2020-11-04 01:00:08
この日時は本エントリーを書き始めた時間です
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その日が来る その2 (このエントリーの構成を変えました)
▼この新刊書「わたしは灰猫」(扶桑社)の帯には、「18年4か月かけて書いた物語とは。」という文字があります。
その通り、平成14年、西暦2002年の3月16日に、最初の1行を記しました。
そして今年、令和2年、西暦2020年の7月25日に、最終的に脱稿しました。18年と4か月あまりです。最初の1行は、ただひとつの言葉を書き換えただけで、ほぼそのまま残しました。
▼ここまでに至る経緯は、次のようでした。
平成25年、西暦2013年の7月4日、起稿から実に11年3か月半を経て初稿をようやく脱稿。
初稿を脱稿するとは、とにかく物語の最後の1行まで、達したことです。 ( 了 ) の文字を打ち込みました。
すべてパソコンで執筆していますが、400字詰め原稿用紙に換算して173枚でした。
そこから改稿が始まり、同年7月29日、第2稿脱稿 ( 180枚 ) 。8月8日、第3稿脱稿 ( 180枚 ) 。8月18日、NYにて第4稿脱稿 ( 182枚 ) 。8月19日、帰国便の機中にて第5稿脱稿 ( 182枚 ) 。
8月30日、第6稿脱稿 ( 188枚 ) 。
実はこのあと、この原稿は数奇とも言うべき運命を辿ります。
たとえば、伝統ある文芸誌に掲載が決まっていたにもかかわらず、たまたま編集長が交代し、その新編集長がぼくのこの原稿を一切、読まないまま、前任の編集長によると「青山繁晴の原稿は掲載しない」と発言して、ボツになりました。
他の関係者の話では、「青山さんの思想的、政治的な立場が、理由になっているのではないかなと思います」ということでした。
当時のぼくはもちろん、国会議員でも何でもありません。
一方で、文芸誌であれ何であれ、編集権は、編集者にあります。書き手は寄稿するだけです。
テレビ番組の編集権がテレビ局にあるのと同じです。ぼくは地上波のテレビに参加していた時代から、芸能プロダクションなどの誘いには一切、応じず、いち番組参加者の立場を貫いていました。
だからぼくは、この新編集長に問うたりはしませんでした。
したがって、上記の関係者の推測が果たして正しいのかどうか、わかりません。
ただ、なにか重いものを口いっぱいに詰め込まれたような気がしました。
純然たる文学作品を、思想的、政治的立場の違いによって、拒絶し、しかもいちばん問題なのは、読むことも拒否する編集者が、この日本社会にいる・・・のかも知れない。
それが衝撃でした。
「かも知れない」、その可能性だけで充分にショッキングでした。
▼一方で、ぼくは『この作品そのものにとっては、もう一度おのれを励まして、見直す、書き直す、その良き機会になり得る。おまえ次第だ』と考えました。
ほぼ無理なく、こう考えたのです。
そこからの長い坂が、いちばん、苦しかった。
その頃から6年以上を経て、ことし令和2年、西暦2020年の同7月25日、ゲラ ( 出版のための仮印刷 ) にするための確定稿を脱稿しました。
400字詰め原稿用紙への換算で211枚となりました。
この歩みが新刊書の帯に記された「18年4か月」ですね。
▼しかし、ほんとうは、これで終わりじゃないのです。
この原稿がゲラになります。
ゲラになったら、あらためて、おのれの原稿に全身全霊で向き合い、かつ徹底的に突き放して、自ら酷評し、ゲラ直しに挑まねばなりません。
ぼくは、このゲラ直しをいつも、どんな原稿でも、一生懸命に、力を尽くして、おこないます。
ゲラ直しを好きではない書き手は、少なくないようです。よく、わかります。理解できます。原稿を書くときに力を出し切っていますから、今更また、原稿に向き合いたくないのでしょう。
ぼくは正直、ゲラ直しが好きです。
そりゃ、苦しいですよ。しかしちょっと愉しい。
