On the road~青山繁晴の道すがらエッセイ~

2019-10-20 10:17:28
この日時は本エントリーを書き始めた時間です
Comments (10)

かくも長く、そして短き時間  Bokurano Album On the Road  その2

▼きのう土曜日の朝5時半。
 自宅からネットを通じて全面協力してくれる公設第二秘書とともに、予定を覆して神戸に行く準備を最終的に開始。
 既存の予定をどうするかをめぐって、前夜遅くまであれこれ検討していました。
 その時点では、飛行機がすべて満員。
 新幹線では、葬儀が終わったあと、どうにか参加したい予定に間に合わない。
 とりあえず空港に向かう。
 向かう途中は、土曜に仕上げ予定だった会員制レポート、東京コンフィデンシャル・レポート ( TCR ) の第1027号「世界経済に凶兆あり ( 下 ) 」の執筆を急ぎました。

▼空港でキャンセルが出るのを待っていると、同期の参議院議員と偶然、会いました。
「きょうは何ですか? 講演かな ?」と、朝らしい爽やかな笑顔で聞かれる。
 みんな、ぼくが地元も選挙区を持たないことを良く知っているんだなぁと、ふと感じました。 ( 全国比例の議員でも、実際には、事実上の地元を持ち、そこがいわば選挙区のひとつになることが多いのです )
「幼稚園の先生が亡くなったので、葬儀に行きたいんだよね」と答えると、「え ?」とびっくり顔。「幼稚園の先生と今もお付き合いがあるの ?」と聞かれました。
 なるほど。
 亡き柴田秀子先生の人徳と、温かいこゝろに、あらためて触れる思い。
 柴田先生がずっと変わらずに卒園生と付き合いを続けてくださった。
 そのなかに、拉致被害者となってしまった有本恵子さんも、不肖ぼくもいるのです。 
 



▼一席だけキャンセルが出て、どうにか葬儀会場の日本キリスト改革派神戸長田教会に到着。
 途中、レポートの仕上げはかなり進む。 ( レポートの情報はここです )
 頭とこゝろの九割は柴田先生や有本恵子さんのことでいっぱい。残りの一割で、教会に辿り着く交通をどうするかや、影響を受ける当初の予定や、災害対応を含む公務のことや、皇位継承の安定策について正念場を迎えた護る会 ( 日本の尊厳と国益を護る会 / JDI ) のことなどなどを考えつつ、世界経済のリスクをめぐるレポートも書いている。
 それでも、これまで情報の入手や分析を深めてきたテーマだから、意外にレポートの執筆がどんどん進むなぁと、ちらり思う。

▼葬儀の開始時刻から15分遅れて、懐かしい教会の中に入ると、讃美歌がいったん終わるところでした。
 ぼくは父が仏教の曹洞宗、母がプロテスタントのキリスト教徒で、父は、繊維会社を経営する家の八人の子どもの末っ子。その会社の神戸支店に勤務し、なにせ末っ子だから社長になるはずもなかった頃に、ぼくが生まれた。ぼくも三人兄姉の末っ子です。
 幼稚園は、母が信仰する改革派教会の附属幼稚園に通いました。
 今は亡き父が話してくれたところによると、やがて父の兄が次々に、落馬で亡くなったり、ハーレーダビッドソンを運転中に川に転落したりで亡くなったりで、突然に社長になることになったそうです。
 そのため、一家は兵庫県の加西郡 ( 現・加西市 )に引っ越し、ぼくの神戸時代は幼くしておしまいになりました。
 それが逆に、幼稚園の記憶が鮮明な理由のひとつになっているのかも知れません。

▼さて、会場に入って、いちばん後ろに立ち尽くしていると、赤ちゃんを抱いた女性が、あそこの席が空いてるから座ってくださいと促してくださいました。
 そして座り、しばらく茫然と俯いていて、ふと顔を上げると、そこに有本恵子さんのお父さま、有本明弘さんがいらっしゃいました。
 トランプ大統領に手紙を出し、返事が来た明弘さんです。
​ トランプ大統領はおそらくは直筆とみられる手書きの便りで、「あなたはきっと勝利する」と書いてくれました。
 写真のいちばん手前に座っておられる白髪の後ろ姿が、明弘さんです。
 明弘さんの肩にうしろからそっと触れると、悲しみのなかで『おお、よう来たな』という微笑を返してくださいました。

