On the road~青山繁晴の道すがらエッセイ~

2011-06-26 09:44:12

東へ

▼今、ふたたび東北新幹線の車中にあって、被災地へ向かっています。
 きょうは原子力災害の福島県ではなく、宮城県の南三陸町に入ります。

 先日、神戸で行った東日本大震災チャリティ講演会(独立講演会の記念すべき第1回でもありました…)で、集まった義援金を、南三陸町の佐藤仁町長に直接、手渡すためです。
 現金は、町の口座に振り込み、佐藤町長には、ぼくが記した目録をお渡しします。

 きょう、夜明けのころに、目録に毛筆で「義援金 参百万六千四百円」と記したときは、いささかの感慨がありました。
 みなみなさまの志のおかげで、300万円を超える義援金をお渡しできます。
(すべての収支を、このブログでもあらためて公開します)


▼きのうの土曜日は、独研(独立総合研究所)が発行している会員制レポートに個人の資格で加わってくださっているみなさんと「懇話会」を開き、夜10時まえぐらいだったかな?、その頃に帰宅して、ソファで知らぬうちにすこしだけ仮眠したあと、徹夜で「インディペンデント・クラブ」の会員証に、会員のかたがたのお名前を手書きで入れていきました。
 インディペンデント・クラブは、7月1日から初めて活動を開始します。
 独研の総務部長代理でもある青山千春博士の発案で、300人の会員の会員証すべてに、ぼくがお会員の名前を記すことにしたのです。

 それを終えて今朝、ひとりでロータス(という公道を走れるレーシング・カー)を運転して東京駅に向かうときは、ごく元気でした。運転するのは、うれしいですからね。
 しかし駐車場に停めて、東京駅に歩いて行くとき、思いのほか深い疲れも感じました。

 去年の12月1日から、三つの病をくぐり抜けて、最後に四つ目の病の腸閉塞で入院中に、大震災が発生し、そのまま3か月、走り続けてきました。
 病は、さしたる努力もなく克服しましたが、体力は依然、元には戻っていません。
 ぼくを死の淵から二度、救ってくれた、町の名医さん(開業医)は「青山さん、それは病気のせいじゃなく、大腸癌を切ったときの全身麻酔のせいです。全身の機能をいったん全停止しましたからね、ふつうは休んでいないと、倒れます。きっと、何をしていても、ごろりと寝転びたくなるでしょう」とおっしゃいました。
 さすがの名医、その通りです。

 東京駅に渡る横断歩道の上で、けさ、ゴロ寝したくなったぐらいですから。
 ふひ。


▼神戸のチャリティ講演会では、想像を超えて「参加したい」という申し出をいただきました。その数の多さに正直、すこし驚きました。
 そこで、みなさんの志に応えるためと、すこしでも沢山の義援金を南三陸町の被災者にお渡ししたいという気持ちから、6時間の講演をいたしました。
 当初の予定では3時間の講演でした。
 これでも短くはありませんが、さらに講演会を第1部の3時間と、第2部の3時間のダブルにして参加できるかたを2倍にし、ぼくは実質的に6時間ぶっ通しでやるということになりました。

 6時間、立ちっぱなしで講演しっぱなし、というのは、いくら何でも初めてだったので、講演終了後は、ほんのすこしですが膝が笑いかけていました。喉はもちろん、潰れました。
 それでも、被災の大きさに比べれば、300万円はきっと、わずかな足しにしかなりません。
 しかし、ほんとうは講演会を8時間、10時間やってでも、参加を申し込まれたかたがた全員と、お会いしたかったです。
 体力が戻っていなくても、その気持ちはほんとうです。
 みなさんは、みんなは、ひとりひとり、素晴らしいです。


▼よくご承知のように、南三陸町では、結婚式を控えていた遠藤未希さんと、町役場でその上司であった三浦毅さんのおふたりが、みずからの危険を顧みず、最後の最後まで「津波が来ます。逃げてください」と町民に呼びかける放送を続けて、ふたりとも津波にさらわれました。

 それはそのまま、たとえば沖縄の白梅学徒看護隊の少女たちと、硫黄島の英霊のかたがたの姿に重なります。
 沖縄は、3日前の6月23日に、66回目の沖縄戦終結の日を迎えました。
 やがて、66回目の敗戦記念日もやって来ます。

 慰霊の祈りとともに、すべての、まっすぐ真ん中の愛国者の御魂(みたま)とともに、わたしたちのたった一つの祖国の新生を期したいと思います。

 新幹線の窓から、緑なす日本の山々と田畑がみえています。
 福島原子力災害の地の山と田畑にも、町民と村民に戻ってもらわねばなりません。



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