2025-06-02 21:50:11
この日時は本エントリーを書き始めた時間です
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きょう6月2日は父の命日です

ここは本来、ぼくの自由な個人ブログです。
私的なことを書くときもあります。
▼母がかつて手渡してくれた家族アルバムに残る、父の姿です。
左から2人目、繊維会社の社長です。父は業界団体の長も務めましたが、その前の時代ではないかと思います。詳しいことは、末っ子のぼくには分かりません。
父の左右は繊維会社の役員です。
いちばん右は、社長車の運転手さんです。父が「あなたも入れ」と写真に招いたのではないかと思います。
そして父と役員の3人は礼装を着用していて、母が「これはお正月」と言っていたのを記憶していますから、京都の嵐山で繊維会社の新年行事をおこなったときの写真でしょうね。
▼その父は、67歳の現役社長のとき、国立のある著名な病院で、医療過誤によって突然に命を奪われました。
わたしは、共同通信の大阪支社の経済部から東京本社の政治部に異動したばかりで、政治記者として初めての夜回り取材に出ていたとき、当時みんなが使っていたポケットベルが鳴りました。
雨のなか、公衆電話ボックスに入って政治部に電話すると、筆頭デスクに「青山くん、お父さんが亡くなったよ」と、いきなり言われました。
父が入院していることは知っていたけど、死ぬような病気ではまったく無かったので、わたしはデスクの言葉の意味が分からず、聞き返しました。
すると筆頭デスクは「だからっ、お父さんが亡くなったんだよ」と突き放すように言って、ガチャッと電話を切られました。
このデスクは、ごく冷静で誠実なお人柄です。政治部の仕事がそれだけ忙しく、厳しかったということです。
幼い男児ふたりと、それに現在の青山千春・東京海洋大学特任准教授の4人家族で、新幹線に乗って、急ぎ実家に向かいました。
途中、みんなで食べようとアイスクリームを買ったとき、涙が吹きこぼれました。
父がアイスクリームを好きだったからです。
『おれは、父にアイスクリームひとつ買ってない。なにひとつ、親孝行をしていない』と泣けて泣けて、びっくりしている子供たちの前で、どうにも止まりませんでした。
▼実家に帰ると、父が、白装束でもの言わず寝かされていました。
母が、ちいさくなって、横に座っていました。
「お母さん、この白装束は・・・」と聞きました。
ぼくの大学の卒業が近づくとき、夜半に庭の松の木の上に浮かんでいた長身で長い髪の女性と同じ白装束だったからです。
その不思議な女性の一件を知っている母は淡々と「これは青山家の人間が亡くなったときに着ると決まってる着物や。青山の家紋の透かしが入ってる」と答えました。
その後、自宅で行われた葬儀は、庭にもどこにも参列者が溢れました。
お棺に最後の釘を、家族のひとりとして打つとき、ふたたび大泣きをしてしまいました。
参列者には、繊維業界の人が多く、わたしが経済記者のとき繊維を担当していた当時にお会いしていた、業界団体の幹部もいました。「あなたは、青山社長の息子さんだったのですか」と驚かれていました。
葬儀までの忙しいさなか、家を継ぐ兄とわたしは、国立病院を医療過誤で訴えるどうか協議しました。
しかし母が、何もしないよう求めたので、協議もやめました。
▼わたしは末っ子なので、家は継がない、継げないと決まっていました。
むしろそのためだと思います、父はわたしに本音や、面白い意見をよく話してくれました。
1972年の沖縄返還と日米繊維交渉を結びつけて「日本は、縄を買って、糸を売った。日本の繊維はこれで終わりや」と言いました。
父は自社の経営は路線を切り替えつつ、繊維業界のためにはその後も力を尽くして、命を奪われるまで、苦闘を続けました。
急死のあと、テレビの横の棚に、父の古びた時計、そして手帳が置いてありました。
手帳には、会社の経営と、業界の維持のために苦しみ抜く言葉が満ちていました。
どなたもそうでしょう。
亡くなったお父さんやお母さんに会いたいですよね。
わたしの母は、その後に短くはない時間を生きて、91歳で世を去りました。
母の葬儀を末っ子のわたしが喪主となって東京でとりおこなう前夜に、白い死に装束の裾がわたしの自宅の台所に入っていくのを見ました。
だから、ひょっとしたら身近に居てくれるのかも知れません。もしもそうなら会いたいです。
しかし父のあの飄々とした背中は、すくなくとも身近には居ない気がします。
だから父に会いたい、切実に会いたいです。