On the road~青山繁晴の道すがらエッセイ~

2011-03-08 23:20:00

残念なお知らせと、その後の現況(書き足し、書き直しました)(イレウスについても書き足しました)

▼え-、会員制レポートの会員へのお知らせがまだなので、正直、順番が逆なんですが、なにせ明日のことだし、一般に広く(僭越な物言いながら)影響があることかもしれないので、急ぎ、お知らせしておきます。

 明日3月9日水曜の関西テレビの報道番組「スーパー・ニュース・アンカー」は、お休みします。
 大腸癌の切除手術は、すでにお知らせしたように、成功し転移もなく、その後も問題ないのですが、お腹で腸閉塞(イレウス)が起きました。
 腸閉塞(ileus)は、ご存じの方も多いでしょうが、ぼくのようなケース(あとで詳述)では癌そのものとはまったく関係がありません。(*つまり、ぼくの発症した腸閉塞は、癌性腹膜炎などによる腸閉塞ではなく、機械的な単純性イレウスです)
 癌切除手術に限らず、腸に何かの手術を施した場合など(ただし、もちろん手術が原因になるとは限りません。胆石などいろいろなきっかけがあります)、腸管の内容物の移動が難しくなり、閉塞、つまり詰まった状態になる症状です。
 放置すれば、短期間で死に至ることもある恐ろしい症状です。

 ぼくは同年配の友だちを実際、この腸閉塞で喪っています。
 住博司(すみ・ひろし)くん。
 早大政経学部卒も同じで、京都府警担当の事件記者時代、彼がNHKのキャップで、ぼくが共同通信のキャップでした。こころ優しい、清潔な人柄のナイスガイで、やがて自民党の若手ホープの代議士になりました。
 ところが腸閉塞を患ってから、あの顔色もよく爽やかに元気だった男が、わずかな闘病のあと43歳で亡くなってしまいました。

 ぼくは、きのう3月7日月曜の朝に「イレウス(腸閉塞)」という診断を受けました。
 この日は大阪で講演予定がふたつありましたが、医師から「講演すれば、舞台の上で、ショックを起こして救急隊員に運ばれるか、腸管が破裂して、死に至るだろう」と言われてしまいました。
 そこで、独研(独立総合研究所)の総務部秘書室が、ぼくの意見を聴くまえに、ふたつのうち延長可能な講演について主催者のかたと交渉し、4月12日へ延期を無事に決めました。
 この主催者の大阪木材工場団地協同組合・教育・情報委員会さん、ほんとうに、ありがとうございます。ご迷惑をおかけしました。

 しかし、残るひとつは延期はできない講演会だったので、自宅からタクシーに乗り、羽田から飛行機に乗り、伊丹からタクシーに乗り、尼崎市のホールで講演し、ホールからタクシーに乗り、新大阪から新幹線に乗り、新幹線の車中でひどく嘔吐し、品川駅からタクシーに乗り、大腸癌の切除手術をした都内の大病院に行き、そのまま入院しました。

 そのホールからのタクシーに、関西テレビのプロデューサーに同乗してもらい、車内でじっくり相談しました。
 プロデューサーはもともと、ぼくの健康最優先という考え方がとてもはっきりしている人で、今回も「お休みなさってください」という考えでした。
 ぼくとしては、いったん再開した番組参加を中断したくなかったけれど、ぼくに万一のことがあったときなどに、関テレに「無理をさせたんじゃないか」といった、あらぬ批判が来ることを懸念して、その場で、お休みに同意しました。

 その夜に、前述したように大病院に入院して、お腹に長時間の点滴で輸液(水分や電解質)をゆっくり送り込む処置や、同じく点滴で痛み止めなどの薬剤を体内に入れる治療を施してもらいました。
 すると、きょう3月8日火曜の午前6時55分ぐらいから、4日ぶりの排泄作用があり、それから夕方までに実に9回、ほとんど水のような大量の排泄がありました。
 今日の午後2時ごろから、あの激烈な腹全体の痛みは嘘のようにほとんど姿を消し、激しかった嘔吐もなくなりました。大腸癌の切除手術を執刀した副院長が、「物凄い体力を感じる」と表現された急回復となりました。


