On the road~青山繁晴の道すがらエッセイ~

2024-10-10 03:14:03
この日時は本エントリーを書き始めた時間です
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衆院解散の日に、ふたりと1匹の安倍さんにお会いしました



▼衆議院が、ありのままに申すと異様ないきさつで、解散された10月9日水曜、参議院の議員であるわたしは政治記者の時代から見たこともない異常な現場で、主権者の代理として行動し、議論し、同時進行で頭の奥の奥まで使って考えていました。
 そこから数時間のこの暮夜、その主権者に一体どうやって最初の報告をすべきか、別の頭で考えています。

▼解散の日の朝、わたしはまず国会議事堂の正面向かって右側の参議院、その分館に入りました。 ( 衆議院は左側です )
 いつもと同じくエレベーターは使わず階段を登って、経済産業委員会の理事室に向かいました。
 わたしは今、この経産委の理事を長く務めています。 ( 理事というのは、与野党それぞれの経産委員を代表して、委員会の運営ぶりを決めていく立場です )

 理事会が始まると、そこは公式な場、中立の委員長と与党理事、野党理事が、経産委のきょうの審議をどうするかを協議する場です。
 この経産委は、たとえば日本の中小零細企業をいかに守り、ともに成長するのか、あるいはたとえば日本の自前海洋資源を実用化するのか、「資源は外国から高く買い続ければいいんだ」という既得権益の圧力に屈するのか、国民と国家の命運を左右する広範な経済政策を審議する委員会です。
 その具体的な審議をどうするのかを話しあうのですから、神聖な場です。

 しかし理事会が始まるまでは、理事会室は自由な場です。
 自由民主党から共産党まで各理事が集まって、まだリラックスして話をしている最中に、わたしは「ところで、参議院も解散する ! 」と、前後の脈絡なくいきなり、申しました。
 えっ、まさかっと腰を浮かしたひともいた直後に、爆笑となりました。
 議院内閣制ですから、国会議員の理事を囲むように行政官 ( 官僚 ) のみなさんも着座しています。その謹厳実直なみなさんも、思わず噴き出し、そして委員長も大笑い。
 で、直後に定刻となり、理事会の開始。
 ビシッと静まって、緊張感のあるなか、和気あいあいと協議が進みました。

▼理事会がまとまると、委員会が始まります。
 国会は、衆議院が解散すると参議院も閉会となるので、その閉会手続きをおこないました。国会が閉じるので、法案審議はありません。

 憲法の54条に、「衆議院が解散されたときは、参議院は、同時に閉会となる。但し、内閣は、国に緊急の必要があるときは、参議院の緊急集会を求めることができる」という定めがあります。
 この緊急集会を含めて、国会の機能が、衆院解散で停止してしまうわけじゃないということが肝心です。オールドメディアの報道だけ見ていると、まるで国会が機能停止したかのようですね。それは違います。参議院の存在意義の大切なひとつです。日本のメディアは、両院制の意味をほんとうは理解していません。

 ですから、閉会手続きというのは、ただ「閉会します」という手続きではなく、「必要に応じて参議院では継続審議を行う」という手続きであることが、国民のための本分なのです。

▼終わると、急いで階段をさらに登り、今度は政府開発援助 ( ODA ) 沖縄・北方特別委員会です。
 この特別委員会では、わたしは理事ではなくヒラの委員なので、理事会が終わるのを待ちます。
 ここでも閉会手続きが委員会で完了すると、次は、行政監視委員会です。

 ここも理事ではないので、委員会開催を待つあいだ、廊下を行き交う多様な議員、与党から野党までたくさんの人を積極的につかまえて短くとも意味のある議論をします。

 自由民主党の議員とは何を話したか。
 石破総理が「非公認」の候補を、解散の直前に突如として増やし、それが全員、旧安倍派で、さらに「比例区の重複立候補」も認めないという挙に出ていることが議論になりました。
 わたしは完全無派閥ですが、旧派閥に属する有力議員が次々に「青山さん、これはいったいどういう意味なんですか」、「石破総理はいったい何を考えてる ? 」と、青ざめた表情や、怒気を鋭く含んだ語調で、聞いてこられます。

▼3つの委員会を終えて、昼まえに議員会館の青山繁晴事務所へ戻りました。
 衆議院の解散は、午後です。
 解散となっても、15日に公示となるまでは、総選挙の応援は一切おこないません。しかし、すでに応援依頼はとてもたくさん来ていて、三浦麻未・公設政策秘書をはじめ3人の公設秘書さんは、日程の調整にてんてこ舞いです。
 わたしは私設秘書を置かないので、公設秘書さんはふだんからたいへんですが、そこに総選挙の応援調整がオンしてきます。

