On the road~青山繁晴の道すがらエッセイ~

2021-01-05 19:14:31
この日時は本エントリーを書き始めた時間です
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★和田さんの野球歴を訂正しました。【正捕手→三塁手】  かけがえのない盟友を、戦死にて、喪いました。中韓などからの無検査入国を見直す協議をして6日後、そして元旦に、海外の同胞(はらから)についてひとつの改革を協議した翌日のことです。

 その知らせをEメールで受け取ったとき、眼は文字を読んでいるのに、中身がどうしても頭と気持ちに入ってきませんでした。
「訃報」というタイトルで、急逝されたかたのお名前と役職が明記されているのに、どなたが亡くなったのか、どうしても理解できないのです。
 まったく何も理解できないなと思ったそのあとに、まず考えたのは、あ、これは外務省・総務課長の和田さんから、どなたかが亡くなった知らせを内々にもらっているんだということでした。

 それから時間を置いて、その和田さんご本人が1月2日に亡くなったという知らせを、関係者からいただいているんだと、やっと少しづつ分かってきたのでした。

▼ぼくなりに世界を歩いてきました。
 この世は、どんなにまさかと思うことでも平然と起きる、それを知っています。
 しかし、これほどまでに信じがたいことは、これまでにありません。

▼和田幸浩さん、52歳、日本国外務省において、日本外交の森羅万象に関わる総務課長です。
 和歌山に生を受け、京都大学に進み、帝大時代からの伝統を持つ京大体育会硬式野球部で捕手から三塁手にコンバートされて関西学生野球連盟リーグ戦のベストナインにまで選ばれ、そして国事への志を抱いて西暦1993年に外務省へ。
 いわゆる「キャリア」組(かつての上級職)の外交官として入省されました。
 ぼくが4年半前に国会議員となってから、同じ京大出身の国士、垂秀夫さん(現・在中国特命全権大使)が外務省の官房長だった当時に、信頼する部下として紹介されて、おつきあいが始まりました。

 亡くなったから申すのではなく、ほんとうに公平にして公正なひとであり、おたがいに言うべきことを言い合って、深い信頼のもとで、ただ国益のためにこそ、立場の違いを真正面からぶつけ合って、一緒に戦ってきました。

 日本の外交官のなかで、至宝の良心派だったのです。

 キャッチャー出身らしく、ボールを投げる立場の人間が何を考え、何を目指し、何に苦悩しているのかを、しっかりと分かってくれるのが、和田さんのいちばん和田さんらしいところでした。
 まさしく捕手出身者らしい、ガッチリした体つきでもあり、どんなに多忙なときでも疲れた様子すらなく、その和田さんの命が奪われる事態など、カケラも想像できませんでした。
 ありとあらゆる「マサカ」を事前に想像するのが、不肖ぼくの基本任務のひとつですが、和田さんの健康に関しては、異変を想像もできませんでした。

▼いいえ、武漢熱ではありません。
 関係者の連絡によれば、1月2日に脳出血で急逝されたということです。

 ぼくとも超絶の多忙を、ずっと、分かち合ってきたひとです。
 たとえば、いまだ苦しい道を歩んでいる、海外同胞への武漢熱をめぐる支援について、巨大な外務省のなかで我がこととして取り組んでくれた極めて例外的な行政官でした。
 パスポートを持ち、国内に口座をお持ちのすべての海外同胞に特別定額給付金を支給するという本来の良案を、ぼくと水面下で連携して立案してくれたのも、この和田さんでした。
 その本来あるべき案を、安倍前総理や菅総理が採用されず、味方の少ない困難な情況になったあとも、和田さんだけはずっと共に戦ってくれました。

 和田さんとは昨年12月28日に、政府内の非公式な決定として「いわゆるビジネストラックによって、無検査で入国している中韓などの11か国について、その国で変異種ウイルスの感染者が出れば入国停止となる」ことが決まったことを水面下で確認し合いました。
 ぼくは「変異種ウイルスが見つからなくとも、あるいは見つかったという情報が無くても、今すぐに、この制度を停止すべきです」という意見を表明し、和田さんは外務官僚としての節度をいつものようにきちんと守りつつも、同意する考えを、あくまで水面下として表明されました。

 そして年が明け、年始の挨拶を簡潔に交わしたあとに、ぼくから「海外の同胞が来たる総選挙で投票しやすいように、手続きを電子化も用いて画期的に簡素化しましょう」という提案を致しました。
 和田さんは、この時も現職の行政官としての節度を守りつつ、連帯を表明されました。
 ぼくは「たとえば在米邦人からは『領事館で手続きをしたくても、飛行機で行かないと最寄りの領事館に行けない。現状ではとても投票のための登録ができない』という声が、ぼくのブログに届いています」と伝え、和田さんから「承知いたしました」という返事をもらいました。

 このひとことが、永遠に最期の言葉となってしまいました。
 翌日の1月2日の急逝です。
 ぼくの携帯電話に、それが残っています。
 日本外交のほぼ全てに関わるために、どれほどまでに忙しかったか、無理をなさっていたか。
 戦死と言うほかありません。

 和田さんは間違いなく、将来の駐米大使や外務省事務次官の、すでにして有力な候補でした。
 その公平無私の精神によって、最善の日本国外交官トップとなっていくはずでした。
 日本外交にとっても、言い尽くせないほどの損失です。

 戦士に、戦死あり。

 今また、国士が逝く。

 和田幸浩さん、わだゆきひろさん、あなたは、不肖ぼくを含め、誰の胸にも生き続けます。
 ぼくらの祖国のために、和田幸浩さんにしかできない貢献をなさいました。
 残されたご家族、まだ若いご家族の今後が、いちばんの心残りだと思います。陰ながら、ぼくもささやかにお支えいたしたく存じます。





 
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