▼しかし、関西テレビは当然、すでに代わりの方と出演交渉も終えています(どなたかは知りません)。
 また、さすがにまだ、飛行機や新幹線に乗るのは、無理です。

 実は、きょうの午後4時過ぎに、テレビ朝日の番組「ワイド・スクランブル」から生放送に参加(出演)依頼の電話がありました。アメリカ国務省のケヴィン・K・メア日本部長が沖縄県民を侮辱した問題について、話してほしいということです。

 入院中の大病院は、テレビ朝日から遠くありません。ふだんなら歩いて行けます。また参加(出演)するのも短時間です。
 アンカーの「青山のニュースDEズバリ」コーナーには必要不可欠な、番組側との時には4時間に達したこともある事前の議論の必要はなく、伝えるべきことのコア(要点の要点)を実質3分ほどで伝えるのみです。
 取材そのものは、モバイルパソコンのEメールと携帯電話の会話で、しっかりやらねばならず、その負担は同じですが、情報収集はどうせ、いつでもやっています。コーナーの組み立てがないことは決定的に負担が小さいのです。
 そして、このメア発言は、視聴者と考えたいテーマです。まだまだ裏もあると思われるメア発言への注意は、一過性でなく喚起しておきたい。

 そこで、前述の副院長と相談のうえ、短時間の外出許可のもと、参加することにしました。
 ぼくが顔を出すのは、正午過ぎぐらいの見通しです(生放送ですから前後することがあります)。
 アンカーを楽しみにしていただいているかたがたには、重ねて申し訳なく思います。ぼくが急回復して大丈夫な証拠でもあると、受け止めてくだされば嬉しく思います。

 また、水曜日のもうひとつの定番、RKBラジオ(福岡)の「スタミナ・ラジオ」への電話によるナマ参加(出演)も、体調の回復ぶりから可能と判断し、ベッドの上から携帯電話で、いつも通りにこなすことにしました。テーマは、前原外相の辞任を契機に外国のカネを使った工作活動をリスナーと一緒に考えることです。
 これも、一過性のテーマではありませんね。


▼以下は、もうすこし詳しい話ですが、今となれば、余談のようなものです。ただし、実はぼく自身にとっても、きっと大切な備忘録になります。
 興味のある方だけ、どうぞ。

 この一つ下の書き込みで、「(関テレ・アンカーのために大阪入りした3月1日火曜の夜から)腸閉塞を疑う事態となって、(3月2日水曜の未明に)救急車で(大阪市内の救急)病院に運ばれました。しかし幸いに、イレウスではなく、術後のやむを得ない痛みということになり、今も出張先の長野で、痛みに耐えています」と記しました。

 これを記し、アップしたのは3月5日の土曜の夜でしたが、そのあと腹部の痛みでほとんど眠ることもできず、翌3月6日の日曜の朝6時半ごろ、思いがけなく激しい嘔吐も始まりました。
 めちゃ苦しい長時間の嘔吐なのですが、吐瀉物は、ただただ白い泡か水のようなものです。
 嘔吐は、誰でも小さい頃から経験があるでしょう。ぼくも同じです。ところが、その嘔吐はこれまでに一度も経験したことがない嘔吐でした。
 吐瀉物が、見たことのない、ひたすら白いものだけだし、とにかく吐いても吐いても楽にならず、吐けば吐くほど胸も、肩のあたりも掻きむしりたいほど苦しくなるだけです。

 それでも、大阪の信頼する救急病院の診断ではイレウス(腸閉塞)ではなかったし、その2日後の3月4日に、都内の大病院で、大腸癌の切除手術の執刀医にも診ていただきましたが、やはり「イレウスではない」と明言されていました。

 3月6日日曜の朝、『イレウスでもないのに、こんな激しい嘔吐が起きるかな』と首をかしげながら長野新幹線に乗り、東京へ向かいました。
 車中でも、激しい嘔吐があり、こんなに苦しい新幹線乗車も経験がありません。
 ようやく都内の自宅にたどり着くと、テレビ朝日への出発時間まで、あと30分もありません。生放送ですから、ドタキャンなど、絶対にしてはいけません。
 痛み止めの座薬をお尻から入れ、嘔吐と痛みで涙を流し続けた顔を洗い、スーツに着替えて、おのれを信じて、ひとり自宅を出て、「サンデー・スクランブル」という番組で、日本の自主資源について、ありのままに話しました。

