On the road~青山繁晴の道すがらエッセイ~

2021-12-31 19:25:51
この日時は本エントリーを書き始めた時間です
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狂瀾怒濤の1年を見送りつつ、想いの届くところ



▼ことし皇紀2681年、令和3年、西暦2021年が狂瀾怒濤の年であったひとは、沢山いらっしゃると考えます。
 新年となってわずか2日目の1月2日に、日本国外務省のなかで最も良心的な行政官、外交官であった和田幸浩総務課長 ( 当時 ) の突然の訃報から、始まる年となってしまいました。
 上掲の部会写真の左端で、不肖ぼく ( 右の立ち姿 ) の発言を熱心にメモされているのが、わが永遠の友、和田さんです。

 黒縁のメガネを掛けて肩がガッチリした元甲子園球児 ( 和歌山桐蔭高校 ) 、そして京都大学野球部から関西学生野球連盟リーグ戦のベストナイン ( 昭和63年 / 西暦1988年秋の三塁手 ) に選ばれたことを自ら語られることは、遂にありませんでした。
 ぼくも、和田さんの上司である垂秀夫・現駐中国大使から聞いて、その野球選手としての栄光のごくごく一部を生前に存じあげていただけです。
 垂さんが、中国共産党にも言うべきを言う、極めて稀な大使であることは、ご存じのかたも少なくないでしょう。
 その垂さんは、和田さんをほんとうに深く信頼し、ある夜、垂さん、和田さん、ぼくの3人だけの席を設けてくださいました。武漢熱がまだまったく姿を現さないときです。
 その席で「この和田は、元高校球児で・・・」と垂さんが仰っただけです。

 この強健なアスリートに突然死が襲いかかるとは。
 和田さんご本人をはじめ、いったい誰が予期したでしょうか。

 ぼくの携帯には、和田さんから今年の元旦、7時25分にいただいたショートメッセージがそのまま残っています。
「本年も何卒よろしくお願い申しあげます」とあります。
 ふだんと何も変わるところがありません。
 ぼくは「人生の名キャッチャー、信頼しています。社交辞令は申しませぬ」と返しました。
 別のところから、キャッチャーとしての名場面をすこし聴いていたからです。
 実際の和田さんは、頭脳明晰、沈着冷静な万能選手で、左翼手、三塁手、そして捕手などをみな見事にこなしておられたとのことです。

 和田さんとは、この元日の朝、海外の同胞のために、在外投票登録と在外投票の簡素化、電子化に着手することを約束し合いました。
 ほんの数分の短時間にして簡潔なやり取りだけでしたが、おたがいに、志が通じ合っていました。
 和田さんが、たったひとりで遠く、限りなく遠く去ってしまったのは、その24時間ぐらい後でしょうか。



▼この部会でも左端にいらっしゃいます。
 みんながマスクを掛けていることで分かるように、和田さんにとっても、鮮烈な外交官人生の最期は武漢熱との戦いが重いテーマでした。
 中国製の武漢熱に対峙して戦死したひとりではないかと、今こゝろ静かに、考えています。

▼和田さんと今年に取り組むと約束した、海外の同胞の在外投票登録と在外投票の簡素化、電子化の歩みはその後、和田さんの後任の三宅史人総務課長をはじめ外務省と、それから総務省の良心派の行政官と連携して、画期的な前進をみています。

▼和田さんの戦いとその死について、スポニチの内田雅也さんという編集委員が「広角追球」というコラムで、印象深い名エッセイを書いておられます。
 検索なされば、どなたでも読むことができると思います。
 その冒頭に、京大野球部のユニフォームを着て、メガネは掛けていない和田選手が、ホームへ見事な滑り込みをしている写真があります。
 著作権を重んじて、ここにはもちろん載せませんが、この内田編集委員のコラムでぜひ、この誇らざる英雄の姿をご覧になってください。

 われらが盟友、国士たる和田さん、新しい年も、あなたの不滅の志と共に歩みます。





 
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