On the road~青山繁晴の道すがらエッセイ~

2024-03-12 04:09:03
この日時は本エントリーを書き始めた時間です
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突然に人生を奪われた、すべての御霊に、魂を込めて  ( 3.11の当日にはどうしても記す気になれませんでした )



▼13年前の3月11日から始まった、福島第一原発の事故の現場です。
 事故が進行中に構内に入った専門家 ( エネルギーおよび危機管理 ) は、結局、ひとりでした。



▼亡き吉田昌郎・福島第一原発所長と、まず免震棟の所長室のドアを開いてオープンに議論し、構内のどこへ行くべきかを話し合いました。
 吉田さんは「専門家の客観的な目で、この現場を見て欲しかったので助かります。だけど・・・青山さん以外はみなさん、現場に入るどころか、福島からできるだけ遠ざかろうとするばかりです」と仰いました。
 そのお考えで、入構の許可を出してくださったのでした。

▼きのう、あのときの体感がどっと蘇ったのは、福島第一原発の構内だけではありません。
 結婚式を間近に控えた女性職員が最後まで「逃げてください。津波は思ったより大きい」と町民に呼びかけ続けてその津波に呑まれたのは、南三陸町の庁舎です。
 庁舎の中身は、想像を絶する勢いの津波にすべて持って行かれて、赤い骨組みだけでした。
 目の前の川では、たった今、車が沈んでいきます。

 膨大な瓦礫のなかを進むと、屋上に乗用車のクラウンが半身で乗っかっている五階建ての建物があります。警察官の寮だと聞きました。
 その瓦礫の中で、捜索にあたる陸上自衛官はみな、犠牲者に敬意を払うために、ガラスの破片も大量に含む瓦礫を素手で剥がしています。
 その自衛官の指揮官がわたしに語るとき、温かでいて冷静な眼をなさっていたのも忘れられません。

 避難所へ行けば、広い掲示板に、身元不明のご遺体の特徴・・・手術跡や背丈を書いた紙が一面に貼られています。そのひとつひとつを食い入るように見ていく被災者のまなざしは、悲痛苦の奥に、家族への深きも深い愛がありました。

 とても書き切れません。
 きのう、なにもかも蘇る感覚がありました。
 公務を懸命にこなしながら、胸の裡 ( うち ) はそうでした。

 今なお、2万9千人もの同胞が避難生活を強いられています。
 2万2千人以上を喪い、13年を経てもなお、2万2千人が元の人生を取り戻せない。
 深い祈りを捧げつつ、全責任がまつりごと ( 政 ) にあることを、改めて自覚し、力を尽くして取り組みを続けます。
 能登でも、全国各地でも、苦しむ同胞が溢れています。災害列島でもある祖国を、民を護れる邦にせねばなりません。

 きのう3月11日の夕刻から夜にかけ、危機管理をめぐって官民が連携するための、厳しい守秘義務のある会合に参加し、仕切り役を務めました。
 冒頭に参加者に呼びかけて、深い黙祷を捧げました。





 
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