 わたしはお昼のラーメンを手早く食べてから、秘書さんとその協議、それから「非公認」をはじめ総理が何をなさろうとしているのかの情報収集をおこなって、昼のうちに議員会館を出発しました。

▼向かった先は、安倍晋三総理の私邸です。場所などは述べません。
 奥さまの安倍昭恵さんとアポイントメントがあって、『反回想 わたしの接したもうひとりの安倍総理』を安倍昭恵さんに、そして安倍総理のご霊前にお渡しする約束になっていました。
 9月7日の発刊から、ちょうど1か月を経ての実現です。

 私邸をお訪ねするのは、ほんとうに久しぶりですが、何も雰囲気が変わっていないことに感嘆しました。
 ただ・・・安倍さんの祖父でいらっしゃる岸信介元総理、お父さまの安倍晋太郎元幹事長に加えて、安倍晋三元総理ご本人、そして母堂の安倍洋子さんまで、すべてのかたがたが写真の中のひとになられていて、悲しみが胸を噛みました。

 わたしが民間の専門家時代に安倍総理をこの私邸にお訪ねした時は、岸元総理と安倍晋太郎元幹事長だけがそうでありました。
 岸さんとはまったくお会いしたことがなく、安倍晋太郎さんは、『反回想 わたしの接したもうひとりの安倍総理』の冒頭にあるように、毅然と最期を迎えようとされていた順天堂大学病院で、記者団の前に立たれたときが最初でした。
 その安倍晋太郎さんの背後にひっそり佇んでいた青年が、安倍晋三さんだったのです。

 わたしは国会議員となってからは、この私邸には一度もうかがっていません。
 総理の私邸訪問は側近議員とされるかたがたのなさることで、不肖わたしと安倍さんのお付き合い、友情は、すこし違っていました。いい悪いでは、もちろんありません。生き方の違いというだけです。
 安倍さんはそれを良く理解してくださっていました。

▼わたしと再会してくださった安倍昭恵さんは、目が澄んでおられます。
 非痛苦に立ち向かい、たとえばインドを訪問されて、モディ首相と会談されたり、国事にも奔走されています。

 公私ない交ぜの会話は、意外なほど弾みました。
 わたしはやがて、『反回想 わたしの接したもうひとりの安倍総理』を2冊、とりだし、僭越ながらサインを致しました。
 日付を皇紀で記し、あて名を大きく書き、おのれの名前をいちばん小さく記し、そのまえに何かひとことを書くのは、いつもの通りです。

 まず、1冊、安倍昭恵さんに「脱私即的」 ( だっしそくてき ) と記しました。
 なぜ、このちいさな座右の銘をわたしが生み出したか、そのごく私的な経緯を安倍昭恵さんは興味を持って聞いてくださいました。
 ちなみに、安倍昭恵さんはショートメールで「総裁選、出てほしかった」という趣旨のひとことをくださったことがあります。推薦人を集めきれなくて、あらためて、みなみなさまに申し訳ない。

 次の1冊は、安倍総理にあてて、さぁ何を記すかです。
 わたしはしばらく考えた末に、こゝろのままに「これからも一緒に生きていきます」と、まるで安倍さんに話しかけるように、書いてしまいました。

 そのとき、安倍昭恵さんのようすに、おそらくわたしが生涯、忘れることのない変化、変化という言い方はなにか硬くて冷たくて言いたくないのですが、具体的には決して書かないのでやむを得ません、それが、ありました。
 安倍晋三内閣総理大臣閣下と、日本のファーストレディが、どれほど深い絆、愛情、信頼で結ばれていたか、ありありと伝わりました。

 みなさん、日本の信頼はここにあります。

 家庭での安倍さんと、不肖わたしとに共通するところがあることも、感じました。
 しかしそれは、あまりにも僭越なので、中身は記しません。

▼そのあとも、お話は意外なほどに弾み、お手伝いさんが、なんとお汁粉を出してくださいました。
 それが絶品、甘さもほどよく、お椀やお箸などしつらえも完璧で、お茶もぴったりの日本の味でした。

 最後に、お手伝いさんに写真を撮っていただくことになり、安倍昭恵さんは、この個人ブログへのアップも、あっさりと、しかし確実に、認めてくださいました。
 そのとき、わたしはワンちゃんの同席も願いました。
 安倍総理とも一緒に生きたワンちゃんだと聞きましたから。