▼教会の吉田実牧師が、柴田秀子先生の生涯を丁寧に紹介してくれました。
 喘息に苦しみつつ、生涯独身を貫かれて、ただひとのために尽くされた93年間でした。
 日本キリスト改革派神戸長田教会の附属幼稚園の先生、そして園長を29年のあいだ務めてくださいました。
 気品があって美しく、誰もが憧れた先生でした。
 きっと恵子さんも同じだと思います。
 車椅子にて、甥御さんと一緒に独立講演会に来てくださったこともあります。
 関西テレビのアンカーもとても喜んで、毎週、視てくださいました。
 そして有本恵子さんの無事の帰還を、いつも祈っていてくださいました。
 プロテスタントの葬儀の形式にしたがい、お棺のなかで静かに眠られる柴田秀子先生のそばに、参列者がひとりひとりお花を添えました。
 出棺は、有本明弘さんと並んで見送りました。

 

 
▼右が、日本キリスト改革派神戸長田教会です。
 左奥が、附属幼稚園になっています。
 改革派を名乗るだけあって、とても簡素な造りです。
 飾りはほとんどありません。威圧感をもたらすようなものは、一切ありません。
 ただひとびとのために何も持たずに歩かれた主イエス・キリストをそのままです。

 教会の下の狭い駐車場で、かつてはチャリティのバザーを開いていました。
 ぼくの母も、手縫いで衣類などをつくって参加していました。
 白いエプロン姿の母が写真の階段を降りてくる姿を、ありありと覚えています。



 
▼出棺を見送って、有本明弘さんに促され、教会からすぐ近くの有本さん宅を久しぶりに訪ねました。
 いまは歩けなくなっておられるけども気持ちがお元気な、お母さまの有本嘉代子さんにお会いできました。
 たがいに両手を握り合って、再会を喜び、そして嘉代子さん、明弘さん、恵子さんのきょうだいと不肖ぼくの四人で、恵子さんの帰宅を誓い合いました。
 嘉代子さんは柴田秀子先生と同い年です。

▼有本さんのお宅を辞して、教会と幼稚園がもう一度みたくて戻るときに、柴田先生の訃報をこの地味ブログに知らせてくださった卒園生のMさんと、そのお母さまにばったり会いました。
 葬儀が終わってしまって、もうかなり時間が経っていましたから、教会から歩いてくる人は他に誰もいませんでした。ささやかな奇蹟です。
 ぼくはもちろん初対面です。Mさんの方から静かに声をかけてくださいました。
 このMさんが知らせてくださったからこそ、ぼくは柴田秀子先生に最期に逢えました。
 あらためて、深く感謝を申しあげました。
 写真の後ろ姿のお二人が、Mさんとお母さまです。

 


▼教会に戻ってみました。
 亡くなってから、急いで葬儀に来ても駄目ですね。

 もっともっと、お話しをするべきだった。
 すべてぼくの責任です。
 このような悔いを二度と繰り返さないようにします。




▼門にいつも飾られている、ちいさな清楚な花が、日本キリスト改革派神戸長田教会と附属幼稚園の変わらないイメージです。
 恵子さんの胸にも、間違いなくあると思います。
 有本明弘さんは、その一男五女が全員、柴田秀子先生に教わったと仰っていました。
 恵子さんは三女です。




▼幼稚園は実は、廃園になっています。
 こどもが少なくなったからです。哀しいですね。
 しかし恵子さんもぼくも、ちっちゃな靴を入れた下駄箱も健在です。
 時計の下には、長田幼稚園のシンボルのエンブレムがいまもあります。




▼エンブレムのふたりの天使のたたずまいは、永遠に喪われることのない、柴田秀子先生とすべての卒園生のこゝろそのものです。



 
▼幼稚園側の門です。
 幼いぼくは、この門に片足を挙げてつき、「おうちに帰る」と抵抗したそうです。
 そのたびに柴田秀子先生がなだめてくださって、ぼくは園内に入ることができました。
 葬儀のあと、幼稚園の下駄箱の前でぼくに話しかけてくださった卒園生の男性によると、この門を車が入れるように拡げようという話が出るといつも、柴田秀子先生が「いえ、この門は子どもたちみんなを迎え続けてくれた門です。変えてはいけません」と仰って、そのままになっているそうです。