愉しい気持ちもあるけれど、苦しいとも言えます。
▼たとえば、毎月、完全原稿を書かねばならない連載、月刊Hanadaのための長文エッセイ「澄哲録片片」 ( ちょうてつろく・へんぺん ) で申せば、初校ゲラ、再校ゲラ、念校ゲラと、句読点のひとつに至るまで見直して、見直して、書き直します。自ら、おのれの原稿に赤を入れ続けます。
念校ゲラという名称は、まさしく念のためのゲラ出しであって、ふつうはこれで終わりです。
しかし月刊Hanadaの編集者、沼尻裕兵さんは、そこで終わらないことを黙々と受け容れてくれます。
月刊誌の印刷完了の〆切は絶対の上にも絶対です。
しかし、そのプレッシャーに耐えてくれて、校正者、印刷のみなさんとの調整にも走ってくれます。
こうしてぼくは、念念校という、凄い名前のゲラになるまで、手を入れ続けることができます。
これが毎号、毎月です。
▼月刊誌ではなく新刊書であっても、いったん出版日程を決めると、版元、取次、書店と連絡、調整が進みますから、ゲラ直しの限界は厳然とあります。
それでも、「わたしは灰猫」も常識を越えて、何度も何度もゲラ直しを行いました。
最後にぼくは、「事実関係の最終確認」をやりました。
「わたしは灰猫」の登場人物には、一切モデルがいません。
そのために、すべての登場人物の人生、生涯にもモデルがありません。
そこで、物語のなかのすべての事実関係に矛盾が起きないよう、物語に実際は書かなくても、全人物の半生と生涯を時系列にして詳細に、設計しました。
初稿を書き終えるまでに、この作業を終えています。
これら事実関係を最後に確認することを終えて、「これでゲラ直しもいよいよ完了の完了だ」とおのれに告げて、分厚い念念念校ゲラをクリップで留め直したのは、令和2年、皇紀2680年、西暦2020年の10月13日火曜の早朝でした。
「これで、遂にぼくの手を離れた」
そのように、自分の記録に記しました。
▼ところが、まだあったのです。
その念念念校ゲラを版元の扶桑社に渡してから、読者、読み手の立場にもう一度だけ立ち直して、読み返すと、分かりにくいところは無いか。
これを頭にしっかり置いて、一字一句を読んでいくと、直すべきところが見つかりました。
見つかりましたが、悩みました。
「18年以上も、磨き上げてきた文章、表現、言葉を、この一瞬で直すのか。それで正しいのか」と。
それでも、すべて修正することに踏み切り、扶桑社の田中亨編集長に連絡して、「まだ間に合いますか」と聞きました。
田中さんは、気持ちよく、「間に合わせます」と言い切ってくれました。
そこで、修正したページだけをファクシミリで送りました。
それが上掲の写真です。10月16日金曜でした。
▼小説・物語は、事前にストーリーや情景が漏れてしまうのはいけません。映画のネタバレと同じです。
だから、上掲の写真では、紙を重ねています。
一番上になっている紙は、本で言うと、奥付というページです。著者名や版元の情報が記されています。ここは修正していません。
書き上げるまでに18年と4か月、そしてゲラ直しを含めて最終的な完成までには、さらに3か月近くを要したわけですね。
▼で、来ていました。
夜、出張先から自宅に戻ると、確かに「わたしは灰猫」 ( 扶桑社 ) の初版本の見本が届けられていました。
見本と呼んではいますが、みなさんがこれから手に取られるのと同じ本です。新刊書そのものです。
書籍を出版社が著者に送ってくれるとき、本が傷まないように堅いボール紙で出来た封筒で送ってくれます。
その封筒に、宛名がありません。
上の写真でお分かりいただけると思います。
扶桑社の田中亨編集長が「特別な本だから」と、ぼくが出張で留守のあいだにわざわざ、自ら届けてくださるという約束を果たされたことが、うかがえますね。
▼さ、11月4日水曜になっています。
みなさんの眼に触れるまで、あと5日です。予約してくださるかたがもしも、いらしたら、たとえばここです。
祝日は終わっています。
国会に出る支度を整えます。