 昭恵さんは「だけど、この子、抱かれるのを嫌がるから」と仰り、これも誠に僭越ながら、わたしが手を差し伸べると、わたしの顔を間近に見上げながら、ソファに乗ってくれました。



▼安倍昭恵さん、そして安倍さんの後継議員である吉田真次代議士 ( 衆院当選1回、護る会の一員 ) と3人で、またお会いすることを約束して、おいとまをしました。
 安倍昭恵さんは、吉田代議士の後援会長です。

 そういえば昭恵さんは、「青山さんは、献金もなく、パーティもなく、よくやっていけますね」と仰いました。
 そうです、わたしはそれに後援会も支持団体もありませぬ。
「よくご存じですね」と申すと、「だって、動画をいつも見ていますから。面白くて楽しいです」と昭恵さんらしい明るい表情で仰いました。

▼安倍総理の私邸から、まず議員会館の青山繁晴事務所へ戻り、そこから国会議事堂の自由民主党の控え室へ行きました。
 議員総会です。
 議員総会のあと、本会議に臨み、最近に亡くなられた参議院議員に議長が弔詞を読まれるのにあわせて全会派で弔意を表明したあと、国会の閉会手続きの最後を終えました。

 議員会館へ戻り、農水省とすこし議論したあと、来年7月の参議院議員選挙で全国比例の自由民主党公認を受けた、護る会前副代表の長尾敬・元代議士と、わたしの今後の応援について協議しました。
 そのあと、東京大学のゼミ長 ( 東大工学系の学生 ) と、今後のゼミの運営や大学祭での講演について協議しました。

 この合間、合間に、石破総理のかつてない行動について情報を集め続けました。
 要は、同じ自由民主党議員のなかにスケープゴートをつくり、世論の転換を期待する戦術だと考えるほかありません。
 池に落ちそうな犬の頭を叩くこと、だとすれば、たとえばわたしは、死ぬまで絶対にやらないことです。
 会員制レポートの東京コンフィデンシャル・レポート ( TCR ) に公平を心がけて記しました。
 無条件の発信としても、「青山繁晴チャンネル☆ぼくらの国会」の次回収録 ( 総選挙関連でさらに忙しくなりますが、10月16日あたりに、収録のできるスキマ時間を見つけたいと準備中 ) で、やはり客観・公平を心がけて、ちゃんと述べます。
 その「青山繁晴チャンネル☆ぼくらの国会」の最新放送も、ゆうべアップされています。
 これです。
 内向きばかり、国内ばかりでは、いけません。
 世界を日本込みで破壊に導きつつある、中東の武力衝突をめぐって、わたしたちがいちばん考えるべきことを考えています。
 数十秒で完結するショート動画は、これが最新です。
 石破総理が、家族会の反対を押し切ってまで、北朝鮮との連絡事務所を置こうとしている問題です。

▼東大のゼミ長との協議を終わると、東京駅へ向かいました。
 新潟の沖合で自前資源の海洋調査をおこなっている実験船に、経産省エネ庁のキャリア幹部らが初めて、訪れるという画期的な変化があり、そのために青山千春・東京海洋大学特任准教授が新潟へ出張していました。
 青山千春博士と東京駅で落ち合い、車中にて、政府を改革し、自前資源を実用化できる日本に変えるための協議をしました。
 青山千春は、明日に新潟へトンボ帰りして、また乗船です。ふたたび、陸に居なくなります。

 そのあとわたしには、総選挙をめぐって議論の申し入れがあり、深夜まで協議しました。
 そして、あっという間に日付が変わりました。

 国会議員とプロフェッショナルな作家とを兼ねるというのは、原稿を書く時間を捻り出すことと、気持ちの切り替えが不可欠です。
 気持ちの切り替えは、実は、簡単にできます。と言うより、昼間もどんどん何度も切り替えて、さまざまなことを実行しています。「夜が深々と更けないと原稿を書く気になれません」なんていうことは元々ないのです。
 新しい原稿にすでに、着手しています。
 今度ぐらいは、すこしは愉しんで書きたいなぁ。『反回想 わたしの接したもうひとりの安倍総理』の執筆と仕上げは、生き地獄でしたから。

 安倍昭恵さん、魂から、ありがとうございました。
 このエントリーを読んでくださったみなさん、やっぱり魂から、ありがとうございます。一緒に、やろうね。






 
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