▼教会と幼稚園をあとにして、空港に戻る途中、ぼくは安倍総理に電話しました。
 有本さんご一家と「きょうのこと、恵子さんの帰宅にかけるみんなの思いを、あらためて総理に伝えます」と約束したからです。
 総理は深く理解され、電話の向こうで優しい顔、決意に満ちた顔をなさっているのが伝わってきました。

 そして帰京した夕方、関西テレビのある人に電話しました。
 かつて関テレのクルーと一緒に、有本さんをお訪ねし、嘉代子さんが毎晩つくられていた恵子さんのための夕食を、みんなでお裾分けで頂きました。
 びっくりするぐらいに、美味しかった。
 ぼくの神戸の知友、お菓子屋さんの社長さんが「クッキー一枚でも、気持ちが入っていると、それは美味しくなるんや」と話してくれたのを思い起こしたのでした。
 あのときの番組、映像は、これを担当した厳しい有能なディレクターが「永遠の一作です」と言ってくれていました。
 ぼくと関テレのご縁は今、断たれてしまっているけれど、どうか嘉代子さんがご健在のときにもう一度、恵子さん帰還のための番組を誰かと、他の誰かと、つくってはくれませんかと、僭越ながらお願いしました。
 視聴者のみんな、みなさんのお気持ち次第かも知れません。

★あぁ、もっともっと、いろんな話をしたい。
 みんなの眼を直に見て、一緒に話したい。
 よろしければ、ここへどうぞ。
 魂から、待っています。


 
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ご冥福をお祈りいたします。【ゆみ】
2019-10-22 20:09:39
柴田秀子先生のご冥福を心よりお祈りいたします。

青山さんにお会いしていなければ今ごろ拉致被害者の方達のご帰国は諦めていたと思います。 イベントに参加することもなかったと思います。

ブルーリボンバッジの存在も知らなかったと思うし、持つこともなかったと思います。 拉致問題の事を自分で調べたり、考えたりすることもなかったと思います。

青山さん、ありがとうございます。

空に輝く月を見ながら恵子さんも同じ月を見ておられるのだといつも思います。 1日も早くご両親の所へ帰って来て下さることをお祈りしています。 コメントが遅くなりまして申し訳ありません。
幼稚園の思い出って一生忘れないですよね。【ミミヅク】
2019-10-21 21:26:09
青山さん

 いつもありがとうございます。私は29歳社会人です。

 幼かった有本恵子さんにとっても思い出深い幼稚園、何回も見直して僕の目にも焼き付けました。

 こゝろからお悔やみ申し上げます。
私も最近【小林 朗】
2019-10-21 12:33:55
青山さんお疲れさまでした。

お悔やみ申し上げます。

先日私もお葬儀に行ってきました。ウチの奥様が新聞のおくやみ欄を見ていて社会に出たときの共通のお世話になった先輩がなくなったのを見かけて出かけてきました。行ってみると本当に久ぶりの人に引き合わせてくれます。
信頼が一層深くなりました。【卯川 達郎】
2019-10-20 18:42:43
青山さん、いつもありがとうございます。この度の幼稚園時代の恩師のご葬儀に、何を措いても駆けつけられたお姿に改めて敬服し、尊敬と信頼を厚くいたしました。本来の日本の国を取り戻すことが、今一番私たち国民に求められてことを再認識させられました。本当にありがとうございます。くれぐれもお身体を大切に、私たちの先頭に立って頑張ってくださるよう願っております。
お悔やみ申し上げます【おばちゃんです】
2019-10-20 17:52:20
青山ぎーん、
心よりお悔やみ申し上げます

柴田先生は素晴らしいお人柄でいらしたのですね

そのような方だからこそ
教え子たちの幸せを心から願い
活躍を喜び
また、教え子が受けた理不尽な暴力を悲しまれたことでしょう

ぎーんはすばらしいご両親や先生方に育まれてこられたのだと拝察いたします

そして今はぎーんご自身が、周りの人びとに恵みや影響を与えて下さる存在でいらっしゃる


私自身、幼稚園時代は遥か彼方ですが
教え導いて下さったお優しい先生方のことを
思い出すことができました
ありがとうございました
願い、祈る【Poets and Poetry】
2019-10-20 17:08:25
青山さんのブログを拝読して胸がいっぱいになりました。
拉致被害者全員の奪還を願って今日も祈ります。
【公開可】慟哭【八十嶋勇浩】
2019-10-20 16:40:37
青山さん、詳しく伝えてくださりほんとうにありがとうございます。多摩のショッピングモールで休憩しながら拝読いたしました。
増元正一さん、松本三枝さんたちご家族に続いて、またおひとり、拉致被害者と再会して抱き締めあってほしかった大切な方を喪ってしまいました。

