2011-06-02 16:39:37
きょうは実は父の命日です
▼いま6月2日木曜の夕闇迫る4時25分です。
菅政権への内閣不信任案の採決をおこなった衆院本会議が終わって、しばらく経った段階です。
ぼくが政治記者だった時代から、時代の色を映したさまざまな政局があったけれど、これほどまでに愚劣な、半端な、数百の政治家がこぞって、おのれの保身だけに走った政局はないでしょう。
▼さて、本題です。
独研(独立総合研究所)の総務部によれば、インディペンデント・クラブ(The Independent Club / IDC)は会員の募集を開始した昨日から今日6月2日の朝にかけて、即、満員になってしまったとのことです。
みなさんのお気持ちに、もっと応えたいです。
しかし独研の事務処理のキャパシティからして、当面、第一次募集はこれにて終了です。
いつ第二次募集ができるかは、これからじっくり考えていくことになります。
まずは、関心を持っていただいたすべての同志たち、ありがとうございました。
取り急ぎ、深い気持ちで、お礼のこころをお届けします。
▼きょうが命日の父は、それなりの長い伝統を持つ繊維会社の現役社長のまま、入院中に思いがけない医療過誤で、窒息死を遂げました。
ぼくは三人兄弟の末っ子で、だから「おまえは家督を継げない。ひとりで生きろ」と父からも母からも繰り返し、告げられながら育ちました。
それがぼくの、ささやかな自立心の根っこを造ってくれたと、考えています。
生前の父とは、世の改革のありかたをめぐって何度も、衝突もしました。
死に目に逢えずに、あれから24年にもなるのに、父をまだ諦めきれない。
どれほど無念の死だったでしょうか。
ぼくは共同通信の東京本社・政治部にあがって、まだ2か月、初めて政治部の筆頭デスクからポケットベルを鳴らされ(当時まだ、携帯電話はなかったですからね)、勢い込んで公衆電話から本社に電話したら、いきなり「青山くん、お父さんが亡くなったよ」。
ぼくが声を出せないでいると、忙しい筆頭デスクは、「だから、お父さんが亡くなったという連絡を、今したからね」とおっしゃり、ぼくは「分かりました」とだけ、ようやく応えました。
小雨の公衆電話ボックスを、きのうのことのように覚えています。
父は、生涯ただの一度もぼくを叱ったことはなく、厳しい母とふたりで、ぼくを造ってくれた。
新幹線で家に帰ると、父はもう、知らない父になって寝かされていた。
ぼくは父の髪を切って、白い紙に包みました。
その髪は今も、ぼくの書斎に祀られ、硫黄島の英霊や白梅学徒看護隊の少女たちに捧げる水と一緒に居ます。
お父さん、ごめんなさい、引き留めて。
そのうち、お父さんと一緒に、天に戻るから、そのときまでつきあってね、いつもそう胸の中で話しかけます。
父も、自動車が大好きでした。
優れた経営者だったけれど、繊維工場をふたつ廃して、時代に先駆けるように自動車教習所をふたつ開設したのは、経営感覚だけではなく、車が好きだったことも実はあると、ぼくは勝手に解釈しています。
ぼくが小学校4年のとき、車の運転を初めて教えてくれたのは、父でした。
今も、運転しているとき、父が護ってくれている気配を、驚くほどありありと感じるのです。
菅政権への内閣不信任案の採決をおこなった衆院本会議が終わって、しばらく経った段階です。
ぼくが政治記者だった時代から、時代の色を映したさまざまな政局があったけれど、これほどまでに愚劣な、半端な、数百の政治家がこぞって、おのれの保身だけに走った政局はないでしょう。
▼さて、本題です。
独研(独立総合研究所)の総務部によれば、インディペンデント・クラブ(The Independent Club / IDC)は会員の募集を開始した昨日から今日6月2日の朝にかけて、即、満員になってしまったとのことです。
みなさんのお気持ちに、もっと応えたいです。
しかし独研の事務処理のキャパシティからして、当面、第一次募集はこれにて終了です。
いつ第二次募集ができるかは、これからじっくり考えていくことになります。
まずは、関心を持っていただいたすべての同志たち、ありがとうございました。
取り急ぎ、深い気持ちで、お礼のこころをお届けします。
▼きょうが命日の父は、それなりの長い伝統を持つ繊維会社の現役社長のまま、入院中に思いがけない医療過誤で、窒息死を遂げました。
ぼくは三人兄弟の末っ子で、だから「おまえは家督を継げない。ひとりで生きろ」と父からも母からも繰り返し、告げられながら育ちました。
それがぼくの、ささやかな自立心の根っこを造ってくれたと、考えています。
生前の父とは、世の改革のありかたをめぐって何度も、衝突もしました。
死に目に逢えずに、あれから24年にもなるのに、父をまだ諦めきれない。
どれほど無念の死だったでしょうか。
ぼくは共同通信の東京本社・政治部にあがって、まだ2か月、初めて政治部の筆頭デスクからポケットベルを鳴らされ(当時まだ、携帯電話はなかったですからね)、勢い込んで公衆電話から本社に電話したら、いきなり「青山くん、お父さんが亡くなったよ」。
ぼくが声を出せないでいると、忙しい筆頭デスクは、「だから、お父さんが亡くなったという連絡を、今したからね」とおっしゃり、ぼくは「分かりました」とだけ、ようやく応えました。
小雨の公衆電話ボックスを、きのうのことのように覚えています。
父は、生涯ただの一度もぼくを叱ったことはなく、厳しい母とふたりで、ぼくを造ってくれた。
新幹線で家に帰ると、父はもう、知らない父になって寝かされていた。
ぼくは父の髪を切って、白い紙に包みました。
その髪は今も、ぼくの書斎に祀られ、硫黄島の英霊や白梅学徒看護隊の少女たちに捧げる水と一緒に居ます。
お父さん、ごめんなさい、引き留めて。
そのうち、お父さんと一緒に、天に戻るから、そのときまでつきあってね、いつもそう胸の中で話しかけます。
父も、自動車が大好きでした。
優れた経営者だったけれど、繊維工場をふたつ廃して、時代に先駆けるように自動車教習所をふたつ開設したのは、経営感覚だけではなく、車が好きだったことも実はあると、ぼくは勝手に解釈しています。
ぼくが小学校4年のとき、車の運転を初めて教えてくれたのは、父でした。
今も、運転しているとき、父が護ってくれている気配を、驚くほどありありと感じるのです。
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