの橋渡しを、僭越ながらいたしたいからだと述べました。
 講演に来てくださった、びっくりするぐらい沢山のひとや、それからこの講演をDVDで聴かれたかたには、覚えていらっしゃるひともいるでしょう。

 しかし、とうとう、そんなことを言っている場合ではなくなってきました。
 わたしたちとまったく同じ日本の主人公が北朝鮮に奪われたまま、忘れられは決してしないけど、まるで忘れられたかのようになる怖れが、現実のものとなっています。

 そこで、ぼくは姿勢を変えて、ブルーリボンをこの出張から付けます。


▼かなり長い書き込みになりました。
 書き始めは、4月29日、昭和の日の朝5時半ごろだったのに、今はもう、4月30日の夜7時が近づいています。
 仕事をしつつ、合間あいまにこのブログのエントリーを書き溜めて、今、成田空港にいます。
 アメリカ太平洋軍と議論するアポイントメントが、極端なショート・ノーティス(短兵急な申し込み)にもかかわらず、さまざまな立場のかたがたの友情によって、どうにか確定し、これから夜のフライトに乗り込みます。

 最後の写真は、なんでしょう。
 これは、ぼくが「零戦五五型」と名づけた飛行機のフライト前です。
 先日に熊本で若手経営者のために商工中金がひらいた講演会で、つたない講演をし、そのあとの懇親会で、明治20年創業という「浜田醤油」の若手社長、濱田康成さんが「父は特攻の訓練を受けているうちに、敗戦となったひとです。エアロスバル(名高い日本の軽飛行機)に零戦とおなじ塗装をほどこして、空を飛んでいるんです。明日の朝、帰京される前に飛びませんか」と思いがけない提案をされました。

 即、お受けして、翌朝に濱田社長の車で熊本空港に向かうとき、若社長が運転しつつ「おやじは、16歳で祖国のために死のうと決意したときと、おんなじ気持ちでいるんだと思います。少年のままの純粋さを持っているんですよ。だから、青山さんに乗って欲しかった」と問わず語りにおっしゃいました。

 なんという素晴らしい言葉でしょう。こんなことを息子に言ってもらう父上は幸せですね。

 そのエアロスバルに近づくと、お父さまの浜田醤油会長、濱田定勝さんは、熱心に出発準備をなさっていました。
 元は熊本大学航空部の監督でもあり、この帝国海軍の少年航空兵は、80歳代も半ばの今も、すらりと背筋が伸び、若々しく毅然としていらっしゃいました。

 ほとんど一瞬で意気投合し、ぼくは、この世界にただ一機のエアロスバルを「零戦五五型」と勝手に命名してしまいました。
 ね、お父さん、それを許してくださいましたよね。
 零戦、ゼロファイターは、その三菱五四型を最後の「試作機」として実用化しきれないまま、すなわち抜本改革を遂げないまま、戦いに敗れたのです。

 この少年航空兵に帝国海軍の敬礼をお願いすると、写真のように、まことにきりりと敬礼をなさいました。
 ぼくは、硫黄島を訪ねた翌日にお会いした、硫黄島でわたしたちのために戦った帝国海軍の金井啓さんを思い出し、胸の内で涙しました。
 ぼくは「60年以上も、おまえたちは硫黄島の戦いを忘れていたじゃないか」と叱られるために、御年82歳だった金井さんをお訪ねしたのに、金井さんはただの一言も怒らず、3時間にわたって、ぼくと話してくださいました。
 そして、お別れし、車に乗ったぼくが遠ざかり、金井さんはそのお顔に『あぁ、青山さんはもう見ていないな』という表情を浮かべられた、その瞬間に、きりりと敬礼をなさいました。

 その謙虚な美しい姿勢に、ぼくはふたたび落涙したのでした。



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