もしも合州国国民が拉致されたのであれば、即座に、このショッピングモールのすぐ近くの横田基地からオスプレイ二、三機で誰にも知られずにひっそりと取り戻せているかもしれないのに、日本国民というだけで、なんで半世紀近くも取り戻せていないのか…?ひとりの有権者として悔しくて悔しくて溢れる涙を隠すのに必死でした。

そして、ここでも公言している、わたしが心理療法師になって、拉致被害者を取り戻す部隊に参加するために残りの人生を懸ける、という目標を達成するには時間がかかりすぎる、つまり、こういう哀しみをご家族そして日本国民が何度も経験しないといけない、ということを想ってただただ己の無力さ、愚かさを怨みました。
関テレに電話、メール致します。【きよちゃん】
2019-10-20 13:59:34
多くの拉致事件が起きた、関西にて
そんなに府民、市民の関心は高まっていない様に感じた事、数回ございます。

それは
大阪維新vs大阪自民党を取り上げる方が視聴率が伸びるからでしょうか。

「嘉代子さんがご健在のときにもう一度、恵子さん帰還のための番組を誰かと、他の誰かと、つくってはくれませんかと、僭越ながらお願いしました。」

関テレあてに要望します。
柴田秀子先生のご遺徳を偲びます【恵夫】
2019-10-20 13:50:04
青山さん
幼稚園時代の恩師を深く思う、透きとおるような美しいご文章に
威儀を正し、静かな時の流れの中で拝読いたしました。
幼稚園側の門のエピソード とても心うたれました。
柴田秀子先生の子供への慈愛深さ、教え子を大切にする教師人生。
柴田秀子先生のご遺徳を偲びました。
恵子さんを一刻も早く取り戻さなけれならないと痛感しました。
私たち国民の皆が拉致被害者「全員」の帰国を何よりも先に願っています。
安倍総理が 頼りの綱 です。
帰国が叶うまで首相の座にいてほしい気持ちで一杯です。
関西テレビで 恵子さん帰還のための番組をぜひ作ってほしいです。

私の幼稚園時代の恩師を思い出し、今頃どうしていらっしゃるかな。
魂の土台を育ててくれた先生。
日常生活【宮本(おおさか)】
2019-10-20 12:53:17
柴田秀子先生のご冥福をお祈りいたします。教会の葬儀に有本明弘さんもいらっしゃったとの事、本当に頭が下がります。独立講演会(神戸と大阪)にも参加されているお姿を実際に拝見し拉致問題は他人事ではなく現在進行形の国家による犯罪だと実感しました。青山さんの発信と尽力に感謝いたします。関テレに恵子さん帰還の為の番組を作って下さいとメールします。青山さんの幼稚園での思い出は心に沁みました。私の亡き母も宗派は違いますがキリスト教信者で私も幼少の頃は教会に通っていました。清楚な佇まいの教会や幼稚園の写真は懐かしいでした。又青山さんが「おうちに帰る」と抵抗された幼少時のお話は「青山さんでもそんな事があったんだ」と以外で微笑ましいでした。よく似たことが私と今は30代の息子との思い出にもあります。 昨日NHK BSプレミアムで「もうひとつのシルクロード・民族編、オアシスの民ウイグル」という番組が放映されていました。1980年代の新疆ウイグル自治区のウイグル族のくらし、市場、結婚式等を紹介していました。その頃の映像からは中国の人権侵害による現在の悲惨な状況は想像できません。映像の中の笑顔の若者や子供が今苦しんでいると思うと見ていてつらい気持ちになりました。日本では即位の礼に中国の王岐山国家副主席が出席し北海道も訪問するとの事。ウイグル族が40年かけて中国に侵食されほとんどの人が強制収容所に閉じ込められている事を思うと日本もお気楽に歓迎している場合ではないと思います。青山さんや護る会の皆様これからもよろしくお願いします。

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