 予定では、6分30秒のトークの時間があるということでしたが、その前のテーマが携帯電話のカンニング事件で(ぼくはこのテーマの時は参加していません)、すこし時間が延びました。
 自主資源のテーマになり、ぼくが席に着いたときには「トーク時間は5分だけです」ということになっていました。
 しかし、それはテレビの生放送にはつきものです。
 予備知識のないひとにも、日本は隠れた資源大国であって、アメリカやイギリスの主導する国際メジャー石油資本などの言いなりになる必要は、もはやないのだという趣旨を、ぼくなりに話しました。
 腹から声を出して。
 痛みも吐き気も、ほとんど感じなかった。

 ところが自宅に戻った瞬間に、激烈な腹全体の痛みがぶり返し、嘔吐も再開。
 しかし日曜日で病院は休みだし、また救急車を呼んでお手間をかけるのも嫌だったので、布団を被って、イテテ、イテテと言いながら、脂汗を大量に流して、午後も、夕刻も、真っ暗な夜も転がり回りました。
 痛み止めの飲み薬は、都内の大病院でも大阪の救急病院でも処方もされているのですが、なにせ嘔吐を繰り返しているから、何も飲めない。水も一切、飲めない。
 座薬は、1度使ったら、6時間半以上ぐらいは間をあけないといけない。しかも座薬も、ほぼ効かなくなっていました。

 やっと地獄の夜が明けました。
 大阪で講演が二つある日が、来たのです。
 朝8時を回るのを待って、自宅の目の前の開業医に電話をしました。

 午前11時の飛行機に乗らないと、延期できない講演会、すなわち尼崎アルカイック・ホールで開かれる講演会に間に合わないから、執刀した大病院に行く時間はありません。
 看護師さんは「まだ診療開始前です」とおっしゃいましたが、「救急車を呼びたいくらいの痛みなので、先生に繋いでいただけませんか」と頼みました。
 この自宅前の開業医は、ぼくの重症肺炎を見つけてくれた医師で、「町の名医」です。
 この町の名医は、電話に出てくれて「すぐに、いらっしゃい」と言ってくれました。

 そして町の名医は、超音波でぼくの腹を調べ始めるとすぐ、「こりゃ、間違いなく、腸閉塞だよ」と叫びました。
 そして「小腸に至るまで、ぱんぱんに腫れ上がっている。こりゃ痛いはずだ。救急車を呼びたいぐらいだというのも、当然だ。いつ腸管破裂を起こしてもおかしくない」と、おっしゃいました。

 ぼくは、当日の講演のうち、ひとつはどうしてもキャンセルも延期もできないことを話しました。
 訳は、特に話していません。

(訳は、その講演会は、宅地建物をめぐる公益法人による研修会の一環であって、宅地建物の専門家が二人、ぼくの前に講演なさいます。だから、ぼくの事情で延期というわけにいきません。もうひとつ訳があります。この公益法人の事務局の熱心な女性から、何度もぼくにEメールが来て、一般のかたに「スーパー・ニュース・アンカー」で告知してほしいという要望があり、関テレが特例として認めてくれて、先週の番組の最後に「生身のぼくの無事を確かめたい方は、どうぞ」と話したのです。
 もちろん、都内の大病院や大阪の救急病院の「イレウスではない」という初期の診断を信じて、そう申したのでした。誤診ではなく、まだ初期の段階の診断では、そうなったということです。
 いずれにしても、自分の発言で多くの方の来場となりながら、自分の都合でキャンセルなど決して、できません)

 すると、町の名医は、前述したように「講演すれば、舞台の上で、ショックを起こして救急隊員に運ばれるか、腸管が破裂して、死に至ると思うよ」とおっしゃったのです。
 そして、「青山さん、重症肺炎のときもあなたは、人にはうつらないと分かったら、多臓器不全による急死の怖れを押し切って講演をしたよね。あのときと同じとも言えるけど、今回のほうが、さらに、はるかに、危険性が高い。ほんとうに、ほんとうに、命がけの講演になりますよ」と、ぼくの眼をじっと覗き込んで、おっしゃいました。
 そして、ぼくの決意が変わらないことが分かると、「この痛みのなかで、声が出ますか」と尋ねられた。「出ます。いや、出します」と答えると、さらに「しかし、こんな苦痛のさなかに、頭が回りますか」と聞かれた。「回ります」と確信を持って答えました。

