On the road~青山繁晴の道すがらエッセイ~

2006-04-03 04:14:16

個を生きる     *アメリカ短期出張 その2





 アメリカの首都ワシントンDCから、プロペラ機で30分ほど南へさがったあたり、シャーロッツヴィルという美しい街にいます。
 ここのヴァージニア大学の会議場などを使って、テロに立ち向かうための国際会議が開かれます。

 アメリカ東海岸へ向かうとき、ぼくがいつも乗る飛行機は、陽のあるうちはひたすら太平洋の上を飛び、アメリカ大陸に入るころは真っ暗です。
 だから、あまり外は見ません。
 ヨーロッパへ向かうときは、陽のなかでシベリア上空を飛ぶので、白い大地に大河がうねり、吹雪がすさぶなかで軍事基地らしいものが見えますから、外に目を凝らします。
 だけど、アメリカ東海岸行きでは、仕事のパソコン画面と、機内テレビの映画ばかりです。

 今回はふと、飛行機がアラスカのジュノー上空あたりを過ぎるとき、窓のカバーを開いて夜空を見ました。
 凄絶なまでの数の星が埋め尽くしていました。

 日本を発つとき、成田空港の混雑のなかでまたしても体験したバッドマナーのことを、すこし考えました。

 パスポート・コントロールのカウンターへ向かう列のなかで、自分のグループだけで騒ぎ、止まってしまって進まなかったり、肩を人にぶつけても気づかなかったり、後ろへ下がり、横へ広がり、自分たちの集団以外は「人」ではないように振る舞う、ひとびと。

 ところが、どのひとも一人でいるときは間違いなく、善良で礼儀正しいのだろうと思うのです。

 わたしたち日本国民は、なぜ集団、グループになると、外の人が見えなくなるのか。
 マナーの問題だけでは済まない、根の深い問題に繋がっているのかも知れません。
 そしてこれは、日本国民だけではありません。
 ぼくが海外で体験する限りで言えば、中国や韓国といったアジアのひとびとに、怖いぐらいに共通しています。
 ぼくは、集団で海外を旅している日本、中国、韓国の人々をみると、とりあえず逃げ出してしまいます。
 ぼくも日本国民、アジアの一員なのにね。
 それほどまでに、集団になったときの振る舞いが、ひどい、恥ずかしい。

 わたしたちは一体、何者なんでしょうか。
 個人では生きられないのでしょうか。

 独立総合研究所、この名前にある「独立」、INDEPENDENCYには、さまざまな意味を込めています。
 ここに述べたことも、関係があります。
基本的には、「いかなるヒモも付いていないシンクタンク、いかなる利害関係からも自由に、自立して、社会と祖国と世界に、ささやかに寄与するシンクタンク」という意味です。
 だけども、もっと、に・ん・げ・ん的な意味合いも、ほんとうは、こっそりと込めているのです。
 そして、わたしたち日本国民ひとりひとりの自立があって初めて、この祖国のほんとうの独立もあるのではないでしょうか、という問題提起も、込めています。

 この独研には、政府や自治体、民間企業から出向や研修の形で、人材を受け入れる制度があります。
 そのなかに、沖縄電力から1年間の研修で来ている32歳の女性がいます。
 沖縄電力では、会長秘書や、アメリカ軍への営業などで実績を積んできた実力派ですが、ぼくはこの人を見ていて、いつも胸の奥で感嘆するのは、個で生きていることです。
 しっかりと、てらいなく、おのれの足だけで立っている、歩いているから、集団やグループに入っても、まったく何も変わりません。
 誰に対しても、ごくさらりと、しかし浅くはない思いやりを持って接しています。

 こんな日本国民が登場してきたのだから、成田空港をはじめ公共の場で、どれほどのバッドマナーが繰り返されていても、まぁ、大丈夫なのかも知れません。

 それにしても、どんな育ち方をしたら、沖縄から来た彼女のように、なるのでしょうか。
 その謎を知りたいのですが、彼女の話からは、ごくふつうの家庭の姿が浮かぶだけです。

 ご両親の工夫と努力の「成果」なのか、それとも天のくださった「奇跡」なのか。
 はてさて。



 写真は、その沖縄でぼくが撮った、道ばたの花です。
 うしろの葉っぱを見て分かるように、ごく自然に咲いた花です。


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