2024-06-23 08:05:18
この日時は本エントリーを書き始めた時間です
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白梅の少女たちをはじめ沖縄戦の戦没者のみなさまに、あらためて深い畏敬と感謝を捧げます
▼きょう6月23日は、沖縄で組織的な戦闘が終わったとされる日です。
新人記者となって最初の夏休みに沖縄の戦跡を訪れ、偶然に導かれて、白梅の自決壕に出逢いました。
それからお参りを続けました。白梅、しらうめとは、沖縄県立第二高等女学校の校章でありました。
沖縄戦で、白梅学徒隊 ( 敗戦後に学徒看護隊と呼ばれた ) として、軍医が壕の中で兵士の脚を切断するとき脚を押さえるよう命じられたり、その脚を爆弾の降り注ぐなか捨てに行かされたり、戦争が始まるまえの女学生の生活からは想像もできない惨たる看護に心身を捧げ、自決に追い込まれた少女も数多くいらっしゃいました。
▼写真はいずれも、わたしがお参りし、話すべき人に話し、長い時間が経たのちに整備された「白梅の塔」です。
わたしが初めて訪れた当時は、沖縄のかたがたの多くにも、忘れられていました。
二十歳台のわたしにそう話されたのは、ウチナンチュ ( 沖縄県民 ) で高齢のタクシー運転手さんでした。
「あなた、記者なら、ウチナンチュも忘れているこの場所をみんなに伝えて欲しい」
▼最初は、このようなちいさな碑があるだけでした。
今も、敷地内に保存されています。
沖縄戦を生き延びた、かつての少女たち、白梅同窓会のみなさんと、やがてわたしは出逢うことができました。
同窓会長の中山きくさんは「ウチナンチュ ( 沖縄県民 ) からも、わたしたちのことは忘れられて、『ひめゆり学徒隊』の自決壕だけが映画になったり観光地になったりしているのに、まさか、わたしたちを追い詰めたヤマトンチュ ( 本土の日本人 ) の ( 子孫の ) なかから、わたしたちを見つける人が出るなんて」と、語られていました。
祖国の沖縄。
ウチナンチュもヤマトンチュも、等しく、永遠に、同胞です。
わたしは中山きくさんに「みなさんの同級生の死は、無駄死にではありません。みなさんの献身のおかげで、今のわたしたちは生まれることができたのです」と語りました。きくさんは耳を傾けてくださいました。
その、きくさんは、94歳で亡くなりました。
去年の1月12日夜のことです。
▼わたしは毎朝、自宅で、硫黄島の英霊をはじめ、すべて戦没者のみなさまと共に、中山きくさんと白梅学徒隊のみなさまに畏敬と感謝の祈りを捧げています。
神棚に向かいて、最初の一礼を反正天皇に、次の一礼を、硫黄島の英霊と白梅学徒隊の少女と中山きくさんと池田香美代さん ( 去年の9月22日夕刻に84歳で亡くなった、戦う女性経営者。最期までわたしを励ましてくださいました ) に祈りを捧げます。
そして最初の拍手を、すべての戦没者に捧げます。
次の拍手を、たった今、苦しんでいるすべての同胞に捧げます。
最後の一礼で、脱私即的 ( だっしそくてき。わたしの造語。わたくしを脱し本来の目的に即く ) を誓います。
議員会館の青山繁晴事務所に出ると、議員室の適所に設えた神棚に向かいて、今度はただただ、神さまに祈りを捧げて、二礼二拍手一礼をいたします。