 すると町の名医は、大病院の執刀医に電話をされた。
 そして協議をされて、「本日中に入院する」ということを条件にして、大阪行きのために、ぼくに点滴を始めてくれました。
 飛行機は避けて、ということも条件にしたいとおっしゃったけど、もう飛行機でないと講演時間に間に合いません。
 そこで町の名医は、痛み止めの点滴をたっぷり、実に3本、それと同内容の痛み止めの筋肉注射もやり、さらに痛み止めの座薬も処方してくれて、ぼくは自宅でそれを体内に入れて、つまりは全身痛み止め満タン人間となり、羽田へのタクシーに乗り込みました。
 正直、タクシーの小さな揺れのひとつひとつすら、一身にこたえました。
 しかし講演会を完遂できるという、確信は、まったく揺らがなかった。

 講演会場に着いたのは、講演開始の1時間以上前でしたが、もう、さまざまな世代の方が、びっくりするぐらい長い列を作っておられて、ぼくとしては内心で、すこし涙ぐむ感じがするぐらいでした。
 例外として告知を許してくれた関テレ、そして番組最後で時間がなかったから日時と会場の名前しか言えなくて、そのために尼崎アルカイック・ホールに問い合わせが殺到し、たいへんな目に遭ったホール関係者のかたがた、そしてもちろん、ご縁を作ってくれた主催者(社団法人 兵庫県宅地建物取引業協会)に感謝し、ぼくのつたない話を聴きに集まってくださったみなさんに、長い列から離れた陰から、頭を下げました。

 主催者のかたがたに挨拶をしたあと、失礼を承知で、そのかたがたのすぐ隣でソファに仰向けとなり、時間が来ると、あらためて意を決して、舞台に向かいました。
 講演は、「祖国は甦る」と題して、予定では1時間半でした。
 会場の都合から、講演時間の延長は5分だけですと、主催者から告げられていましたし、町の名医の強烈な警告がありますから、さすがに「きょうは延長は無理です」と聴衆のかたがたに告げました。
 というのは、この頃、目の前の出来事について話さねばならないテーマが増えすぎて、ぼくが講演のたびに話したい、沖縄の白梅学徒看護隊と、硫黄島の英霊のかたがたのことは、いつも延長した時間で、それも、ごくかいつまんで話さざるを得ないようになっていたからです。
 この日は延長できないから、最初から「白梅と硫黄島を主として話す」と決めていたのです。

 ところが、この講演は、前原誠司外務大臣の辞任とぶつかりました。
 ぼくなりに、この日が来ることは、1月の半ばから予期していました。
 しかし、聴衆のかたがたにとっては意外な成り行きでしょう。だから、その深い背景を話さないわけにいきませんでした。
 それやこれやで、結局は、白梅と硫黄島のためには、20分しか残らないことになり、実は20分近く延長して、合計40分弱で、やっぱりかいつまんで、ようやく話すことができました。
 それを認めてくれた主催者およびホールと、最後まで強い関心で聴いてくださった聴衆に「ありがとうございました」と叫びつつ、舞台で倒れて主催者に迷惑をかけるようなことがなく済んだという安心感と、無事に東京に戻って入院できるか分からない、この後も命が続くか分からない、講演はこれが最後かもしれないという思いも込みあげ、特に遠い2階席から聴いてくださったかたがたに、「聴きにくかったでしょう」と最後に声をかけたら、2階席の、それも最後列から両手を大きく広げて振る方がいて、ぼくも思わず、それに応えて、両手を振り、すると場内みんなが手を振り、ほんとうに涙するような終わり方になりました。

 さて、そのあと飛行機は医師のアドバイスに今度は従って、避けて、新幹線で東京に向かい、名古屋を過ぎて、やれやれ何とか無事に入院できそうだと思ったら、その名古屋から先が苦しかった。
 ひどい嘔吐と、身をよじってもよじっても耐えられない、腹全体の痛み。新幹線のトイレが、忘れられない場所になってしまった。
 それでも、どうにか都内の大病院にたどり着くと、もう遅い時間なのに、執刀医の副院長が待機してくださっていて、診察しながら「こんな状態で、ほんとうに講演なんかできたんですか」と、同行していた青山千春博士に聞かれ、青山千春博士は「本番になると、別の力が出るようです」と、あっさりと答え、ぼくは激しく嘔吐しながら、そのやりとりを聞いていました。
 この段階では、大病院での診断も「イレウス(腸閉塞)」でした。

 あとで正確に聞くと、ぼくの大腸は15センチにわたって切除され(今までは10センチだと思っていた)、その手縫いの吻合(ふんごう)部が、初めは大丈夫でも、術後2週間ぐらいからもっとも、むくみ、腫れ、浮腫を起こす時期であり、ぼくの場合は、そのために閉塞が起きて小腸にまで及んでいる状態でした。だから凄まじい嘔吐も続いた。
 腹の開口部は、この副院長の優れたメソッドでわずか7センチにとどまっているけれども、大腸の切除は、癌のリスクを考えて、大きかったのです。
 しかし、ぼくの腸閉塞は単純性イレウスで、腸捻転を伴うような複雑性イレウスではなかった。わが友、住博司代議士を襲ったのは、この腸捻転でした。

 そこで副院長は保存的治療(切らずに治す)をまず選択し、点滴で輸液を入れていったのです。
 すると、ぼくの体には予想以上に効果があり、今日の早朝からずっと排泄が続いたために、痛みも吐き気も、嘘のように軽快していったわけです。
 副院長は、点滴で効果が薄ければ、救命のために、内視鏡で一部切開することも考えていたようですが、今夜、「その必要はほぼなくなった」と診断され、明日の短時間の外出(テレビ朝日の番組参加)も認められたのです。

 忘れられない講演会になった尼崎で、ひとつ、心残りだったのは、秘かに参加されていた有本ご夫妻、すなわち拉致被害者で、ぼくと神戸の幼稚園が同じの有本恵子ちゃんの父、有本明弘さんと、母、有本嘉代子さんを聴衆に紹介しなかったことです。
 それが気になったので、大病院に入院して、副院長の診察を受ける前、当直医の手になる痛み止めの点滴を受けているとき、携帯電話で有本さんのご自宅に電話しました。
「次の機会からは、秘かなるご参加でも、みんなに、みなさまに紹介したいと思います」という趣旨をお話しして、諒解していただいた。
 講演会はいつでも、ぼくの話しぶりはなんと下手なんだろうと(謙遜ではありませぬ)、心残りがある。
 しかし、今回の心残りは、解決しておきたかった。



*ところで、この個人ブログへの書き込みに、このごろ(おそらくは善意の)誤解があります。
 たとえば「青山さんは、3月6日の日曜日に、自民党だってカネの問題があるんだから前原外相をあまり追及するなと発言していたが、賛成しかねる」という書き込みがありました。
 そんな発言は、していません。
 そもそも3月6日は、テレビ朝日の「サンデー・スクランブル」に参加して、メタンハイドレートや熱水鉱床といった日本の自主資源のテーマで話をしただけで、ほかには発信していません。講演会もありませんでした。
 おそらくは、同じ番組で、まったく別人が前原外相の問題で発言したのを、ぼくが発言したかのように思い込まれたのではないかと考えます。
 ぼくは、その日の「サンデー・スクランブル」の全体を視ていませんから、分かりませんが。
 まったく信じがたいような誤解は、よくあります。
 この一つ下の書き込みでも、「退院してすぐレースに復帰したのか」と誤解された方もいるようですが、写真は2009年の撮影と明記しています。

 ブログへの書き込みは、今、承認制をとっていて、それ以来、まだどなたの書き込みにも公開の承認を出していませんが、すべて目を通しています。
 いまだにある、根拠のない(どうみても悪意の)中傷誹謗については、即、削除していて、ぼくも覚えていませんから、公開されることは、いずれにしてもありませぬ。
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